一の五 六道、「首なし美人亭」で一晩を過ごす(前)

 宿は、繁華街の最奥、外壁沿いの道と丁字路をなす手前にあった。猥雑な臭いのする典型的な曖昧宿かと予想していた六道だったが、その予想は見事に外れた。

 壁は真白く塗られており、横幅は他の店の倍はある。入り口は開いているので奥が見えるのだが、奥行きも倍ありそうだった。その上三階建てときている。

 入り口の上のひさしには、頭部のない女の看板が吊されていた。

 ――これぞ首なし美人亭、ってな。首がないのになぜ美人とわかる、野暮は言っちゃあいけないよ。


 中に入ると、六道は素早く周囲に目を走らせた。一階の大半は清潔感のある食堂になっており、これはタブガチの客棧(かくざん)という宿屋に近い。左奥が厨房になっていて、正面奥に二階への階段があった。

 食堂には二人がけの飯台が適度な距離を置いて並べられているが、右側で剣を帯びた三人の男たちがそれを三つ繋げて食事をしていた。それぞれ隣に女を侍らせている。

 厨房とこちらを隔てる壁には、長い一枚板に複数の脚を付け壁に固定した板席がある。そちらは誰もいない。


「お一人様、ごあんなあい!」

 オパチという女は機嫌よく厨房に声をかけ、そのまま六道を階段近くの席まで案内した。

「このまま私がついていていいですか? それとも、お食事中はお一人で?」

 ずだ袋を足元に下ろすと、オパチは自然な動きで空いた右手に自分の手を重ねてきた。


「……む」

 六道は少し困惑した。彼女の行為にではない。曖昧宿の接客はおおむねこんなものだ。それよりも、触れられることで疲れた心が癒やされていくような感覚があった。

 いや、ただ隣にいるだけでも充分に感じられる。無意識に他者を和ませる癒やしの気とでも言えばいいのか、ドブジンの持っていたものとはまったく正反対だ。

 そしてそれは、死んだアフラシアとよく似ていた。


 今すぐこの感覚に身を委ねたくなる誘惑に六道は耐えた。木樽を再利用した腰掛けに座り、優しく微笑むオパチに顔を向けて言った。

「姐さんがいてくれりゃ嬉しいが、我慢できなくなりそうだからな。一人でいいよ」

 冗談めかしてにやりと笑うと、オパチも笑ってやだもう旦那さんたらぁ、と六道の手首を掴んでぶんぶん振った。


「旦那さんて、見かけによらずお世辞がお上手なんですね。今お品書きお持ちしますね」

「いやいや、素直に本当のことを言っただけさ。今はまだ酒だけでいい」

「ほんとですかぁ? 葡萄酒、アンズ酒、石榴酒と揃えていますけど、どうしましょ」

「ほんとだって。なら杏酒にしておくか。それとつまみ、葡萄や棗の干したのがあれば。そんなもんでいいかな」

「はぁい。すぐお持ちしますね」

 オパチは六道の右手を両手で包むように握ると、弾むように厨房に向かっていった。働き者の荒れた手から伝わる温もりが、やけに心に沁みた。


 六道は長衣デールを脱ぎ、向かいの腰掛けに置いた。オパチはすぐに戻ってきた。盆の上に、陶製の脚付杯とつまみの入った小皿が乗っている。

 外套は控室ででも脱いだのだろうが、そのせいなのか胴衣のつくりなのか、胸元がやけに強調されて見える。


「お待たせしましたぁ。ごゆっくりどうぞ」

「ああ。ありがとさん」

「……旦那さん? 私の顔じゃなくて胸見て言ってません?」

「気のせいです」

「だったら顔上げてください」


 言われて顔を上げると、わざとらしく頬を膨らませたオパチと目が合った。そのまましばし見つめ合い、そしてどちらからともなく吹き出した。

「いやあ、おもしれえ姐さんもいたもんだぜ」

「旦那さんほどじゃないですよぅだ」

 言い返して、オパチはまたけらけら笑った。


 ――会ったばっかりだってのに、もう昔からの付き合いみてえな気がしやがる。これじゃ勘違いした客に言い寄られることも多かろうぜ。ま、そうなれば用心棒みてえなのが奥から出てくるだろうがよ。

 六道は微かに笑い、オパチに尋ねた。

「飲んだら部屋に行きてえんだが、後で夕飯持ってきてもらうことはできるかい?」

「大丈夫ですよ。呼んでいただければ、すぐご案内しますね」


 オパチが再び奥へ姿を消すと、六道は杯を口に運んだ。曖昧宿で出てくる酒とは思えないほど、杏の甘酸っぱい香りが鼻を衝く。相当儲かっているようだ。

 一人になったことで、先客の声がよく聞こえてくる。女たちの嬌声から察するに、さかりのついた男たちが尻やら脚やらを撫で回しているようだった。


 ――当たり前だが、感傷に浸る場所じゃねえな。

 六道は手早く杯と小皿を片付け、立ち上がった。厨房脇の通路に向かってオパチを呼ぶ。すぐに奥の仕切り布が開き、散歩の時間を待ちわびていた犬のような顔でやってくるのが見えた。

 オパチは店に来た時と同じように六道の腕を抱くと、背伸びをして耳元で二人っきりですね。楽しみ。と囁いた。その声はひどく甘く、蠱惑的に聞こえた。


 六道も木石ではない。まして今は人肌恋しさが募っている。黙って腕に当たる感触を楽しんでおけと頭の中の自分が言う。しかしそれでも、彼女に好意を持っているからこそ訊いておきたかった。

「こんな案内の仕方は初めてなんだが、この店じゃこうしろって言われてんのかい?」

 階段を上がる途中で尋ねる。オパチは何のことか解らない様子だったが、すぐに思い至ったようでそういうのじゃないですよと首を振った。


「この方が、男の人に喜んでもらえるかと思って。……ご迷惑でした?」

「まさか。ああいや、余計な気を回しちまったみてえだな。すまねえ」

 六道が詫びると、オパチは叱られた犬の顔から再び華やいだ笑顔になった。六道の腕を強く抱き、旦那さんは優しいですね、と安心しきった声で言った。

「何言ってんだか。優しいもんかよ、俺が」

「男の人って、だいたいがっついてますもん。こういうお店だから仕方ないですけど」

 六道は答えなかった。

 答えられなかった。


 二階に上がると、目の前に三階への階段があり、右手の廊下を挟んで個室が並んでいた。オパチは斜め前の部屋の扉を開け、ここが私の部屋ですと言った。

 部屋は二丈(4.6m)四方ほどで、すぐ左に大人二人が寝られそうな寝台があった。上に畳んだ毛布が何枚か重ねられている。私の部屋ということはいつもここで客と寝ているのだろうが、その割に男女の営みの臭いはしなかった。


 床には絨毯が敷かれ、真ん中に大きな虎皮の敷物があった。左奥には衣装棚と食事のための膳が見える。

 正面には、壁際に台座とそこに置かれた亀形のランプ。甲羅の上部から油を入れるのだろう。長い首は雄々しく反り返り、頭は天を衝いていた。

 虎皮の敷物とランプの形を除けば、曖昧宿の家具としてはこんなものだろう。しかし六道には、やけに寒々として見えた。


 オパチが敷物の真ん中まで膳を動かす間にずだ袋と長衣デールを床に置き、木の板を紐で繋いだ品書きにざっと目を通す。手早く丸めて彼女に渡し、平たく伸ばしたパンと野菜の炒め物、それに川魚の串焼きを頼んだ。

「あとは、姐さんのおっきな肉饅頭だな」

「それは夜のお楽しみ、でしょ? 逃げませんから大丈夫ですよ」

 オパチは甘えるように体を寄せてから、名残惜しそうに手を振って出て行った。


 一人になると、六道は寝台にもたれるように座った。毛布を一枚取り、体を覆う。首飾りを外してそっとずだ袋の中に入れ、寝台の下に押し込んだ。ただの感傷と言ってしまえばそれまでなのだが、つけたまま他の女を抱こうとするのは心がとがめる。


 ――やっぱり、あの振り手が厄介だな。

 六道は、天井を見上げて唸った。振り手にしてもドブジンにしても、一対一なら後れは取らない自信はある。しかし、二人同時に相手をしたら? いや、振り手がドブジンを逃がすために立ち回ったら? 奴を逃がせば、最悪、捕り方に追われることにもなりかねない。そうなれば期限内にランペルたちを助けられなくなる。

 ――領主ディフカーンが連中をどう思っているかだな。牙まで抜かれちまったか、それとも……。


 六道のような無頼の者は、自身の思うところに従いこそすれ、社会の正義、法の正義にはおいそれとは従わない。それどころか、理由があれば平然と牙をむく。権力者からすればどうにも扱いづらい厄介者だ。

 六道は権力者に恨みを持っている訳ではないが、法の正義で救える範囲はそれほど広くないと思っている。そういう意味では、あまり彼らを信頼していない。

 一方で、あくどく儲けたお裾分けを権力者に渡すことで、持ちつ持たれつの関係を築いている者もいる。ドブジンなどは明らかにその類だ。


 ――そこを明日確かめねえとな。場合によっては、手を組むこともあるだろうが。

 できることなら彼らに関わることなく片をつけたいが、贅沢を言えるだけの猶予はない。目的のためには、己の感情など小さなことだ。

 六道は自分に言い聞かせると、絨毯に横たわった。


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「首なし美人亭」の名称は、『クロちゃんのRPG千夜一夜 4』(黒田幸弘・著 富士見文庫)より拝借させていただきました。

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