第3話 脳低温療法
11月21日(日)
AM7:00
ハルにラインする。
『ハル、おはよう。今日はどんな感じ? 倒れてから40時間くらいたったよ。今、何処にいるの? ちゃんと身体の中にいてね。少しずつでも、身体が動いて、意識が戻る事を祈っているよ。早くハルに会って触れたいです』
久しぶりに、長く眠れた。でも、夢は見なかった。夫は、まだ眠っている。
朝ご飯の支度をしようと思い、冷蔵庫を開けると、麦茶が減っていない。食べ物も。ハルがいないと、いろいろなモノが減らない。我が家は、ハルのリクエストで、沸かすタイプの麦茶を常備している。学校にも水筒に入れて持って行くので、一日一回は、麦茶を沸かしていた。それも、ハルが倒れてから、やっていない。
昨日、パート先の上司に送ったメールの内容が、同僚にも伝わっているかどうか、同僚の一人にラインで確認したら、届いていないとの事。おそらく、上司の所で滞っているか、自宅のパソコンから送信したから、迷惑メールと思われ削除されてしまったのかも。それで、パート間のグループラインに、昨日送信した文章を添付して送った。そしたら、次々と同僚から、お見舞いのラインが届いた。皆さんに私の状況が伝わっていなくて、心配されていた様子で、申し訳なく思う。シフトも負担させてしまったし。とても働きやすい環境で、好きな仕事だったので、こんな形で、突然退職する事になり、自分の人生に驚いている。こんな事がおこるなんて、まったく思っていなかったから。
AM8:30
心配するだろうと思って、なかなか言えなかったけれど、やっと母にこの事を報告しようと思い、電話をするが、出なかった。ホットする。
AM9:30
家の電話がなった。「病院からかも!」と思って飛びついて出たら、学校の体育の先生からだった。この先生は学年主任でもある。「ハルのお見舞いに病院に行きたい、私と夫にもご挨拶に伺いたい」との事だった。
今のハルの状況は、昨日お話してある。HCUにいて、コロナの感染予防の事もあり、親でも会えないのに、会える筈ないじゃん、と思う。それに、私も夫も、自宅待機中で、何も手につかない気持ちで、病院からの状況報告をドキドキしながら待っている状態なのに、挨拶にこられてもね・・・・と思い、お断りした。
先生と言う職業も、大変だなと思う。こういう事って、先生の意思と言うよりは、学校のルールやマニュアルでもあるんだろうな。
この文章をパソコンに入力し、一旦、歯磨きをしようと思って、立ち上がった。その時、急に、ハルの事が胸にこみ上げてきて、涙が出てきた。救急処理室のベッドに横たわる、意識のないハルの姿が浮かぶ。あの姿を見た時「もしかしたら、もう、意識は戻らないのでは」と思った。その場では、怖くて、口に出しては言えなかったけれど。
ふっと、旅行に行った時の事が、頭のスクリーンに映し出された。清流の近くを散歩していて、嬉しくてはしゃいでいたハル。絶対に足を滑らせて靴がぬれるだろう…と思っていた矢先に、足を滑らせ靴をぬらした事。楽しい思い出なのに、涙が出た。もう、あんな事はできないかも、と思って。
マイナス思考にしかなれなくて、気持ちを紛らわせる為に何かをしたい。そうだ〝脳低温療法を始めてから何時間経過したか〟という事がわかるものを、エクセル(表計算ソフト)で作成しよう。
今、ハルがして頂いている治療は、脳低温療法というモノ。脳は、大きな障害を受けた際に脳組織が浮腫し、頭蓋骨の中で脳の圧力が上がり、損傷を受けていない脳細胞まで破壊されていく。この破壊の進行を押さえる為に、ある程度の時間低体温にして、損傷を最低限に抑える。その後、徐々に体温を上げていくと言う治療法。ハルの場合、72時間低体温を維持し、その後、どれだけ脳が損傷されているかを調べるとの事。「72時間」、それが一つの目安だった。
医学の事は、良くわからないけれど、パソコンで言うと、フリーズした時に一度電源を落として、数分後に立ち上げると、また復活するが、それと似た様な事なのかなと、私は勝手に解釈していた。パソコンだと、無事に復活する事もあるが、今やっていた作業が全部消えている事もあるし、一部の機能が使えなくなる場合もある。そして、全く作動しない事もある。希に、今までより、調子が良くなる事もある。
とにかく、マイナス思考にならない様に、頭を働かそうと思って、エクセルで計算式を考える。私には、この計算式を作るのは難しい事だったので、頭を使っている間は、少し気が紛れた。でも「頭を使っている間は少し気が紛れた」と思う事は、やはり、その事が頭から離れないと言う事にもなる。そう、何をしていても、ハルの事が頭から離れることはないのだ。
AM11:00
再度、母に電話をする。出た。いつも通り、元気な様子だ。これから老人会の作品展の撤収作業に行くとの事だったので、
「じゃあ、夜、また電話するね」
と言うと、
「何? 気になるから、今、話して」
と言うので、告げた。
聞きながら、涙をこらえている様子の母。私も、タオルで目を押さえながら淡々と話した。
「わかった。祈っているから。貴方も頑張ってね」
と言ってくれた。
涙が出るので、また、エクセルに戻る。
夫の部屋から、うめき声なのか、ため息なのか、苦しそうな声が聞こえてきたので、
「大丈夫? 気持ちが紛れるから、エクセルで計算式を考えてみない?」
と言うと、
「そんな事で気が紛れるの?」
と言われる。
「紛れないけれど、何かしてないと、苦しいから」
と答える。
PM12:00
今日も半分が終わった。倒れてからは約46時間経過。まだ、46時間? もっと、長く感じる。病院からは連絡がない。
元来、ハルは、眠ったら、なかなか目を覚まさない子だ。お腹にいる時から。何かの本で読んだのだが「朝、起きられない子供に対して、目覚まし時計を幾つも用意するよりも、名前を呼んだ方が効果がある」らしい。だから、時々、ベランダから声を出して「ハル、ハル、起きて!」と言う。ハルの魂に、この声が届くように、と。
今の私の現状(ハルがHCUにいて、連絡が来るのを待っている)は、仕事の同僚と、一緒にボランティア活動をしている友人には、ラインなどで報告した。その他には、この事を知っているのは、私の両親と妹達と、ハルの親友のママ。その人達から、時々、慰めや励ましのラインが届く。とにかく皆さんが、「祈っているから」と言って下さっている。ありがたい。本当に、今は、祈る事しか出来ないので。
病院の救急処理室の控え室で、何が何だか解らなくて、気持ちが動揺していて、早くハルを見て、確認したい。もしかしたら、何かの間違えかも知れないし・・・・と思っている時に「サインをお願いします」と渡された同意書を、再確認する。9枚もあった。「もしも・・・・」の事がたくさん書いてあって、怖くて熟読できなかった。
PM12:30
母から電話。
「知り合いの方も、大変な病気になったけれど、しっかりした病院で治療してもらって良くなったと言っていたから、ハルも、大丈夫だよ。大きい病院なんでしょ?」
心配する母を安心させる為に、
「大丈夫。ちゃんとした大きい病院で、集中治療室で診て頂いているから」
と、希望がある部分だけを話す。
PM1:00
夫に、
「病院に電話して、様子を聞くって、ダメかなあ」
と言ってみたら、
「やめな」
と言われた。
午後は、ずっと泣きっぱなし。あまりにも、暗い事ばかり考えてしまうので、夫に
「何か希望が持てる事を言って」
と言ってみたが、夫も押し黙っていた。
涙が止まらないので、テレビを付けてみた。日曜日の午後。何も考えず、ハルとの思い出がない番組は・・・・といろいろなチャンネルを押してみた。相撲が一番無難そうだったので、音を消しながら、映像だけを流す。
家の中にいても、ハルのモノが多すぎて、何処を見ても涙がでるし、何も手に着かないので、自分で何か希望を探そうと思い、今、ハルがして頂いている「脳低温療法」と言う治療法の事をネットで調べてみた。
すると「もしかしたら」と言う希望が見えてきた。この治療法は、仮死状態などで生まれてきた新生児では良くされる治療の様だ。他にも、元F一ドライバーのシューマッハ氏や、サッカー日本代表監督だったイビチャ・オシム氏なども治療を経験され、一命を取り留めているとの事だ。
ふと、パソコンの画面から顔を上げたら、以前、ハルが書いた「希望の朝」と言うお習字が目に入った。そうだ、希望だ! でも、また、暫くしたら、不安が襲ってきて、気持ちが負けちゃうんだろうな・・・・。
『病院から連絡がない』と言う事に対して考える。「変化がない」か「安定している」のどちらかだろう。何かあったら、直ぐに電話が入るはず。それも、怖いが、様子を聞きたい。「変わらないです」でも良い。電話・・・・かかってきて欲しいけど、怖い。
PM5:00
夕飯を作る。冷蔵庫にあったラーメンと、冷凍餃子。私には、今日、初めての食事らしい食事。ちゃんと食べないと・・・・と思っていたけれど「ああ、ハル、ラーメン好きなんだよね」と思ったら、悲しくなって半分で食べられなくなった。
食後、お風呂に入り、洗濯をする。昨日も、今日も、洗濯の量が少ない。
その後、すごく喉が渇いて、お水を何杯も飲む。そう言えば、今日は、水分もあまりとっていなかったなあ。ハルは、点滴で栄養を入れてもらっているのかなあ。痩せっぽちのハルが、もっと痩せちゃうな。
パソコンで、また、脳低温療法の事を検索する。誰かの体験談が読みたかったけれど、あまりなかった。
妹からラインが来た。ハルが入院している病院まで、車で行って道を確認してくれたらしい。「何かの時は、送迎するから連絡ちょうだいね」と。明日は、何か食事も持ってきてくれるとの事。それから、妹の所に、母から電話があって、ハルの病院にお見舞いに行きたいと言っていたらしいので「それは無理だよ」と諭してくれた様だった。
PM9:00
ベッドに入って、横になる。ウトウトしていたら、携帯がなった。また、母からだ。「ちゃんと眠れてる? 食事もとれてる?」と言う様な内容。「大丈夫。もう少ししたら、病院に行くから」と言って切る。
PM11:30
夫と、車で、ハルの所に向かう。外は、雨。冷たい雨だ。ハルは、寒くないかな?
今夜も、近くのパーキングに車を止めて、病院を見つめながら、ハルに語りかけた。
車の中で、夫に、
「ハルが今、してもらっている脳低温療法って、どう思う? 最終的な手段って事なのかなあ?」
「最終的っていうか、それしかないって事なんじゃない」
「高齢者だったら、手の施しようがなくて、何も出来ない状況だったけど、ハルはま だ若いから、ダメ元でやってくれているのかな?」
「・・・・(答えにこまっている夫)」
「でも、病院の先生は、ハルって、自分で呼吸しているって言っていたよね?」
「うん、自己呼吸はしているけど、治療の為に呼吸器をいれるって言っていたと思うよ」
心臓も、呼吸も自力で動いている、という事実を確認したかった私。
AM1:00
帰宅。コンビニで買ったおにぎりを食べ、夫は、自室に入っていった。私は、これを書いている。
昔から「丑三つ時に亡くなる人が多い」とか「潮が引く時、亡くなる人が多い」と聞く。なので、2時台が怖い。3時になったら、ベッドに入ろう。ハルのベッドに。
WPW症候群とは(素人の私の、大雑把な説明です)
通常、心臓には、電気刺激を伝える通り道が一本ある。この正常な通り道の他に、別の道がある状態をWPW症候群と言う。先天的なもので、この余計な道の事を、副伝導路(ケント束)と言う。主な症状としては、不整脈・頻脈・疲労感・動悸・息切れ・不安感・上室性頻拍等で、自覚症状がない人もいる。希に、突然不整脈を起こし、死に至る事もある。治療方法としては、カテーテルアブレーション治療というものがある。これは、足の付け根からカテーテルを挿入し、心臓へと進め、副電導路を焼灼(しょうしゃく:焼きとること)すると言うもので、ほぼ根治する事ができる。
ハルが罹患しているこの病気は、小学校2年生の時に、スイミングスクールに入会する時の健康診断で発覚した。その後は、国立医療センターで、年に一回の診察を、中学3年生まで続けていた。その時の主治医には、
「この病気は、殆どの人が自覚症状なく寿命を終える。概ねの割合で言うと罹患者の10人中8人がそのまま。1人が知らないうちに治っている。1人は、死亡。死亡の人は、他にも心臓に疾患がある人が多いから、まあ、ハル君の場合は、そんなに神経質にならなくても大丈夫。だけど、もし、心拍が激しくなったら、直ぐに救急車を呼んで、心電図をとる必要がある。でも、突然、心臓が止まるって事は、あまりないから。運動も、普通にやっていいよ」
と言われていたので、特に怖い病気ではないと思い、神経質になる事もなく、体育の授業も皆と一緒に受けていたし、スイミングにも通っていた。中学では水泳部にも所属していて、何事もなく普通に暮らしていた。
年一回の検診では、運動(踏み台昇降を3分間行う)の前後に心電図をとって頂いていたが、運動後に波形が激しくなる様な事はなく、日常生活でも、自覚症状はなく、突然倒れたり、動悸や息切れを起こす事はなかったので、中学3年生の時に、主治医に「もう、そろそろこの検診は卒業してもいいね。もし、何かあったら、その時に来て下さい」と言われていた。
もしかして、今回の、突然の心肺停止とWPW症候群は、関係しているんだろうか?(この時点でも、私は、原因がWPW症候群とは思っていなかった。ハルは、全く症状がなかったので。それよりも、立ちくらみが続いていた事で、何か別の病気が原因なのでは? と思っていた)
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