第17話 褌担ぎの房吉

  



 翌日房吉は明神下の金澤町の割長屋の一角を借りると、損料屋から必要な所帯道具を借りて運び入れた。            

此処は多岐との念願の愛の巣と言う訳だ。 

 夕方振り売りが入れ代わり立ち代わり売りに来た。

このように晩飯のおかずも売りに来ることが分かったが、今日の所は屋敷に戻らなければならなかったので味噌や醤油に油売りからは行燈用の菜種油を買うに止めた。

 この日は本郷邸へと戻った。

翌朝衣類などを行李に詰めて一部引っ越した。そして途中でそばを搔っ込んで、深川の川並部屋に大山里を迎えに行った。

「師匠ゆっくりいらっしゃれば良かったのに

どうしたんです?」

 多岐は嬉しさを隠してそう言う。

「何を言うか。おいらは小結大山里関の褌担ぎだ」

 と言って明け荷を担いで見せた。

「お戯れを…」

 付き人の困惑顔を見ながら笑ったが、房吉は至って真面目であった。

「千寿、お前は握り飯と飲み物を持って行きなさい。儂が明け荷を担いで行くから」

 千寿は戸惑いの表情で関取を見ている。

「言われた通りにしなさい」

「分かりました」

 出発前に千寿は大山里の髪を整えた。

他の力士らは島田髷の変形であったが、大山里だけは根下り兵庫に似た髷であった。

 鴫原岩や花の山の後について歩いた。

富岡八幡宮の対岸から仙臺堀に出て大川沿いを行く。

新大橋の袂を歩いている時、子供が駆け寄って来て叫んだ。

「青龍のおじさんだ」

 と房吉を指しながら何度もそう呼んだ。

勇者とも言える力士が荷物を担いで女力士に従っている姿は実に奇妙と言えた。

「あの女は大山里だろ、何で濱田川がその明け荷を担いでいるんだい」

「明け荷って何」

 と、その子が訊く。

「ふんどしが入っているんだよ」

「ふんどし?」

「そうだ褌を担いでいるんだよ」

 房吉は立ち止まってその子にそう話して聞かせた。

「それっておじさんの?」

 と屈託ない質問に思わず、

「知りたけりゃ後でおとっあんとでも回向院に見においで」 

 と冗談のつもりで言って、その場を後にしたのであった。

 一つ目之橋を渡る辺りで両國橋を渡って来る人の群れが見えた。そのまま真っ直ぐ来れば回向院であった。

どうやら初っ端から大入りが出そうな感じで期待が持てた。

 支度小屋に入ると大山里が不安そうにしているので、具合でも悪いのかと訊くと、暫く片屋入りをしていなかったというのである。



理由はとも角、流れを確認すると問題なく出来るので化粧まわしを着けてやると、千尋が傍に居るというのに房吉に抱き着いたのである。

 驚いたの千寿であった。

何時も毅然とした態度の姉弟子が男に抱き着いて如何やら泣いて居るようなので吃驚した。

「心配要らぬよ多岐、何時ものようにやればいいのだ」

 房吉が去った後、大山里は片屋入りをやらなくなったのである。

会頭や部屋の親方に再三促されたが、化粧まわしを着けようとはしなかったのだ。

勿論その理由について何も話さなかった。

そんな訳で三年ぶりの片屋入りなのだ。

「朱雀を思いっきり羽搏かせてみることだな」

 房吉は大山里を思いっきり抱きしめて外に出て行った。

 女力業の人気が低迷したのは大山里が片屋入りをやらなくなった所為とは断言できないが、無関係とも言えなかった。


 房吉が木戸番の若いしと話をしていると、

「おじちゃん」

 と新大橋で声をかけてきた子供がにっこり笑って立っていた。

「おぅ坊来たか」

「うん」素直ないい子だった。

「誰と来た?、父ちゃんとか」

「母ちゃんと」

 見れば何処かで下働きでもしていそうなみすぼらしい身なりで、腰を折るように深々とお辞儀をするのだった。

「坊の名は何という?」

「虎だよ」

「分かり易いいい名だ、ちょっと待って居な」

 房吉は財布から百五十文出すと、

「要らねえすよ。虎坊おっかさんとゆっくり見て来な」

 木戸番の三ツ矢が房吉に札銭を返すと、腕白坊主と母親に札を渡して中に入れた。

「坊主に見せて良いものかどうかは解からないけど、姉さんたちの真剣勝負を見て貰いたいと思ってさ」

 この男見た目はちゃらんぽらんに見えるが、こうして話をしてみると意外としっかりした考えを持って居た。

「三ツ矢、此処で幾ら貰ってる?」

「二朱か多い時で三朱でさぁ」

「それでは暮らせまい」

「へい、これは暇つぶしでして」

「では稼業は何だね」

「鳶でさぁ、此処の小屋掛けやら、お寺や神社でやる芝居小屋を掛けたり、火事になりゃ火消しと結構忙しいんですよ」

「そうか、なら良いが」

 房吉はこの男の気っ風の良さを知って居たので気になる存在ではあった。


 先刻大山里の準備を終えて木戸口に来た時、三ツ矢が二人の与太を相手に言い合っていたのである。

陰でその遣り取りを聞いてみると、二人が札銭を払わないで中に入ろうとしたようであった。それを三ツ矢が咎めたのである。

「おぅあんちゃんよ、誰のお陰で商売してると思ってんだ」

 懐に手を入れて男が与太る。

「そんなこたぁあっしには関係ねえ。札銭百文払って頂きゃ良いんです。他のお客様の邪魔をしねえで下さい」

 与太が入り口で騒いで塞いでるもので、入れないで遠巻きに成り行きを見守っていた。

其処で房吉がぬうっと姿を見せた。

「あっ濱田川だ」

 やきもきしながら成り行きを見守っていた江戸っ子の間から歓声が上がった。

「待ってました大関」

 何時からか濱田川の登場時にはこう声が掛かった。

「濱田川!あっ、あの時の…」

 与太者二人は青い顔して逃げ出した。

房吉も思い出した。

浅草に多岐(大山里)と出かけた折、与太者と出くわして四、五人を投げ飛ばしたことがあったが、この時の内の二人であった。

「世話役助かりました」

「お前さんも大したものだよ」

 これが鳶の三ツ矢との出会いであった。


 大山里の片屋入りも終わったようなので小屋へと戻ると、多岐は満足げであった。

上手く演武で来たようだ。

「今場所終えたらやめるわ、良いでしょ」

「いいとも!」

 大山里の片屋入りが復活したことで連日大入りとなって千秋楽を迎えた。

回向院の門前や門内に大勢の人が佇んでいた。

 何事かと思ったら大山里と明け荷を担ぐ濱田川の姿を間近に見ようとする人々であった。入り口にある火の見やぐらの上から声をかける者がいた。

見るとあの木戸番の三ツ矢と腕白坊主の虎のようであった。

虎は櫓から身を乗り出して危険なので三ツ矢が片手で押えながら下に手を振っていた。


 この日の朱雀の舞は最高の出来と言えた。

房吉は大山里を愛しい女としてではなく、一人の武芸者の演武として一挙手一投足を見ていた。

 大山里の白い肌が桃色に染まり両手の動きがまるで広げた羽のように見えた。

歓声も何時しか溜息に変わる程鮮やかであった。

戦績も七勝一敗で優勝したのだから正に有終の美を飾ったと言える。

 打ち上げは本所の妙源寺で行なうとのことで門に向かって歩いて行くと、大山里の引退を惜しむ支援者らが帰らずに待って居た。

二人が姿を見せると取り囲んで口々にやめるなと嬉しい激励の言葉をもらったのである。

だが決段を覆すことはなかった。

大山里は取り囲む人々に丁寧にお辞儀をして一行の後を追った。御蔵橋を渡ろうとしたその時、

「おじちゃん」と子供の呼び声に振り向くと、虎とその母親が追いかけて来たのである。

立ち止まって待つていると、

「おじちゃん相撲を見せてくれてありがとう。面白かったよ」

「そりゃ良かった」

 母親が息を切らせながら追いついて来ると腰を屈めて礼を言った。

「姉さん、おはま姉さんじゃない?」

 多岐がその女に声をかけると、女は驚いたように多岐を見た。

「お多岐かい」

 十歳程上の姉であった。

二人は路上でしっかりと抱き合った。

倅の虎は状況を理解できず、キョトンとして見ていた。

 長屋の連中が打ち上げの支度を済ませて待って居た。

房吉は当初遠慮したが役員らの勧めもあって大山里の付き人として同行して来たのだが、その大山里の姉のはまとその倅虎とで縁側に座っていると、長屋のかみさんたちが箱膳を用意して呉れたのである。

はまは嬉しくてすすり泣く。

「母ちゃんどうしたの」

 と虎は心配そうに覗き込む。

「何でも無いよ」

 其処に川並部屋の関脇艶錦がやって来ると、

「あんたお多岐の姉さんだそうだね、その子が倅だね、ご亭主の職業は?」

 聞けば亭主は虎が二つの時に亡くなって女手一つで育てたというのである。

 そして今は無職だというので、そこで艶錦は賄い婦としてはまを子連れで住み込みとして雇ったのである。

 はまと虎改め寅吉は翌日から川並部屋での生活が始まった。

十五人分の食事の支度は朝と晩、間に浴衣を洗い、部屋の掃除を熟す。この辺りは寅吉も手伝った。

これまでは力士らが交代でやっていたことだが、専業者が出来るとその分稽古に励み、休息の時間も出来た。

 はまは朝から晩まで目一杯働いて給金は月五百文であった。

家賃無しの二食付きだから手当としては十分であった。



 明神下の金澤町の割長屋に所帯を持った房吉は多岐の手製の弁当を持って出仕した。

明神下から茅町に出て不忍の池沿いに富山松平家の屋敷横の坂道を上がって行くと直ぐに作事門があった。

大概の番士は無表情に迎えたが、一人年配の番士だけが、

「おひんなりさんで…」

 と、朝の出仕を気持ちよく迎えてくれたのである。

 そんなこともあって、この牧田伊衛門の時だけ土産を買って持って行った。

余裕のある時に伊衛門の話だと以前国元では地域相撲に出たことがあるとかで相撲が好きだと言った。そして濱田川の信望者でもあったのだ。

 其処から入って奥御殿、育徳園の外側を回って相撲部屋のある御貸小屋に入った。

当時はお抱え力士が多かった。無論濱田川もその一人であったが、順調に往けば大関間違いなしと目されていたがなれなかった。

禁じ手云々は口実でまさに強過ぎたのである。

相撲部屋より大名お抱えの力士がまかり通った時代である。



 扨て一方の女力業(女相撲)はと言うと、大山里が引退した後関脇の鴫原岩が玄武の舞と称して長寿と不死の亀と生殖と繁殖を現す蛇を表現したというが迫力に欠け、動作も何を表現しているのか解らなくて不評であった。

 新弟子も増えたのは良いが確りした指導者がいない為取組によっては全く相手にならなかったり、抱き着いたまま押し合いしてるだけの技の無い抱き合い相撲に成り下がってしまったのである。

当然のことながら入場者は減り、札銭の上りは減少したのである。

 このままでは立ち行かなくなるので、到頭最後の手を打つことにしたのである。



   


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