第15話 人生の分岐点

 


 力士たちは冬場所(十一月場所)に向けて自主稽古となるが、赤坂場所後二日間は休息日として力士たちは自由に過ごした。

 十六日房吉は多岐(大山里)と石原町の大川端で落ち合い、芝飯倉神明宮の祭礼に出かけた。

偶然なのか、二人は同じような縦縞模様の綿入れを着ていた。

両國橋を渡って右手に柳橋を見て左に折れると、橘町通旅篭町、田所町で人形町通りから、芝居小屋の連なる繁華街を抜けて日本橋へと出た。

 流石は江戸の中心街だけあって往来は賑わっていた。

ここから東海道で京橋、芝口橋を通って神明町と濱松町の間の道を右に折れると、飯倉神明宮の入り口である総門が神明前通りに面してあった。

 軒提灯のきじょうちんの掛かった前通りを歩いてみると、雑貨、駄菓子屋、草履や草鞋などの履き物屋に臨時の出店が呼び物の生姜を並べて売っていた。

境内に入ると茶屋や小間物を売る出店があり、此処にも生姜が並んでいた。

 其の小間物を売る店先で売り子が多岐に声をかけて甘酒を注いで寄こした。

「甘酒も売ってるの?」

 と訊くと、昨日と今日は無料で提供しているのだという。

 房吉と多岐は遠慮なく飲んだが行き交う者たちは子供連れ以外は立ち止まることなく通り過ぎていった。

遠慮してというより散々家で飲んで来たものだから飲まなかったのである。

 何もここで買うことも無かったのだが、生姜を買った序に白粉や口紅、糠入ぬかいりの袋など買ったは良いが、参詣には邪魔であった。

 すると主人らしき男が奥から顔を出すと、

「参詣が御済で無いのでしたらお預かりしておきますので、お帰りに御寄り下さい関取」

 如何やら正体はばれていたようだ。

そりゃあそうだ。混雑する道中を二人揃って歩いて居れば目立たぬわけがない。

 房吉が身の丈六尺(百八十センチ)、目方は三十八貫目(百四十二・五キロ)で、大山里が身の丈五尺四寸(百六十三センチ)の目方は二十八貫目(百五キロ)の巨漢なのだから…。

「それではお願いするよ」

「ヘイどうぞごゆっくり」

 と送り出されて混雑する参道を奥へと進む。鳥居、楼門を潜って拝殿までは多少かかったが参拝して横に逸れると茶屋の先に揚弓屋が連なってあり、客は上がって的矢で遊んでいた。其の横には矢取り女がいた。

「師匠も遊びたい?」

「多岐が居るのに必要ないだろう」

 と房吉も大人の会話をするようになって居た。

先輩力士から聞いた話では矢取り女の中には色を売る者も居て、それが目的で的矢に遊びに来る連中も多かったのだ。

その隣にちょっとした料理を出す二階建てのお休み処があった。

その横本殿までの間の広場に相撲小屋が建てられるのである。

 本殿の後ろを通って行くと、三代将軍家光公が目に入ったゴミをここの水で洗って治癒したといい、その際老朽化していた社殿等を建て直したのである。

それ以来眼病平癒や道中の無事安全祈願の参詣者が増えたという。

 その由緒ある池泉を回り込んで行くと、幟や旗が沢山立てられた芝居小屋があった。

間口八間奥行十間ばかりというから然程広くはないが子供向けの芝居や絡繰からくり芸などを見せて繁盛して居たのである。

 その芝居小屋の手前池泉の東側には、大人も子供も楽しめる掘っ立て小屋の吹矢があった。

 来月は当地で勧進相撲が開催されるのだが、その時の込み具合と今の込み具合は些か異質であることが分かる。

どう違うかというと場所中の社内の人の出は女子供より男が遥かに多く目立った。

 現在はというと恒例のお祭りなので老若男女が犇いている状態であった。

 勧進相撲は見物人同士の争いごとが多かった為に女人の見物を許さず、偶に千秋楽のみ入場させることがあった。

それは人気力士の居ない前相撲の取組においてのみ許可したものだった。

 房吉は女相撲に於いては酒を飲んでる者の入場はさせなかったが女人の入場制限はしなかった。

 お祭りではないが、身分や男女の差別なく武芸を楽しんで貰いたいと考えてのことである。決して単なる見世物であってはならなかったのだ。

 房吉がそんなことを考えている時、

「濱田川と女力士の大山里だ」のひそひそ話が聞こえて来た。

 二人とも片屋入りで知られていたのと、その抜きんでた体格からして隠れようがなかったのである。

 結構気さくに声をかける者も居た。

曲芸などの大道芸をゆっくり見て廻りたかったが、いつの間にか取り囲まれて声をかけられるようになると、そうしてられなくなったので、早々にして社外に出ると、店に寄って預けた品を受け取ると日本橋方面へと戻って行った。

 途中八丁堀でゆっくりして、新井町の宿舎まで送ろうとすると、大川橋の袂まででいいと言うので、そこで直ぐに橋を渡って帰るつもりだったが名残惜しくなって暫く話し込んだ。

「生姜を持って帰ったら」

 多岐は包みから全部取り出そうとしたので、

「一束だけ貰うよ。後は皆で食べな」

 と言って橋賃を払って対岸へと渡った。

 


 御貸小屋に戻ると綾錦が顔を出して、会所からの話を伝えに来たのである。

「会所の年寄り達の意見として、お前に復帰する意思があるなら無期限出場停止を解くと言うのだよ。但しその場合は女相撲との関係を完全に断つことが条件だ。

二、三日中に返事が欲しいとのことだが、お前の好きなようにするがいい」


 突然このようなことを言って来たのには理由があった。

本日房吉は多岐と連れ立って飯倉神明宮に出かけて行ったのは周知の如くだが、この時相撲愛好者らが声をかけて来たのを偶々十月場所の打ち合わせに来ていた相撲会所の役員たちが二人に群がる参詣者らの姿を見て、濱田川が依然人気者として呼び込む力を持っていることを認識したものだった。

 房吉は相撲が男であれ女であれ盛んになることを望んで居たので、女相撲に関わらない訳にはいかず、この飯倉場所を最後として片屋入りのみ受諾したのである。

 飯倉神明社のお祭りはだらだら祭りと言われるほど十六日が過ぎても人々は境内に押し寄せた。無論出店もそのままで撤去する気配はなかった。

 先達ての打ち合わせではこのまま下旬まで続いても困るので、廿一日を以て終了して貰い、冬場所開催の準備に取り掛かる手筈を確認したものであった。



 十月朔日飯倉場所初日に前田家所属の出場力士は房吉を含めて三人であった。

関脇綾錦爲衛門に片屋入りの濱田川房吉、今一人は幕下の綾戸川政吉であった。

後は前相撲が二人いるだけで、相撲部屋に移籍してしまったのである。

政吉と他二人は手木足軽衆に属し、相撲衆を兼ねて仕事をしていた。

 この日綾錦らは前相撲の音也と浪平を連れて、時折寒風の吹く中を荷車に明け荷を積んで飯倉に向かった。

東海道を宇田川町、神明町、濱松町とやって来ると、増上寺の大門に向かい、神明前通りを過ぎて直ぐの路地を右に曲がって惣門手前の路地から中に入った。

 拝殿の大屋根の手前側に葦簀張りの相撲小屋が見えた。

茶屋伝いに小屋の裏手に回って控えに荷物を下ろして会所に挨拶に行くと、既に太刀川が詰めていたが、未だ下役しか来て居ないからと、六人で直ぐ横の茶屋に入った。

「濱田川よ、一回きりと断ったそうだが、そうなると復帰の道は無くなるがそれでもいいのかい」

 太刀川おおとがわは房吉を下總國馬加しもうさのくにまくわりから連れてきた張本人であったので、正道を歩んで居ればとっくに関脇か大関になっていたのだが、どうした訳か女相撲の発展に尽力したのである。

 会所側から見ればそれは外道であったので認める訳にはいかなかったのだ。

「女相撲を外道と見做す理由が解りません。裸がいけないと言うならば、男とて同じでしょう。儒教の男尊女卑は決して正しい教えとは思えませぬ」

 ついこの間まで子供であった房吉が親方らに説教じみたことを言うのを聞いて、政吉もただ相撲を取るだけに明け暮れている自分を恥じた。

 聞けば女力士でも剛力や業師がいるらしい。迂闊に挑めば打ちのめされてしまいかねない程力をつけてきているようだった。

此れも濱田川の功績に因るものである。


 房吉の堅い意思を確認すると、太刀川は先に茶屋を出て行った。

如何やら観客の入場も始まったようなので、二人は支度にかかった。

 濱田川にしてみれば一世一代最後の大舞台である。

 会頭の初日挨拶が済むと、呼び出しに続いて行司、濱田川が続いて花道に出てきた。

「待ってました大関ー」

 まるで千両役者の登場である。

順当に行けば間違いなく大関になったであろう房吉が、依怙地なほど信念を貫き通そうとしたのだ。


 蹲踞の姿勢から拍手を二度打つと、両手をゆっくり拡げて足を高く上げての四股を踏む。体が柔らかいのと、その体を一本で支える足腰の強靭さは何時ものことながら見応えがあった。

四股を踏むたび、場内からヨイショの声が上がる。

 身体を沈ませた位置から摺り足で両手を繰り出しながら迫り上がって行く。

濱田川の形相が全く普段と違って身の毛が弥立つ程の恐ろしい形相であった。

 中腰の姿勢から仮想の相手をもろ手突きし、ドンとぶつかる形から左手を下手に右手を上手への四つ身の体制を取ると、身体を反らして抱え投げる禁じ業を演じて見せた。

この時の形相こそまさに鬼の面であった。


 観客は濱田川の演武に狂喜した。

濱田川はゆっくりと下がると、丁寧にお辞儀して土俵を下りた。

四日目、六日目が雨で順延となった為千秋楽は十一日に行われた。

この日は優勝戦もあり、大いに盛り上がった。この場所の勝者は松江松平家のお抱え力士であった。

 綾錦爲衛門は五勝三敗、幕下の政吉は体調不良の為休場して零勝三敗で終わった。

濱田川は全日程を全力で熟すと、江戸会所の登録から完全抹消された。

青龍の片屋入り演武は濱田川の引退と共に消滅してしまった。

 力士を引退した濱田三郎房吉は前田家の力士の指導者の一人であり、手木衆らの関わる普請事業の補佐として重要な役割を担っていたのである。

そして房吉個人の活動として女力業おんなちからわざの世話役があった。

これについては親方の綾錦爲衛門や頭取の中郷源四郎の了解のもとに活動できたのである。

 その中郷源四郎の父親が病の為亡くなった為急遽国許に帰参することになった。

「濱田お主に頼みがある」

 と言って艶錦(きみ)への書状を託されたのであった。

源四郎は明後日にも金澤に発つ予定とのことで房吉は翌日、本所新井町の宿舎に行き、きみに源四郎から預かった書状を渡すと読みながら涙を零すのだった。

 部屋で多岐が来るのを待って居ると、きみが泣きながら入って来た。

「國へ帰るっていうの。迎えに来るから待って居ろと…」

 戻って来るという確証は無い。

「きみさん、行ってしまう前に会ったら良いじゃないか。言付けることがあるかね」

 房吉は二人が赤坂場所以来親しくなったことは承知していたが、程度は分からなかった。

二人の様子からすると気の置けない仲であることには違いなかったのでそう言ったのだが…。

 きみは黙って部屋を出て行った。

 房吉は多岐に力士として完全引退を報告すると、多岐は自分だけの世話役を提案したのである。

「源四郎さまが国許に戻られた後任に誰がなるかは未だ分からないが、何れにせよその方の補佐をしなければなるまい。それに多岐には長く続けて欲しくないでな」

 多岐にしても思いは同じであったが、冬場所、春場所の二場所は出場の約束をしていた為反古ほごには出来ない。

その上でなければ引退は出来なかったのである。


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