第9話 本所の女相撲

  



 中郷源四郎も相撲頭取の役目があったので、相撲衆の御貸小屋に頻繁に顔出しするようになった。

房吉は望み通り綾錦のもとに戻って居たが、時には中郷の警護にも就いた。

 そんな訳で忙しくなると半端ではなかった。場所になると、弟子が居ると言うのに明け荷を担ぎ、これが江戸っ子らの話題になったものだ。

「房吉お前がやらなくてもいいだろうに」

 仲間の関取らが揶揄い半分声をかけるのだった。

 

 十月場所は富岡八幡宮と決まった。

そのひと月ちょっと前の八月下旬、房吉は綾錦のお供で外出した。

外出時の用向きは十月場所の打合せとしてあるが、それは頭取の中郷源四郎が既に打合せ済みであったが、単なる息抜きの理由にして中郷から許可を得てのものであった。

 房吉も段々と師匠の外出目的が何であるかが分かるようになって、「何方へ」等と野暮なことは聞かないようにしていた。

 この日の待ち合わせ場所は意外と近かった。

神田明神社の鳥居を潜ったところで待って居たのである。

勿論お相手は奥女中のお多美でお付き女中の紗代が一緒に居た。

「お詣りしてお茶でも飲んでから行こう」

 楼門を潜ると荘厳な造りの本殿があった。

四人は自然二人ずつとなって、房吉と紗代は主人達の後に従って境内を進む。

本殿にてそれぞれが思いのままにお詣りすると東側にある水茶屋に入ってお茶を飲んだ。

「此処からの眺めは絶景だな」

 綾錦は誰に言うでなく呟くと、

「まあ大川やその先の海まで見えますのね」

 お多美は大層愉しそうであった。

「房吉七つ半(十七時)には此処に戻れ、それまで二人で好きにして来なさい」

 綾錦は房吉の財布に八十文程流し込んだ。

三十文ぐらいしか入っていないことを見越して小遣いを呉れたのである。

「遅れるなよ」

 と言ってお多美と一緒に男坂を下りて行った。

紗代は羨ましそうにそれを見送ると、

「房ちゃん何処へ連れて行ってくれるの」

 強請ねだるように房吉の袖を引く。

「姉ちゃんは何処に行きたいのさ」

 房吉には女の気持ちなど解かりもしなかったので、

「そうだ房ちゃん相撲を見に行こうか」

 突然妙なことを言いだした。

「姉ちゃん十月だからまだ先だよ」

「莫迦ねえ何も知らないんだから…」

「バカバカ言うなよ、地相撲でも見ようっての?」

「黙って付いて来て、屹度興奮するわよ」

 てなわけで昌平橋を渡って柳原通を浅草御門の方へと向かった。

御門を過ぎて両國廣小路を両國橋へと向い、本所へと渡った。

「回向院に何しに行くの」

「行けば分かるわよ」

 紗代は房吉の手を引く様に表門を潜った。すれ違う参詣者らには、二人の組み合わせが余程奇異に見えるらしく立ち止まって見ていた。

確かに男は六尺豊かな大男で体格も良いし、腰には刀を差しているところからどうやら力士と見ているに違いないし、女は五尺に満たないが何処かの武家屋敷に奉公して居るお女中のように見えたに違いない。

 抑々この場所に力士がくること自体不自然であったのだ。

何故なら紗代が連れて来たこの回向院の境内では江戸っ子に人気の女相撲が行われていたのである。

池の向こう側に葦簀張りの小屋のようなものがあった。

 札銭は紗代が払った。

木戸番が房吉を見て何やら意味あり気に笑ったのだが、この二人は気にも留めなかった。木戸番は房吉を見て直ぐに力士の濱田川と分かったのである。

二人が落ち着く先を見届けると、木戸番を他の者と代わって興行主のもとへ知らせに行ったのである。

「あの濱田川が?」

 興行主は煙管で煙草を吸いながら見間違いではないのかと質す。

「旦那あの顔に間違いござんせん」

 濱田川の童顔は有名だった。

真近で見たのだから間違える筈ないと言い切るのである。

「与五郎濱田川を呼んで来なさい」

「へい」

 

 一方会場に入った房吉と紗代は、丁度芝居の幕間のような休憩時間であったらしく、周辺では風呂敷を拡げて経木に入れた握り飯や何処かその辺りに出ている露店で買って来たのか、団子等の食べ物を口に頬張っていた。

「姉ちゃん何か食べ物を買って来ようか」

「あたしも一緒に行く。置いてかないでよ」

 紗代は房吉にしがみ付く様に歩いた。

入ってきたところとは逆方向にも出入り口があるらしく、そこで売り子がサツマイモを売っていた。

「幾らだい」

 一個が二十文とは少々高いが、房吉は二個買うと紗代が手拭いに包んで持っていた。

先程の場所に戻りかけたが、空いている場所など無かった。

 仕方なく二人は葦簀張りの際に立ったまま焼き芋を頬張った。

その内東の通路から力士たちが登場して来た。

「姉ちゃん、あれ女じゃないか」

「そうだよ女相撲を見に来たんだもの」

 見れば先導の行司も女であった。

「裸だぞ」

「房ちゃんだって裸じゃないの」

 房吉の驚いた様子を揶揄うように、

「おんなが裸になっちゃいけないの」

 と畳み込む。

「そうじゃないけど…。あの化粧まわしも何だか変じゃないか」

 房吉は力業(女相撲)の女力士の恰好を初めて見たのだが快くは思わなかった。

紗代も力士のまわしの上に付けている化粧まわしをよく見ると、腰巻のように思えてならなかった。

 呼び出しが四股名を呼ぶと呼ばれた力士は土俵に上がってお辞儀をして東西に分かれて片屋(土俵際)に座った。

十六人八組の取組であった。

「此処からじゃ見えにくいが」

「房ちゃん何処に行くのよ」

 房吉の行き成りの行動に紗代は慌てて袖に摑まって付いて行く。

房吉は東の花道を土俵に向かって歩いて行き、二間ほど手前で腰を下ろして座り込んだ。

 その周りの観客が騒めいたが気にも留めず、土俵上の取組に見入る。

「房ちゃん此処は通路だよ、不味くないかい」

 すると房吉は長脇差を左脇に置くと、紗代を胡坐の上に乗せた。

「あれやだ恥ずかしい」

「姉ちゃん良いから相撲を見てな」

 房吉は紗代を羽交い絞めのような格好で土俵上を見ていた。

周りの連中は土俵に目をやりながら、ちらちらと二人の奇妙な姿を想像を交えて盗み見ていた。

「姉ちゃん、あの腰巻みたいな化粧まわしは余計だと思わないか」

 房吉は紗代の耳元で囁くように言う。

「あれを付けなかったら丸見えじゃないか」

「回しを締めてるんだから見えないだろう」

「見えたことがあったの」

「何が見えたのさ、おいらたちと違ってみ出すこともないだろうが」

「あったの」

 紗代は焦れるように腰を揺らすと、

「姉ちゃん動くな」

「あっー」

 二人はそれっきり黙りこくってしまった。

何が起こったのか周りの者達は知る由もなかった。


 房吉は最初だけ妙な表情を見せたがその後は取組に熱中するように紗代を羽交い絞めの状態で抱いていた。

 後ろからどかどかと音を立てて若いしが四、五人駆けつけて来て周りを取り囲んだ。

「あんちゃんら此処は通路で座るとこじゃねえんだ。邪魔だから表に出てくんな」

 と一人が凄む。

「兄ちゃんもう少しだから最後まで見せてくれないか」

 房吉は紗代を抱えたまま退けるように手を振ると、男達は懐に手を入れて威嚇する。

「兄ちゃん分かったよ。周りに迷惑を掛けてもいけないから外に出よう」

 房吉は腰に脇差を差しながら立ち上がると若いし達はその巨体を見ておののく様に下がった。

 会場はその騒ぎに相撲見物どころではなくなった。

女力士たちも取組を止めて成り行きを見守っている。

其処へ西の花道から大声で呼ぶ者が居た。

「濱田川関お待下さい」

 その声が場内に響き渡ると、女も子供もワーっと歓声を上げる。

驚いたのは表に連れ出そうとした若いしらと土俵周りの女力士達であった。

声をかけたのは興行主であった。

「関取探しましたぞ。いや先刻木戸番から関取がご来場されたとの知らせを聞いて場内をお探ししましたがお姿がなく残念に思っておりましたところ、場内での騒ぎにもしやと思い覗きましたら、関取がいらしたと言う次第です。お話があります故、どうぞ奥へいらして下さい。奥様もご一緒にどうぞ」

 客席からは「濱田川」と頻りに声が掛かった。

濱田川が会所から無期限の出場停止処分を受けていることぐらい、愛好者らは知っていたのだが、偶々片屋入り(土俵入り)等の演武を見た者はその迫力に圧倒され興奮したことを思い出すのであった。


「若いしらの失礼をどうかお許し下さい」

 興行主の言葉に若いしらは房吉らに深々と頭を下げた。

「こちらこそ失礼仕った」

 房吉と紗代は六尺ほどの縁台に腰を下ろすと下男が番茶を出して勧めるのだった。

興行主の伊勢谷藤右衛門の話とは、女相撲を拡大する為の力士の育成に協力して頂きたいとの要望であった。

「稽古を付けるのは一向に構わないが、毎日出張ることは出来ない。おいらはこれでも前田家の下っ端侍なもんで」

「月に四、五回で十分でございます。御礼は十分させて頂きますので」

 思わぬ話が舞い込んだものである。



「ねえ房ちゃん本気なの」

 紗代は両國橋の欄干に凭れて房吉の腹の辺りを指で突く。

「何すんだよ姉ちゃん、痛いよ」

「年増だって女だよ、稽古だって裸でするんでしょ。私は嫌だなぁ」

 何故か脹れ面であった。

稽古の時だって裸でするのは当然のことで、紗代がなぜ怒るのか解らなかった。

「姉ちゃんが裸になる訳ではないだろう」

「だから嫌なの」

「何時かな」

 房吉ははぐらかす様に時を訊ねると、上手い具合に回向院の鐘が夕方七つ(十六時)を告げた。

「姉ちゃん飯食って行こう」

 二人は近くの川魚料理の店に入ってどぜう鍋を頼んだ。

鍋の中にはどじょうが丸ごと入って居り、ネギも沢山入っていて甘辛く煮込んであった。

「房ちゃんあれは態としたの」

 と行き成り妙なことを言いだす紗代。

「何のこと?」

 どうも無意識のうちに起こった現象の様だった。

房吉の頭の中には紗代が思ったようなことはさらさらなかったのである。

「約束の時間まで半時だ、そろそろ行こう」

 房吉は代金を払って通りへと出た。

朝と同じように柳原通を通って途中古着屋を覗きながら昌平橋を渡って明神下に出ると、男坂を上がって明神社の水茶屋で待つことにした。

「姉ちゃんどうしたの、具合でも悪いのか」

 黙り込む紗代を案じてそう声をかけたが、

不機嫌そうに何やら独り言を呟いていた。

「待たせたな」

 振り向くと綾錦とお多美が機嫌良く並んで佇んでいた。

「何かあったのか?」

 綾錦は紗代の様子を窺うように訊く。

「親方後でお話があります」

「そうか部屋で聞こう」

 門限まで後四半時ばかり、北の天神真光寺を左に見てお多美と紗代は南門前を通って東門へと向かった。

綾錦と房吉は何時ものように追分御門から戻った。

戻ると政吉が二人にお茶を淹れて退出した。

「何処へ行って来たんだ?」

「何処だと思います?」

「分からんから訊いてるんだ」

 房吉は態と焦らすように間を開けて話し出した。

「親方は女相撲をご存じですか」

「聞いたことはあるが…見たことはない」

「見て参りました」

「面白かったか」

「面白いと言うより驚きました」

「どういうことだ」

「技は今一ですが、力強いんですよ。女子とて侮れませぬ。実はひょんなことで興行主と会いましたら女衆に稽古を付けて欲しいと言われたのですよ。月四日ほどですが如何なものでしょうか」

「お前も前田家の家臣であることに変わりはないので好き勝手にはいかないが、頭取に相談してみるわ」

「お願い致します」

「ところで紗代が不機嫌だった理由が分かったよ、当然だわな」

 綾錦は納得したように振り返る。

「どういうことでしょうか」

「では訊くが、お前の好きな女子が見知らぬ男と親密にして居たら何と思うかだ。平常心で居られるとしたら大したものだが、そうは行かぬものなんだ」

 綾錦の言わんとすることは分からないわけではなかったが、房吉には異性を好きになるとかの感情を抱いたことなど無かったので、今ひとつピンとこなかった。

考えて見りゃ未だ子供であった。


 とも角相撲人気は高まっていた。

奈良平安の時代に宮廷で余興として或は農事の収穫を占う神事として行われていたものが、戦国時代には武術として、武士たちは心身の鍛錬に励んだ。

 江戸時代になると戦も無くなった為、仕官にあぶれた者や力自慢や任侠の者達が相撲を職業として各地で興行が行われると人気も出たが、贔屓ひいきの力士の勝ち負けを巡って喧嘩が絶えなかった為、勧進相撲を含めて寺社奉行の規制を受けて禁止されたのである。

 当然のこと興行が出来なければ力士たちは立ち行かなくなったが、相撲好きな大名の保護の下お抱え力士として生き延びることが出来たのであった。

 相撲場も人垣の中で行うものから、四角いもの或いは丸い土俵が考案されると、相撲会所が中心となって相撲部屋を組織して勧進相撲が盛んになったのである。


 此れとは別に始めたのが女相撲であった。

技兩の程はとも角として、女子おなごが裸になってまわし姿で取り組む当たり、話題にならない筈がなかった。

 女相撲の記事が歴史上に見られるのは『日本書紀』の雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)十三年の条である。


九月、木工韋那部眞根こだくみゐなべのまね、石をあて(薹)とし、斧揮おのとりてけずるに、終日ひねもすれども刃を誤りやぶらざりき。天皇其所に遊詣いでまして怪しみ問ひたまひしく、「恒に石に誤りてじか」とのりたまいひしかば、眞根「つひあやまらじ」とこたまうしき。すなはち采女うねめし集へて、衣桾きぬもを脱ぎて犢鼻たふさぎにして露なる所に相撲とらしめたまひき。ここに眞根停めて仰ぎ視てきるに、覚ほえず手誤りて刃を傷りつ。天皇因りて嘖讓ころびたまはく、「何処の奴ぞ、朕を畏れず、不貞き心用ちて、みだりにたやすく答へつる」と言って危うく処刑される所であった。

 この記事は眞根と言う大工が一日中木を切っても斧の刃を損なうことは無いというので、誤って石薹に当てることは無いのかと訊ねると無いと答えたので采女を呼んで褌をつけさせて相撲を取らせると、眞根はそれに気を取られ手元がくるって刃を欠いてしまい、天皇は軽々しく答えた眞根を罰しようとしたという話である。

 これはどんな名人・達人であろうが、ちょいとしたことで集中力が欠けたりして失敗することもあるので、何事も軽佻に言ってはならないことの戒めにもなりそうだが、ここでは単に相撲の歴史的初出を述べたに過ぎない。



 か弱い女が単に裸で組み合っているだけかと思いきや、男に負けじとその力を見せつける剛の者が結構いたのである。

中には余興で俵を軽々と持ち上げて見せたりした。

だが力はあってもそれらには技がなかった。

此れでは色気だけでは直飽きられてしまうの

で濱田川に誘いをかけたのであった。

 丁度この頃前田家所属の相撲衆の中からも江戸相撲会所の所属部屋への移籍をする者がいたので、綾錦からの話を聞いた中郷頭取は濱田川の能力を留めんが為稽古を付けに外出することを許可したのである。


 こうして濱田川房吉は女力士たちに相撲の技を指導しに多い時で月に七、八回出かけて行くことになった。

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