第8話 御冷やしの間

 


 表御殿の客間の一部の改造が始まった。

二十畳ほどの小部屋だが、東側に床の間と床脇があり、北側は長押を挟んで京壁に一間の障子戸があり、この部屋への出入りは此処のみであった。

 西から南側にかけては三尺高の板壁があり、その上に明り取りの障子戸があった。

明り取りと言うより、換気の為と庭の景色を眺められるようになっていた。

 これだけでも奇妙な造りと言えるのだが、この部屋を取り巻く廊下側も板壁で囲われていて、それに沿って一尺ばかりの椅子のような台が部屋を囲むようにしてあった。

何の為にそのような部屋を設けたのか分からなかったが、客間であることには違いなかった。

 六月朔日の雪氷献上も無事済むとこの客間の仕上げに入った。

濱田川房吉は中郷源四郎のお供で手木足軽頭の諸見十郎兵と一緒に表御殿に入った。

 現場には作事方篠田太郎左衛門兼近が大工や建具屋らに指示して仕上がり具合を見ていた。

「おう中郷殿こっちじゃこっちじゃ」

 と手招く。

「この部屋は二十畳程でしょうか」

「左様、大き過ぎると効かんでな。此れくらいが丁度ええが」

 篠田はそう言いながら三尺高の板壁を見ていた。

「それは何ですか」

 中郷は側によって篠田に訊く。

「これはよぅ、片一方の格子をずらして隙間が開くようにしてあるのさ。そのことによって冷気が漏れると言う訳さ、後は其方そちらさんの仕事次第よ」

「そうですか、諸見おけの具合はどうだ」

「欅を使ってますので丈夫で長持ちしますよ」

 桶と言ったのは板壁の外側に付いている一尺高の箱椅子のことで、廊下の下に更に一尺ばかり埋まっているので、二尺の箱ということになる。

 房吉は此処でこの椅子が何の為板壁沿いにあるのか分かった。

先ほど見た内側の格子細工と関連して考えれば自ずと答えが出たのである。

「あれは何処から入れるのか」

 と篠田は訊く。

「こうです」

 諸見十郎兵は箱の蓋を押し上げて見せた。

 中は腐らないように漆が塗って在り、所々が格子状に切った上を覆うように、金網が張ってあった。


箱椅子の中に雪氷を詰めた時氷が抜け出ないよう網目は細かいものが使われていた。

 畳職人が真新しい畳を運んで来ると手早く床板の上に敷いていった。

畳縁は薄浅黄色に梅鉢の御紋が入れてあり、藺草いぐさの臭いが何とも言えなかった。

 この部屋を“御冷おひやしの”と呼ぶ。   

「十郎兵氷室ひむろを見せてくれ」

「承知しました。参りましょう」

 

 中御門側式薹から出て玄関先を横切って、

塀重御門から土蔵の東側を通って富士権現旧地に入った。

房吉の言う不二山があった。

西側の入り口を開けて階段を下りる。

「寒いな~」

「かやらんよぅ(転ばないように)気ー付けまし」

 諸見十郎兵は提灯で中郷の足元を照らしながら降りて行く。

台の上には長持ちが在った。

 これは献上氷とは別に用意した物で、氷は布に巻かれて桐箱に保管されてこのように長持ちに入れてあったのだ。

そして諸見十郎兵は奥へと入って行き、鍬のような物で氷を掻き出して質を見る。

「これを廊下の箱に入れるのだな」

 と中郷は手に取って見ると、

「おぅちびてえ(冷たい)」

 と直ぐに放り投げた。

「さむーて適わん出よう」

 諸見の話だとこの不二山の氷室が一番良いとのことであった。

「七月の初めに来客があるが量や質に問題ないとのことで先ずは安堵したが、その前に冷え具合を試す必要があった。


 六月下旬のお試し日に、諸見ら手木衆らは早朝から準備を始めた。

お茶箱のような箱に雪氷詰めると、荷車に積見込んで中御門から一旦中級家臣の住居地区を通って御薹所門の先、中口御門から庭に入った。

氷室から氷を運ぶ者、廊下下で氷を調整する者、氷を箱に入れる者と分担しての作業ではあったが、不二山(氷室)からの経路が建物の外を通る為、思ったより時間がかかった。

明け六つ(六時)に始めたのでは気温も高いので遅いとの結論であった。

結局暁七つ(四時)から七つ半(五時)の間で始めることになった。

 手木衆は諸見の補佐である吉田善五郎が残って、後は長屋に帰らせたのである。

 作事方篠田太郎左衛門が明り取りの障子戸を開けて声をかける。

「早よー来~」

 如何やら冷気を感じているようだ。

履き物を脱いで廊下に上がると部屋に入った。雪氷を箱に詰めて未だ四半時ばかりだが、板壁の格子から冷気が出ているのが感じられた。僅かではあるが心地よい涼しさであった。

 六つ半(七時)の状態と朝五つ(八時)の状態を見ることにしていた。

この時に御用人や近習に医師、奥女中数名が冷え具合を体験することになっていた。

 六つ半では結構効いてる感じであったが、五つの時には部屋に入ったばかりでは皆一様に涼しさを感じたようだったが、気温が上がってる所為か慣れてしまうと然程涼しくは感じないとの意見と感想であった。

この時房吉は紗代の上役多美を見たが、多美の方はそ知らぬ顔であった。

 諸見らは箱の蓋を開けて中を見ると、氷は殆ど解けて水になっていた。

「氷水だから未だ冷たいが此れでは冷えないだろう。頭少し遅らせて入れるのはどうだ」

 中郷は早めに準備を終えたい方だが、少しでも持たせたいと思ってそう提案したのである。

「それも結構ですが、後で追加する必要もありますね」と諸見は言う。

「量はあるのか」

「十分ございます」

 如何やらそれで片が付いたと思った時、

「笹の葉や大きな馬蘭の葉を入れたらどうですか」

 と濱田川が口を挟んだ。

すると諸見十郎兵が、そうだと言うように両手を合わせるように叩いた。

 諸見十郎兵は箱の栓を外して中の水を抜くと手木衆の詰所に行き“御冷やしの間から”の冷え具合は氷次第と説き、外気温に曝さぬよう笹の葉や馬蘭の葉を引き詰覆うことを話すのだった。

 御公儀の来客は七月始めとだけ分かっていたので、駒込の中屋敷と板橋平尾邸の手木衆に採取の指示を出し、二日までに上屋敷に移送するよう指示したのである。

馬蘭は育徳園に一年中あったが、笹の葉は下屋敷の庭園の随所にある竹林で採れた。


 送られて来た葉っぱは氷室の冷蔵部分に保存しその日を待った。

 五日に御偉方のご訪問と決まって、料理方、接待方は準備に追われた。

表御門周り表御殿の玄関式薹から御冷やしの間に至る廊下の清掃も入念に行われた。

御冷やしの間の周りに在る氷箱の中側に適所に仕切りを設け、効率良く冷房出来るように改良した。

 到着は四つ半(十一時)頃とのことであったので、まさに暑い最中の御訪問であった。

中郷源四郎は諸見十郎兵ら手木衆に現場での作業は極力控え、氷室内で済ますよう指示した。

 既に箱の中に馬蘭や笹の葉を敷いてある。

昼四つ(十時)に雪氷の塊を入れて、葉っぱを被せながら氷を詰めていった。

板壁の格子を開けると冷気が出て来て、二十畳の客間も心持ひんやりとしてきた。

 配膳の数から来客数は十名と分かった。

接待は家老の津田玄蕃を筆頭に在府の人持組と寄合組から合わせて五名が勤め、奥女中からは御客応答を筆頭にお目見え女中が郷土料理を運び入れる手筈となった

 


 表御門内に乗り物(忍び駕籠)が二挺と権門駕籠が二挺到着した。

玄関に降り立ったのは如何やら老中と若年寄り、奏者番に大目付、そして奥祐筆に側近と従者に警護の者が十数人いた。

 津田玄蕃自らが玄関に出迎えて御冷やしの間へと案内する。

「暑うござるな」

「実に暑くなりました。御体験頂きますには丁度宜しいかと存じまする」

「左様でござった」

 御料理の間横の囲炉裏部屋に中郷源四郎と濱田川房吉が平伏して居たのを通り際に捉えると、南の庭園に面した特別の間は、十分に冷えているとの合図を出して居たのである。

それを見た津田玄蕃は内心安堵したものだった。

「ご老中様こちらにございます」

 女中が障子戸を開けると、滝壺にでも居るような冷気を感じるのだった。

「如何でございましょうや」

 津田は得意げに訊く。

「恐れ入ってござるよ。涼しくて気持ちが良いわ」

 冷気に汗がさっと引いていった。

「皆様方、どうぞお席にお着き下さい」

 座布団がやけに厚みがあった。

「お忙しい中をご訪問下さり恐悦至極に存じます。手前は上屋敷の作事方篠田太郎左衛門兼近と申します。この部屋は雪氷によって冷やしてございますが、御承知の通り猛暑の最中で御座いますので、部屋を長時間冷やすことは苦難の技で御座いました。其処に控え居ります路地奉行中郷源四郎の支配であります手木衆の技術と工夫によりまして“御冷おひやしの”が実現した次第でございます。

 ご覧いただきますように、この部屋には開け放すことの出来る障子戸がございませぬ。皆様方の後ろには小規模な庭園が御座いますので本来の障子戸でありましたならご覧頂けるのですが冷房仕掛けの為、明り取り程度の障子戸にしているのです。

 また冷房効率を維持する為にも、部屋はこの程度の広さしか出来ませんでした。

お寒いようでしたら多少は冷気の調整が出来ますのでお知らせ下さりますようお願い申し上げます」

 篠田太郎左衛門の説明に一同はフンフンと肯いて居たが、御側衆の一人が、座布団を掴みながら質問した。

「篠田殿、この座布団は豪く厚みが御座るが御当家の物は全てこの厚みでござるか」

 意外な質問であったので、篠田は苦笑しながら答えた。

「冷気が充満しますと畳も冷えて冷たくなりますでしょうから、足元を冷やさぬ為の厚みを考慮しての誂えでございます」


 お冷やしの間についての説明が終わると、家老の津田玄蕃から老中に十代重教しげみち襲封に際しての取り計らいに深謝しての御礼の席を設けさせて頂いたことを言上した。

「特別なことをした訳ではないので却って恐縮致して御座る」

「伺いましたるに御老中様は本日は詰日つめびであられたのこと。お勤めを休んでまでお越し頂きましたこと、眞に有難く、篤く御礼申し上げます」

 津田は平身低頭で御礼を述べる。

「御家老我らの間では良くあること故、余りお気に召されぬな。能登守のとのかみ(土屋)殿との差替さしかえで休日に出れば良いだけのことでお勤めには影響ない」

「それをお伺いしまして安堵致しました」

「御家老済まぬがお茶を所望して宜しいか」

 すぐさま房吉が室外に出ようとすると、

「済まぬが熱いのを頼みたい」

 と苦笑して言うのだった。

 部屋の中は涼しいが廊下に出た房吉はムウッとする暑さにホッとしたものだった。

確かに御冷やしの間は涼し過ぎるくらい冷えていたのだ。

お女中がお茶を運ぶと直ぐに料理の支度にかかった。

変な話だがこの暑い日に郷土料理の治部鍋じぶなべを出すと言うのである。

これは料理方の提案であった。

 治部鍋というと鴨の肉を醤油の出汁で煮込み、具は根菜や豆腐のほか、加賀の特産であるすだれ麩も入れた。

薬味にわさびを使う。

 鴨は冬の間の食べ物だが、金澤で冷凍したものを雪氷と共に送ってくれたのである。

 部屋の中で火を使う訳にいかないので、全て調理場から運んだのである。

鯛の唐蒸しに海の幸や山の幸を盛りつけた加賀料理も並んだ。

無論地酒も運ばれてあった。

「これは恐れ入った。この真夏に鴨鍋を食すとは思っても見なかった。う~ん美味とはこのことよの」

 これも雪氷の成せる業であった。

一同の体験は幕臣にあって初めてのことであった。


 中の格子戸の調整をしながら、廊下では手木衆が氷の補充に余念がなかった。

葉っぱを被せたことで解け具合は大分違った。だがこの日は特に暑くなったので氷解は何時になく早かったことは確か―。

珍しい食べ物を食して客人らは寛いでいた。

「すっかり馳走になり申した。ところで先ほどまで路地奉行の傍に居た若者は豪くがたいが良いが相撲衆かね」

「はて……中郷、あやつはそなたの家来のようだが名は何という?」

 家老ともなると下々までは分からなかった。

「恐れながら手前の護衛について居ります濱田川房吉と申す者にございます。相撲衆ではありますが禁じ手を使った為、江戸の会所では無期限の出場停止となってしまったのです。その為巡業や他家との交流試合に出るくらいしかないので他の仕事を覚えさせる為手前が連れているのです」

 中郷源四郎は公儀のお偉方との会話に興奮気味であった。

其処へ室外との連絡を終えて房吉が戻って来た。

「濱田川と申すか、近こう参れ」

「はい」と答えて老中の前に平伏すると、

「そなたのことは松平出羽守宗衍殿より聞いて居るよ。何でも誰一人引くことの出来なかった強弓“鬼払弓”をいとも簡単に引いて、然も的に当てて飛ばしたと言うではないか…。それも相撲に於いては松平家の相撲取りを持ち上げたとか…何という怪力であろうか。

見れば幼い顔立ちだが幾つだ」

「十八にございます」 

「そなたは相撲会所とかには所属しないのか」

「致しません」

「何故かな」

「わたしめの技は決して危険なものではありません。確かに初めの頃は担ぎ上げると直ちに落としたりしましたので危険であったと思います。でも今は巻き込むようにして転がしますので何ら問題ない筈なのですが容認されませんでした。出場できないのであれば所属する意味がありませぬので…」

「成程な。実力が有るのに勿体ない話だ」

「私は師匠の明け荷を担ぐことで満足して居ります」

「何と褌担ふんどしかつぎで良いのか」

 房吉は老中相手にそんな戯言たわごとを臆することなく話すのだった。

 そうこうしているうちにそろそろお暇をとなって、訪問者らは手土産を持たされて本郷邸を後にした。

 本来ならばこの訪問者らの御冷やしの間での体験を同僚に告げたならば、その後も希望者が殺到したであろうが、そのようなことは起こらなかった。

今日の出来事は当主襲封の折の骨折りに関しての御礼の接待であり、老中も詰日を差替えて貰っての外出訪問であったので、他言無用としたものだった。

 もしこの事を公表したならば御冷やしの間への訪問希望者が殺到し、貯蔵してる雪氷ではとても対応は出来なかったであろう。

そのような事態に落ちいらないように、この件に関して内密にしたのである。

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