第6話 氷室貯蔵

  





 三月初めに金澤から荷物が届くことになった。それは二手に分割されて運ばれてきた。

ひとつは平尾の下屋敷と駒込の中屋敷の氷室に保存され、今一つは将軍家への献氷として本郷邸の新しい不二山の地下にある氷室ひむろ(保冷庫)に保存する手筈になっていた。

 受け入れ準備は手木足軽衆らが前の日から準備を始めていた。

江戸詰め手木衆は三か所に分散していて、運搬役の手木衆と共に到着次第、其々の氷室で保管作業を行う為、肝心の本郷邸が手薄となった。

 頭領の諸見十郎兵からの要請で相撲衆から応援を出した。綾錦、濱田川は無論のこと、肥後の岩、駒市、岩五郎、葛山らの力持ちであった。

 服装は手木足軽衆と同じく、腹掛けに股引き、腰切半纏を羽織るという出で立ちであった。

 到着後の段取りを諸見は全員に説明する。

間もなく到着するとの物見からの報告を得て、氷室の表戸を開けた。

冷気が体に触れ、

「さぶっ(寒い)」と思わず岩五郎が両腕をさするのだった。

手木足軽が氷室に入って行く。

地中十三尺ばかりの所に間口三間奥行き二間、高さは六尺半の穴倉が出来上がっていた。

 壁は表面が平らな石で囲まれていて、床は滑らないよに細かい溝の付いた平石が敷かれていた。

 この部屋の前に一間幅ほどの通路があり、その床にも平石が敷かれていて、奥にある雪の貯蔵庫に繋がっていた。

この部屋の雪は邸内に降ったものを上から筒状の落とし口を経て蓄えられたもので、氷室内通路側から搔きだせるようになっていた。

 


 明け六つ(六時)幾らか空が白み始めた時分に荷が到着した。

運んで来たのは金澤城所属の手木足軽衆であった。

大御門脇の通用門から入って、氷の入った長持ちは御土蔵敷き地を抜けて富士氷室庫の入り口に到達した。

「ご苦労であった」

 頭領の諸見十郎兵がねぎらいの言葉をかけ、直ぐに本郷邸の手木衆と交代させ、一行を縁台に座らせて休ませた。

長持ちは相撲衆と共に氷室庫に降ろしにかかった。

二本の棹は通したまま幅広の階段を下りて行く。

下側に四人付いて支え、上側は三人で支えて降りた。

 保存台に乗せる前に一度中の状態を確認する為房付きの留紐を外して二本の棹を抜き、解錠して蓋を開けると、一回り小さい桐箱が出てきた。

箱と箱の間には笹の葉や大きな馬蘭の葉が氷状の雪と重なって詰め込まれてあった。

 桐箱を納めた長持ちを内室に保管すると、手木衆が保存庫の中から貯めて置いた雪を取り出して長持ちの周りに詰め込んで氷の壁に閉じ込めたのである。

これで氷室の日前日に献氷の支度をするまで空気に触れることはなかった。

 人心地付いた運搬役の手木衆も氷室の中に入ってきた。

「ばら寒いぞいや」

 この連中は途中走る為、半纏の下は長袖ではなかったからもろに冷気を感じたものだ。

「ほうやろ」

 諸見十郎兵は満足であった。

 


 金澤城二の丸には二間四方の穴蔵があり、冬の間手木足軽が毎日雪を詰め込んで将軍家への献上の為の氷を貯蔵した氷室であった。

 諸見もそこでその要領を覚えて、小規模ながら臨時保管所を育徳園のサザイ山に造り、高山亭で使う食材の臨時保管所にしたのである。

それは万が一に備えた臨時の保管庫に過ぎなかったが、江戸城に最も近い上屋敷からの献氷が望ましいとの上層部の判断が下ると、本格的な氷室の建造をしたのだった。



 扨て三月弥生と言えば花見だが、名所と言えば上野のお山に、川向うの墨堤、或いは王子の飛鳥山に品川は御殿山の花見が有名であったが、墓参り以外の外出は許可されず、奥詰めのお女中衆は若年寄りや中臈方ちゅうろうかたに願い出ると、お年寄りの執成しで平尾邸(板橋下屋敷)での花見が許可されたのであった。

 それはつい先達て、重教公が御暇おいとまにて国許へ帰参した為許可が下りたのである。

 奥詰めのお局以下年寄り、若年寄り、中臈、祐筆、呉服の間、三の間係からその他はしたに至るまでを二分し、二度に分けての観桜会としたのである。

 一隊は女中だけで三十人許で、これに護衛の武士が十人程付き、その他を合わせると総勢五十人ばかりであった。

これが行列をなして中山道を板橋に向かって行くのだが、行き交う村人や旅人は道を譲りながらも怪訝そうにその模様を眺めていた。

 と言うのもこの一群の中には荷物を背負った大男が五人程居たからであった。

その連中は大きな葛籠や長持ちを担ぎ、列の最後尾からのしのしとついて行くからで、お女中衆の集団には似つかわしくなかったからである。

更に細かく見ると、相撲衆は五人、後の五人は雑用係の小者であった。

その相撲衆だが、筆頭は綾錦爲衛門で二本差しで羽織を着ていた。

その後ろに大葛籠を背負った濱田川房吉が行き、喜三郎や岩五郎らが続いていた。

時々若い女中が後ろを振り向くが誰も気に留めなかった。

 本郷邸から板橋平尾邸までは二里の隔たりで、一時程いっときほどで到着した。

楼門を潜ると下屋敷在住留守居役らがにこやかに出迎えた。

お女中衆は下屋敷のお女中が広間や控えの間に案内し、御用人以下護衛士十名が部屋に入ると下屋敷の足軽中間らの案内で、相撲衆と小者らが荷物を持って庭園内に入り、桜の花の咲き誇る木の下に宴席の準備をした。

丁度見頃のようだ。


 支度が済むと房吉らは銘々好き勝手に近くで休んでいると、綾錦が集まるようにと手を振って呼んでいるので、宴席の端に駆けつけると、好きな所に座って飲めと言う。詰まりは無礼講と言うのだが、房吉は酒は飲めないので女中から食べ物を貰って少し外れたところで食べていた。

 目の前に広がる池の広さは半端ではなかった。下屋敷の敷地面積は二十一万七千六百三十五坪というから上屋敷の倍の広さであったが、建物等は手前に僅かにあるのみで、池の周りは小山が連なり、松や杉の木が林を作ってそこ彼処に生い茂っていて、竹藪も随所に見られた。

屋敷内とは思えぬ程自然に溢れていた。

 房吉は竹筒に入れてきた水を飲むと、叢に寝転がって寝てしまったのである。そして奇妙な夢を見た。

【如何やら勧進相撲のようだが場所は特定できなかった。

太刀川や綾錦が年寄りとして柱の前に座って審判をしていた。

 相手は小柄だが筋骨隆々の見たことも無い力士であった。

そして豊かな顎髭に囲まれた顔、形相は恐ろしく普通の者なら身が竦むほどであった。

 吉田権太夫の軍配が返ると房吉は鉄炮を突いたがひらりと体をかわされたので、今度は四つに組んで左右に振ろうとしたがビクともしない。

四つに組んだまま仕掛けるタイミングを待った。

 すると己の体がひょいと浮いて、天上近くまで持ち上げられて摺り落ちそうになったので必死にしがみ付いて居ると、

「怖いか」

 と天上から声が聞こえてきたので、

「はぁい、怖いです~」

 と答えた途端、土俵上に座り込んでいた。】

「房吉さん起きて」

 体を揺すられて目を覚ますと、女中の紗代が覗いて居た。

「どうしたのうなされてたわよ」

「夢を見たんだよ。姉ちゃんも来てたのか」

「私は知ってたわよ、後ろに居たことも」

「なら早く来れば良かったのに」

「宴の準備の後は多美さまのお世話があるからそうはいかないの。ところが綾錦様が五合徳利を抱えてやって来たの。無礼講だから誰の側に行ってもお咎め無しなので、二人は自然に振舞っていたけど、多美さまは嬉しくて仕方ないようだったわ」

「親方は男前だから?」

 房吉は紗代の言おうとしていることを察し得なかった。

「男前だからではなく、男だからよ」

 紗代は焦れてそのように言ったが房吉はその意味するところを理解して居なかった。

「房ちゃんは未だ子供だね」

 宴会場で紗代の同僚らしき女が呼んで居たので、

「亦ね」と言いながら立ち上がる際、さり気なく房吉の膨らみを摑むと感触を楽しむように二度ほど握ったのである。

「何すんだよ」

 と怒る房吉に尻を向けて意味あり気に手で汚れを払う仕草をして見せ、塊の方へ駆け戻って行った。

〈変なの〉と思いながらも紗代の手の感触を思い出すのであった。

 そうこうしてるうちに帰り支度が始まった。昼八つ(十四時)だから本郷到着は夕七つ半(十六時)頃であった。

 予定通り帰着したが、改めて屋敷内を歩いてみるとこの間まで居た人たちの抜けた貸小屋の辺りの静けさが妙に感じられてならなかった。

 交代(暇)で殿様に従って国許に向かった者は二千名程で、武士がその内の半数を占め、女中は二百名程で後は足軽に小者と人足らであった。これだけの者が敷地から居なくなったのだから静かになるのは当然と言えた。

 

 育徳園の北側は下級の武士に足軽小者が多く居たが、中級武士の貸小屋も混じってあったのだ。

東側は長局ながつぼねといわれる奥女中らの長屋があり、家老や人持等の上級武士の長屋もあった。

南側は中級武士らの御貸小屋が並んで居たのだが加賀鳶や小者の住まいもあった。、



 五月下旬になると忙しくなってきた。

あと数日で氷室ひむろの日の献氷である。

長持ちなどに詰め直す笹の葉や馬蘭を採取に育徳園や板橋平尾邸の庭園に手木足軽らが出かけて行ったのである。

大八車に駕籠を載せて採取した葉っぱを沢山載せて帰ってきた。


 晦日は朝から氷室に入っての作業となった。通路側の壁を外し、入り口を塞いでいる氷を鑿や先の尖った金棒で突いて割るのだが、雪を厚く重ねた為氷となって、簡単には砕くことが出来なかったのである。

加えて外気との遮断で冷気もきつく、凍える手足身体はその動きを鈍らせた。

 諸見十郎兵は様子を見ながら従事者を交代させ、作業を効率よく進めたのである。

「お~い誰か居るけー、猫を下ろしてや」

 氷室から一人の手木が顔を出して声をかける。

房吉が傍に居たので、

「猫って何?」

 と訊き返すと苛立つ様に、

「猫車、一輪車がその辺りに有ろうが」

 房吉は馬加で大工の手伝いをした折現場で見たことのある一輪車を見つけてゆっくりと押して行くと、手木がまた顔を出して、

「早うせんかいや」

 とせかしたので、房吉は行き成り戸口目がけて走り出した。

大地を揺すぶるように巨漢が突っ込んで来ると恐怖した手木は慌てて戸を閉めた。

「あんちゃん持って来たヨ、どうするの」

 と中を覗いて声をかけると、

「あんやと(ありがとう)、ほんじゃいんぎらーっと(ゆっくり)降ろしてや」

 猫車が下に降りると、

「あんやと、あんやと」

 と震えるように何度も礼を言うのだった。氷室の寒さゆえか恐怖の故か知れないが、地下からの声はそのように聞こえるのだった。

仲間が誰と話してるのかと聞くものだから、

「濱田川」というと、

「わらびしいが先の楽しみな子よ」

 と諸見十郎兵が口を挟んだ。

 砕けた雪氷を猫車に積んで奥の保管庫に入れに行く。この本郷不二の地下には通路の奥にもう一つ貯蔵庫があった。

献上氷の保管庫の壁にしていた砕いた氷の貯蔵場所であった。

これらを取って置く理由はあった。

それは後で分かるのでここでは明かさないでおくことにする。

 長持ちを開いて中から桐箱を取り出すと絹布に包まれた中に上布で厚く包まれた氷があった。

金澤城の氷室で保存した当初と殆ど大きさは変わらないと言う。

貯蔵技術の高さが窺えた。

 氷を桐箱に納め直すと新鮮な雪氷を敷きながら笹の葉や馬蘭の葉を重ねて行く。

桐箱の中が終わると長持ちの空間を同じように埋めて蓋を閉じて作業は終わった。



 明けて六月朔日ろくがつついたち、七つ半から作業を開始して明け六つには法被姿の手木足軽衆が担ぎ手となって江戸城に向かう梅鉢の紋の付いた長持ちを担ぎ上げた。

前に二人、後ろは横棒を付けて左右に一人ずつ担った。

控えに四人が付いて、菰を被せた長持ちを見守った。

先頭には路地奉行の中郷源四郎にやや下がった位置に諸見十郎兵が裁着袴たっつけばかまに二本差しで羽織を付けて従い、後ろには太刀川に綾錦爲衛門が従っていた。

風にひるがえのぼりや旗には将軍家への献上氷であることを記し、前田家の旗印として梅鉢の紋と一に三ツ星が記されていた。

 早立ちの旅人や振り売らは、その前田家の献上氷の荷姿を見て改めてこの日が氷室の日であることを知った。

一行は神田川を水道橋で渡ると一橋御門に向った。

 門を入ると右に御番屋の番士に氷の献上と用向きを告げると、目の前の平川門から入って、本丸御殿の中之門から台所に届けるように案内されたので一行は中奥にある台所を訪ねて荷物を置いた。

 

 御広敷膳所台所頭に献上氷であることを告げると、

「遠路遥々御献上下されし貴重な御品雪氷を確かに膳所にてお預かり致しました。

前田重教様の御誠意は必ずや御上に御伝え致しましょう。重ねて御礼申し上げます」

 一行は無事お役目が済んでホッとしながら帰って行った。

献上氷がどのように扱われたかは本当の所分からない。



 暑い夏の間に相撲衆にとっての朗報があった。

勧進元から勧進相撲出場の要請であった。

開催場所は浅草蔵前の八幡宮境内とのこと。

 相撲部屋所属の力士は無論のこと、仙臺松平家(伊達)や松江松平家に薩摩島津家等力士お抱えの大名家から参加者が出た。

勿論前田家の所属力士も参加した。

 江戸勧進相撲の本格的再開と言えた。

 太刀川は年寄りとして勝負検査役(審判)として参加し、綾錦爲衛門は前頭、岩五郎は前頭格として登録された。

扨て濱田川こと房吉は綾錦の付け人として場所入りしたが、幕下が一人急病で欠員が生じた為急遽房吉が幕下付け出しとして組み込まれたのであった。

 日数は八日間で十月五日が初日であった。

八幡宮境内は相撲見物で人が溢れていた。

 勧進相撲とは寺社の建造や修繕の費用を捻出するために興行を打ったものだが、相撲部屋所属の力士も居たが、大半は大名のお抱え力士であった。

その為再開時の番付は実力とはかけ離れたものであったが、年二場所、三場所ともなるとどうにか実力に基づく番付になったと言って良いだろう。

その意味からもこの蔵前八幡宮の取り組みは重要であった。

 最高位の大関は東に雪山権太夫、西が白川関エ門、綾川五郎介は東の関脇で大野川又助が西の小結であった。


 連日満員と言っても境内の土俵の周りが歩けなくなるほど沢山の見物客が押し寄せる位なのだが、盛況であることには違いなかったった。

 千秋楽前日の七日目での星取りは雪山權太夫が六勝一敗でトップであったが、番狂わせで濱田川が五勝二敗と続いており、この二人が千秋楽でぶっかることになった。

 無名の力士がそれも弱冠十六歳で然も代役で選ばれた力士と聞いて観客の間で人気を博した。

 千秋楽で房吉の師匠の綾錦爲衛門は五勝三敗で場所を終えた。岩五郎は一勝七敗であった。松江松平家の島根海が四勝四敗、大多々良が二勝四敗二分けであった。

仙臺松平家の大島甚右衛門が五勝三敗と上位にあった。

薩摩島津家の力士も強者が揃っていた。


 愈々千秋楽の大一番である。

大関相手に無名の力士が土俵に上がると、相撲好きの江戸っ子らが童顔力士に声援を送ると、大関の支援者が負けじと声援を返す。

 立行司の式守矢之介の軍配が返ると、二人はがっぷり四つに組み合った。

濱田川が寄って行くが大関に押し戻されて中々勝負が着かない。

 焦れた雪山権太夫が差し手を換えようとした瞬間濱田川は大関を担いでいた。

落とせば同点となるところだが、又もや神の制止の声が聞こえた為、自ら崩れながら大関を放り出して土俵に転がった。

軍配は濱田川に上がったが物言いがついた。

 結果は濱田川の膝が先に着いたとして行司差し違いで大関の勝ちを宣した。

由って大関が七勝一敗の成績で優勝となったのだが、観客は承知しなかった。

そこで勧進元は勝負預かりとしたが、大関と濱田川の一敗差には変わりなく、結局大関雪山の六勝一敗一預かりで決着したのである。

 だがこれは表向きの裁可で、濱田川には相撲会所から抱え落としと言う禁じ手使用の為、無期限の出場停止処分を言い渡されたのである。

師匠の綾錦爲衛門が落としてはいないので別の技であると主張し、処分の撤回を会所に求めたが覆すことは出来なかった。

年寄りの一人太刀川も残念ながらこの処分に従った。


 次の場所は翌年の三月深川八幡宮境内で行われることになった。

濱田川房吉はそれでも止めることなく、綾錦の元で修業を続けたのである。

 綾錦が舌を巻くほど強くなっていった。

会所に度々復帰を願い出たが許されなかった。 

勧進相撲とは言うものの、本来の目的とはかけはなれたものになりつつあった。

興行も江戸会所の主導で営業を優先する形となり、次第に興行場所も偏りつつあった。

 江戸場所だけで見ると、浅草蔵前八幡宮に深川富岡八幡宮ふかがわとみがおかはちまんぐう、芝神明社に神田明神社、市ヶ谷八幡社、芝西久保八幡社と各所で行われたが、本所回向院での開催も多くなって行くのであった。


 冬の間は綾錦の付け人は新弟子に任せて、邸内に降った雪の保存に従事したのである。

この際は諸見十郎兵について雪氷の貯蔵技術を学ぶと共に、庭園など造園の技術も教わったのである。

二、三十貫の石などは軽々と持って移し替えたものだ。

 房吉は手木足軽ではないが、さりとて相撲取りとも言えなかった。

相撲会所に認定されない為江戸場所ばかりか京都場所に大坂場所にも出場出来なかったからである。

それでも綾錦の付け人として、或いは会所には関係ない前田家相撲衆の巡業時には、看板力士としての役目を担ったのである。

そして諸見組頭の補佐として満足して居たのである。

 俸禄は二十俵一人扶持であった。

出世や地位を望まない欲のない男ではあったが、誰からも好かれる好男子と言えた。

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