第5話 剛弓を引く

 



 この後思わぬ余興が行われた。

「此処に有る弓は松平家に代々伝わる六尺の剛弓で鬼払弓おにはらいのゆみと言われ、その昔望月壽然斎もちづきじゅねんさいという伝説上の弓の名手が手がけたもので、その後は誰一人として此の弦をはずに掛けることの出来た者はいないという。心得のあるその方らなら分かるだろうが、弦を先ず末弭うらはずにかけて本弭もとはずにかけるであろう。多少弓幹ゆがらが強くても大体は張れる筈と思うのだが…。そこで今日弓道と相撲の交流を機に、この鬼払弓に弦を張り、果ては矢をつがえて的を射ることの出来た者に褒美を取らすと言う殿の特別の発案を受けて開催する。さあさあ相撲衆も端で見てないで近くに参れ。吾と思わん者は誰でも構わぬから参加されよ」

 その近習は当家から勝者の出たことでご満悦であった。遠目から見た限りは普通の弓と代わり映えしない弓のようだが、鳥打といわれる傾斜部分の曲がりが少ないようには見えた。

 弓場に残っていた交流試合に参加した者全員が名乗り出た他、松平家の相撲衆と前田家の葛山かずらやま、岩五郎らが参加したのである。

 綾錦は宗衍公に呼ばれて、近くの板敷に正座しての見物となった。

他家の下士とは言え殿様の近くに呼ばれるなど通常は在りえないことで、まさに特別扱いであった。

「爲衛門そちも武士なら心得もあろうが」

 と誘う。

「滅相もござりませぬ。直ぐに小坊主に出されました故…」

「左様か、如何やら始まるようだな」

 宗衍公は着座すると特別に設置された舞台の上とその周りには、腕に覚えのある者や力自慢が集まっていた。

見ると帰った筈の諸見岳に火炎山らの姿も見えたのだ。

門を出る前に知って戻ったようだった。


 太鼓が余興開始を告げる。

松永道源という武士が舞台の上から、殿様に向かって礼をすると、襷掛けの武士から鬼払弓と巻き弦を受け取って末弭と本弭に難無く掛けると、矢を番えずに弦を引こうとするが殆ど引けていない。これでは矢を番えても射ることは出来ない。

判定員は不可と告げた。

 五人十人、三十人と挑戦したが、その何れもが脇まで引くことすら出来なかったので、矢を番えることが出来なかった。

中には持つ位置を変えて引いてみるが却って引きずらくなった。

 一人だけ脇まで引いたが、其の位置を維持できず直ぐに離してしまった。

これでは矢を番えたとしても的までは届く筈がなかった。

案の定矢はほんの数間先にポトリと落ちた。

 余程の剛弓とみえて誰一人成功しなかった。宗衍公むねのぶこうはご先祖からの言い伝えに納得したように何故かご満悦であった。

近臣の者達は不機嫌に怒るものとばかり思っていたので拍子抜けしたものである。

「相撲衆にも希望者が居った筈、続けよ」

 促されて判定員は葛山、岩五郎他当家の相撲衆を順番に上げて挑ませた。

十六人の内弦を少しでも引くことが出来たのは諸見岳であった。

だが矢を番えるまでには行かなかった。

 余興とは言え、矢を番えて的を射ることが出来て初めて成功と言えるのだが、一人として達成しなかったのだ。


「爲衛門そちならどうだ」

 宗衍に促されて二度も辞退する訳にいかないので苦肉の策で付き人の浜田川の出場を打診してみたのである。

「おう、大多々良を持ち上げた少年か?」

「私めの弟子で付き人をさせて居ります」

「そちの代わりだな、構わぬやらせてみよ」

 綾錦に支持されて舞台に立った浜田川房吉は愛くるしい童顔が何とも言えず、十五歳にして身の丈六尺、目方は三十二貫目ばかりの大男であった。

遠目から見れば堂々たる力士だが、顔を見るとあどけなく、

「まだ子供ではないか」

 と見物する家臣達の間から溜息が漏れた。

奥女中らの間では反応は全く別で、奇妙な眼差しが房吉に向けられていた。


 襷掛けの弓術指南役の為川九衛門は苦笑気味に持ち方から弦の引き方を教えると、

「あれを狙えばいいのですね」

 と、いとも簡単に言ってのけるのだった。

それを聞いた参加者からどよめきが起こったのである。

 大声では言わないが非難の声が上がった。

「御前である。控えーい」

 年寄りの一人が見かねて静止させる。

そんな中に在って房吉は悠然と佇んでいた。

 先ずは宗衍公に一礼すると、左袖を脱いで片肌を出した。

誰もそのようなことを教えてはいないので、恐らく競技者が行った姿を真似たものと思われる。

 為川指南役から鬼払弓を受け取って左手に持ち、右手で弦を引っ張っている仕草を見せると、近くにいる者達の耳にビュンビュンと音が鳴り響いて来た。

「まさか…」

 誰もが己の耳を疑った。

すると房吉は矢を二本貰って、一本を床に突き立てたのである。

右手に持った矢を弦に番えると、グッと引いて、狙いを定めるまでもなく、二十間先の標的の巻き藁を見事射ぬいたではないか。

一同から驚嘆の声が上がった。

誰も矢を番えることの出来なかった鬼払弓で二十間先の標的を当て、そのまま後方に飛ばしたである。

 宗衍公は大満足で浜田川と綾錦を傍に呼び寄せた。

「浜田川房吉、実に見事であった。誰もが為し得なかったことを果たしたのには感服致したぞ」

「恐れ入ります」

「そなたは誰かに教わって居ろう、爲衛門か」

 と綾錦を見る。

「弓矢を手にしたは初めてにございます」

「まさか―如何にして斯様なことが出来るのか予に教えては呉れまいか」

「難しゅうございまする。あの弓は力任せでは引くことは出来ませぬ。コツとでも申しましょうか、ある所を過ぎますと急に抵抗がなくなって楽に弾くことが出来ましてございます。船を砂濱に引き上げる時の要領に似ておりましょうか」

 腕に力を入れるとか、指先の使い方等に理屈では説明できないものであった。

要は目一杯力を使うのではなく、ある所ですッと抜いて瞬間に力を使ったと言うのである。 これはある意味武術の極意のようなものかも知れないと宗衍は思った。

「左様か、ところでその方大多々良との取組で優勢でありながら負けたのはどうしたことか、答えられるか」

 宗衍公は興味深く訊ねる。

「あの技は私めに課せられた禁じ手でありました為、途中で止めたその隙に技をかけられてしまったのです。未熟の為負けたのです」

「成程、師匠はその方であったな。綾錦は実に好い弟子を持ち、房吉は素晴らしい師匠の下での修業は幸運と言える。

 重教しげみち公もそなたらの活躍ぶりに嘸かし満足であろう。その内そなたらの世界も変わる。必ずな…」

 その意味するところは爲衛門には察しが付いたが、房吉にはさっぱりであった。

二人は宗衍公より高価な褒美を沢山貰って、赤坂松平家の門を出た。

 両脇に唐破風屋根のついた番所のある大変大きな冠木門を見返りながら綾錦はしみじみと言った。

「房よあの時お前が大多々良を投げ落としていたならば、これらの土産もこうして門を眺めることも無かっただろう」

 綾錦は房吉の禁じ手使用ををたしなめるように言うと、

「心得違いをしておりました。お許しください」

 房吉は師匠の前では素直になれた。

子曰しいわこれを知る者は之を好む者にかず。

之を好む者は之を楽しむ者に如かずだが解かるか…」

 綾錦はその意味を問うと、

「先生はおっしゃいました。物事を知る者はこれを好む者には及ばず、好む者はこれを楽しむ者には及ばないというこです」

 房吉は澱みなくそのように解説して見せた。

「相撲は格闘技だからどのような技を使っても勝てばよいのだが、それらが本義からかけ離れることで形骸化して怪我や死に至る技を禁じ手として、見て楽しむ格闘技となってしまったのだ」

 勧進相撲の興行もご公儀の禁令が解けて久しいが、相撲部屋所属では殆どの者は食べて行けず、大名のお抱え力士が多かったのである。

 その為勝負の結果にまで口出ししたり、配下の力士を優位にさせるなど横車を押したものだ。

会所としては町民たちも楽しめる勧進相撲というより会所主導の相撲の発展を志向していたのである。

 こうして勧進相撲は復活して行くのだが、職業相撲としての発展はもう少し先で、大阪や京都での興行より江戸開催に重きを置いた興行になって行った。



 本郷の屋敷に戻った綾錦と房吉は太刀川と共に中郷源四郎の住まいに向った。

源四郎は三人を機嫌よく迎えて労った。

「その方らの働きは殿に報告して置いた。大層喜ばれた。特にその後の鬼払弓の弓を弾くことが出来たのが房吉だけだったと聞いて、驚いて居られた。何しろあの諸見十郎兵ですら叶わなかったものを、僅か十六歳の少年が然も弓を持ったことの無い者が剛弓を引いて的に当てたというのだから、驚くのは無理もない。いづれ殿に御目通りすることになるだろうが、今日のところは拙宅で辛抱してくれ」

 席を広間に移すと、相撲衆が並んで待って居た。

小者や女中らが酒と摘みを運んできた。

「何もないが寛いでやって呉れ」

 膳には大根でにしんを挟んだ大根寿司に、いものこ(里芋)の煮つけや加賀麩があった。

酒の肴とは言え食べる量が違う。

況してや飲まない者は食べるだけなので、小者らが鍋ごと運んできて幾つか火の入った火鉢に載せて女中が給仕していた。


 頭取の側には太刀川に諸見十郎兵、綾錦爲衛門に房吉が居た。

「お主は呑めぬわけではあるまい」

 と再三勧めても飲まないのが太刀川であった。邸内での飲酒は禁止されてる為であろうか、固辞して飲まなかった。

「おいおい太刀川よお主は実直過ぎるで…。殿のお許しあっての酒宴なんだから」

 ではあっても、こうして飲むことに寄って歯止めが利かなくなることを恐れていたようである。

 どんちゃん騒ぎをしないで静かに飲んでいる連中は幾らでも居た。

酒豪の綾錦は幾ら飲んでも決して乱れることはなかったし、十郎兵もいける口のようだった。

 房吉は只管食べ物を口に運んだ。

それを見て中郷源四郎は女中の玉枝に指示すると、

「房吉さん、慌てんといんぎらー(ゆっくり)と食べたらええに」

 と言いながら、いものこ(里芋)の煮つけを皿に盛る。

「姉さんおいら酒飲めないから食べるだけだもの」

「それなら棒茶さ飲む?」

「棒茶って何?」

「茎まで焙じたほうじ茶でおいしいから」

 と言うと、台所に行って急須と茶碗を持って来た。

「どうや」

 琥珀色したお茶は意外とさっぱりした飲み口であった。

「上手い」

「良かった」

 破顔の房吉を見て玉枝は嬉しかった。

この童顔の少年がこの屋敷における有名人なのだ。

初めて接する少年に奇妙にも憧れを抱いたものだった。


 その三日後、綾錦爲衛門と房吉は重教公しげみちこうに召されて御殿へ上がるのだが、綾錦までは裃着用の為中郷源四郎手配の御女中が着付けにやって来た。

 お殿様に取り立てて貰った士分とは言ってもお目見え以下であり、普段裃を着用することなど無かった。

普段は表御殿内の雑用係だと言う女中須江は、褌一丁の筋骨隆々の爲衛門の体に見とれてしまい手が止まっていた。

「如何された」

「あっ、失礼しました」

 須江は恥じらうように俯いてから長襦袢と着物を着せると紐で留め、帯を一文字に結び、肩衣と袴を着けると大小の刀を差した。

紋は一に三ツ星であった。

「御立派ですわ」

かたじけない須江殿。馬子にも衣装であろう。礼を申す」

「何時でも何なりとお申し付け下さい」

 後は房吉に羽織袴を着せて終わった。

先ず太刀川を迎えに行き、頭取を迎えに行った。

 一行は邸内横断を避けて御厩から御作事門方向へと進む中で二か所ほどに屋敷があった。江戸詰め家臣の屋敷地の様だった。

東長屋門を過ぎて築地塀沿いに中御門があった。

 この門より表御殿に入ると、奥向きの女中が式台から御料理之間へと案内した。

此処は正月元旦に平士らが君主にお目通りする部屋であった。

既に弓術指南の竹岡三太夫直親他三名の者が到着していた。

待つこと半時(一時間)、数人の小姓、近臣を伴って現れた。

おもてを上げよ」

 重教公の声が部屋中に鳴り響いた。

房吉が頭を上げると、他の者が未だ平伏して居たので慌てて頭を下げると、慌てた為畳におでこを打ち付けた。

「痛~っ」

 とおでこを摩ると、それを目撃した小姓や腰元が思わず吹いた。

「これ笑うでない」

 と諫める重教公も口元を緩めていた。

「さて中郷源四郎、此度のその方らの活躍について宗衍公より今朝方書状が届いた。

弓方らの健闘を称え、相撲衆の活躍に驚いた旨認めてあった。更には余興での突出した浜田川の働きに豪く感動した旨記されて居るのだが、この浜田川と言う四股名は初めて耳にするが其処に居る者がそうか?」

 と中郷に訊く。

「左様でございまする。下総の國馬加の産で弱冠十六歳、綾錦の弟子にござりまする」

「爲衛門の弟子とは面白い。宗衍公は書状にこうも書いておる。

『勝ち上がり方によっては師弟の対決が見られたとこだが、浜田川の負けによって実現しなかった。私見を申せば、勝ちを譲ったように思えないこともない。これは行司とて微妙な判定であったように思われる。』とあるのだが結果としては両家にとって良かったのだ。とに角浜田川の馬鹿力には驚嘆されたようだ。 浜田川構わぬ近こう参れ」

 中郷源四郎に促されて、一番前へと進み出た。

「おう成程、まだ子供だのう」

 体つきは立派な大人で関取の風格だが、首から上が何とも愛嬌のある童顔であった。

「房吉に浜田川の四股名を付けたは何故か」

 と太刀川に問うと、

「恐れながら申し上げます。房吉の故郷馬加に海に注ぐ小さな川が御座いまして、それが浜田川と申しましたので、取組表作成時に思いつきで四股名としたものにございます」

 太刀川は平伏して答えた。

「ならば正式に濱田川房吉と命名致そう」

「有難き幸せに存じまする」

 こうして房吉は四股名を濱田川とし、後に

濱田三郎房吉と名乗ることを許されたが、後々までこの名が残ることはなかった。

「ところで爲衛門、其の方の家紋は一に三つ星だが本姓は毛利ということか」

 重教公は乗り出すようにして訊ねる。

「左様にございます」

「毛利家は長州三十八万石だが、その方の家も安芸の出ということかな」

「恐れながら当家は大江廣元の四男基親を祖とした越後の系統で、何代目かが慶長年間に利家様にお仕えしたものでした」

 房吉は師匠の出自が毛利元就らと遠縁であることを知ると、畏敬の念は更に高まったものだ。

 慰労の宴も先祖の話に逸れて終わった。



 十二月に雪が降った。珍しく邸内を白銀に染めたのである。

国許では城下は然程でなかったが、近隣の農村や在所では翌月にかけて大雪が降った。

氷室に貯める雪としてはまずまずの量が得られたが、まだまだ質の良い雪氷が必要であった。城内二の丸の氷室に貯めた。

此処で貯蔵された良質の雪氷を春に江戸へと運ぶのである。

従来だとそれは板橋平尾邸(下屋敷)か駒込中屋敷の氷室に貯蔵され、六月朔日の氷室の日に将軍家へ献上された。

 邸内不二の麓の穴蔵は雪氷の保管と献氷直前に行う製氷の為、完全に氷蔵であった。

これを管理したのが手木足軽衆である。

相撲取りでもある諸見十郎兵らがその任に当たっていた。

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