第4話 奇妙な視察

 


 部屋に戻ると、頭取の小者がやって来て、戻り次第会所に来るようにとの伝言を伝えに来たのである。

「房、荷物を整理しておけ」

 と言って会所へ向かった。

 

荷物を整理していると喜三郎がやって来て、

「関取に買って貰ったのか良いな。おいらなんか兄弟子のお古でボロボロさ」

「こないだ買って貰ったって言ってたじゃん。優しい兄~だって…。おいらも良いなって思ったもん」

「ここんとこ、あっちの方負けてばかりいるようで、で機嫌が悪いんだよ。おいらの所為じゃないのによ」

 如何やら博奕ばくちで負けが込んで当たり散らされているようだ。

本来博奕はご法度だが、中間小者達は何処かのお屋敷に集まって遊んでいるらしかった。


 晩御飯の支度が出来ても綾錦らは戻って来なかった。

如何やら話が長引いているようだ。

若いしらは支度を済ませて帰りを待っていたが、結局食事を済ませて待つようにとの言付けが齎されたのである。

力士らはブツブツ言いながら片付けまで済ませると、思い思いに横になって待って居た。

「待たせたな」

 太刀川や綾錦らを従えて頭取の中郷源四郎が入って来ると、だらけた姿勢の力士たちが跳び起きて、緊張の表情で正座した。

「待たせて済まなかった。膝を崩して座るが良い」

 一同はほっとしたように表情を緩め、胡坐をかいた。

「これから話すことは他言無用だ。決して他家に知られてはならぬ故特と心得よ」

 中郷源四郎は一同を見回しながら話始めた。

「お主らの大半は江戸若しくは近在の出身かな。―そうでない者も居るようだが―

 さてもう直寒い冬になるが、江戸も寒いが国許(金澤)はもっと寒い。御城下はさ程でないが、その厳しさは住んでみなければ解からぬだろう。雪深い所では住まいの周りは除雪せねばならぬ程積る。

 その雪だが、所によっては家屋が潰れるほどにて常に除雪を強いられて難儀するが、これを天の恵みと受け止めれば利用の価値も見出せるというものだ」

 小者が入れた茶を飲んで一息つく。

「房吉雪が沢山降ったらどうする?」

「おらは孔っこ掘って一杯詰て、おとうが漁で取って来る獲物を入れときます」

「何で?」

 源四郎は感心しながら態と問う。

「獲物が腐らないので日持ちするからです」

 太刀川も綾錦も房吉の答弁に感心した。

このぐらいの年齢なら玉を作って雪合戦か雪だるまを作るが大方の答えと思うからだった。

 源四郎はにこにこしながら話を続ける。

「穴倉か小屋に雪を貯めて、或いは氷を解けないように保管して置けば良いのだ。これを氷室ひむろというのだが、国許は無論のこと数か所に在る。

 この江戸には駒込(中屋敷)と板橋平尾(下屋敷)にあるばかりだが、この度本郷(上屋敷)にも増設することに相成った。

 ついては六月朔日の氷室の日に於ける将軍家献上の儀は当地保管の物より直接対応することになる」

 邸内のある所にそれは造られるのだが、造営や管理の一部に関わることになると説明があった。

国許からの運搬や献上時の運搬には手木足軽てこあしがるが維持管理を担った。


 翌日稽古場に中郷頭取が、がたいのいい足軽を連れてやって来た。

太刀川は稽古を止めさせると、岩五郎と駒市、房吉と喜三郎の四名を広間に呼び、頭取がこれからの予定を話し始めた。

「昨日の話の続きだが、屋敷内に氷室を設ける為の場所の選定と室の規模を決定したいと思う。これなるは手木足軽頭諸見十郎兵と言って氷室の施工と保管維持管理を担当する。岩五郎ら四名は施工時の手伝いと献上の雑事を担って貰う。ではこれより候補地の視察に参る」

 相撲小屋を出ると隣りにある庭園に入った。三代目藩主の利常公としつねこうが設けた苑池であったが、五代目藩主の綱紀公が御亭や橋等拡張整備し、育徳園と名付けた。

その庭園の西側に小山があった。

サザイ山と呼ばれていて南御殿側から螺旋状に上る道があり、頂上から四方が展望で来た。 諸見十郎兵は麓を巡り観て帳面に書き記していた。

「如何かな」

 中郷源四郎の問いかけに、

「大きさは十分ですが、下の者が出入りします故如何なものでしょうか」

 庭園の手入れの為に職人が入るのは仕方ないが、客人を案内したりすることから考えると、適当とは言えなかったのだ。

 そんな会話も気に留めることなく、房吉は目の前に広がる景色に見とれていた。

綾錦に此れは造ったものだと聞かされて、心字池の向こうの小山から下る道や船着き場の子船を見ていてふるさと馬加を思い出したのである。

 濱に漁船を引き上げるのはどうしているのか、かかぁや妹の多根は達者でいるのか…。お父や兄やのことはさして気にならなかった。

「房吉ぼけっとしてないで聞けま」

 綾錦は時々金澤弁を交えて話すが、比較的解かり易い言葉の時に使った。

 最初の頃はそれでも解らなくって、

「お国の言葉ですか」と訊くと、

「ほーや(そうだ)」と答えて意味を教えてくれるのだった。


 一行は通用口から表に出て、御住居表御門前を通り抜けて大御門の手前にある脇門から中に入ると、東西向き合う形の土蔵のある敷地に入った。

その東側の土蔵棟がきれた辺り掛塀越しに山のような物が見えた。

「あれが旧富士権現として祀られていたものだ」


 中郷源四郎はそう説明した。

 二枚開き戸から中に入ると、

「凄い、富士のお山だ」

 と房吉が大声を上げたが、皆は子供のこととて一笑に付した。

この地が前田家に与えられる以前には富士山信仰の為浅間社を勧請し、近隣の人々の信仰を得ていたのである。

富士権現社が駒込に移ると、更に多くの人の信仰を得るとともに前田家の若君、姫君の宮参りも其処で行われた。

 諸見十郎兵は拝殿の在った頂上部は無論のこと、細部にわたって検分した。

 権現旧地は西・南・北の半分ばかりが掛塀で囲まれており、直接ひとの目に触れるとすれば、東側の御住居から表御殿への渡り廊下からのみで、特に問題はなかった。

 諸見十郎兵は中郷源四郎に何か所かで立ち止まって、何やら説明を加えながら話して居た。

「では圖面を引いてくれ」

「承知しました」



 江戸の冬も寒いので結構雪が降った。

献上用の雪氷を貯蔵する氷室は山の中程で地中十三尺ばかりのところに、間口三間奥行き二間、高さは六尺半の穴倉を掘って板状の石で囲んだ部屋を造り、更にはその内側に二間の一間半に高さ三尺の置台を付けた部屋を設け、その上に雪氷を入れた長持ちを二棹並べ置けるようにするというものだった。

 詰まりは二重の造りで外側との空間には雪を詰め込んで、長持ちを保管した後に封印するというのである。

地上から室へは長さと幅のある平石で緩やかな階段を設けて地下に降りられるようにする。

 これが国許から届く献上用の雪を保管する部屋であるが、その他に詰め込む雪を保管して置く部屋と更には邸内使用の食料等の貯蔵施設を合わせて拡張することになったのである。

完成すればお山の下は保冷庫ということになるのだ。

 中郷源四郎頭取(路地奉行兼務)は費用捻出の為作事方や財務方との打合せに明け暮れた。

国事であるとは言え決して百万石の台所も楽でなかったからである。

 領主の意向とは言え、施工上の実務については、年寄は勿論のこと人持組辺りの上級者から反対意見が出ること必定であった。

中屋敷や下屋敷の氷室で十分だとの意見もある。

 だがどうしたことか普請費用の見積りと建議書が通ったのだが、それは条件付き許可ではあったが、とに角裁可されたのである。

建議書は路地奉行中郷源四郎によるものであった。

 将軍家献上の雪氷は国許から冬若しくは春先に特別な経路を通って下屋敷ないしは中屋敷に運ばれて保管されたものだが、上屋敷から直の方がより上質な雪氷が献上できるとし、その為の保管に工夫が凝らしてある旨説いてあったのである。



 さて話が逸れてしまったように思われるかも知れないが、実はこれらも相撲衆らの仕事の一部でもあったのだ。

 では本筋に戻るが、正徳から享保年間に幾たびか勧進相撲が行われたが、相撲取りでない者が勧進元になったり、浪人らが暴れたりした為、本職以外の勧進元は許可されなくなった。

 相撲衆を抱える大名家は他家との交流で力士らの日頃の鍛錬の成果を見ることと、それらの活躍を楽しんだものである。

 特に雲州松江の松平家とは参勤交代に於ける参府が子・寅・辰・午・申・戌の各年と同じであった為、何方かの上屋敷に於いて御前試合を行った。

 


 今回は桜田門外永田町に在る松平家上屋敷に於いて行われることになった。

 殿上には松平宗衍まつだいらむねのぶ公を始めとして奥方や近臣の方々が居並び、土俵を囲む回廊には上級家臣や奥女中らが座して居た。

時には御両家御当主様が並んでの御高覧もあった。

 土俵の両脇に其々の関係者が床几に座っていた。

主催者側の挨拶の後、前田家相撲頭取の中郷源四郎が答礼の挨拶をした。

 取組についての説明は当家相撲衆年寄り格の嶋乃海が行った。

 双方十名ずつなので、取り組表は太刀川と嶋乃海の監視の下に作成されたものを発表した。


 房吉は十五歳で初めて御前試合だが、抑々他家の力士との取り組みは今回が初めてであった。

 取組は勝ち抜き戦で、一回戦は双方が決めてきた一番手から十番手までの者同士をそのまま組み合わせたに過ぎないのだが、前田家のトップは小結綾錦であった。

相手は前頭の大堺であったが、豪快な上手投げで勝った。

 岩五郎は六番手で一つ勝ち上がり、葛山が十番手で初戦武蔵川に敗退した。

仲良しの喜三郎の兄弟子火炎山は八番手で島根海に屈した。

房吉はというと九番手で前頭の秀の谷と当たった。

 初陣と言うのに特に緊張した様子もなく土俵に立った。

身の丈六尺、目方は三十二貫目ばかりなので、その点では秀の谷と遜色なかったが、年齢が弱冠十五歳で取り組みは初めてということが松平方に知れ渡ると、勝ちは貰ったという仕草と表情が見られた。

 先ずは御殿に在わす松平宗衍公に向かって拝礼した。

 吉田盛之介の軍配が返ると、秀の山が浜田川の横面を張りに行った。

これを真面に食らったら大概の者は土俵上に伸びてしまったものだが、伸びてしまったのは秀の山の方であった。

 浜田川は立ち合い秀の山の張り手を摑んで手繰り寄せると同時に体を開いて足を払ったのである。

決まり手は蹴手繰りとされた。

本人は決して勝とうとしているわけでないのだが気が付いたら勝って居た。

 師匠の綾錦は大堺、戸板川、諸見岳に勝ってもう一方の勝者を待っていた。

このままだと愛弟子の浜田川との決戦になりそうであった。

 初戦秀の山に勝った浜田川(房吉)は島根海、武蔵川に勝って大多々良との対戦となった。売り出し中の前頭で技師との評判であった。

がっぷり四つに組んだ浜田川は相手の揺さぶりを受けながら得意技を仕掛けるタイミングを窺った。

 大多々良が得意の左に巻き返しに出て来るところを待ってましたとばかりに上手・下手を得意の位置にずらして固めると大多々良の身体をひょいと持ち上げたのであった。

「やめろ房吉、降ろせ」

 声をかけたのは太刀川であった。

ハッとして動きを止めた浜田川の体は、四つの形に戻った大多々良の腰投げを喰らって、土俵に転がったのだが大多々良の身体も略同時に土俵に転がっていた。

「勝負あり~」

 軍配は浜田川に上がったが、物言いが付いたのである。

勝負見極め役三名と行司との審判は二分した。投げを打った大多々良の膝と投げられた浜田川の手の着地がどちらが早かったかなのだが微妙であった。

 結局中郷源四郎の裁定で大多々良の勝ちとなったのである。

結果の成り行きを案じていた宗衍公は大多々良の勝利と聞いて満足に頷いて居た。

勝ち残ったのは前田家の小結綾錦と松平家の前頭大多々良であった。

 最終戦の前に半時の休憩となった。

浜田川は単なる付き人房吉に戻って綾錦や兄弟子たちの世話をする。

井戸端で水を汲んでいると、島根海という未だ若い前頭格の力士が声をかけてきた。

「あんたの強えのには実におべたよ(驚いた)」と誉め、下總の漁師の出と知って松平家へ来ないかというのだった。


「おいらのような半端もんじゃ役に立たねえです」

 謙虚な気持ちで答えたのだが、島根海は十分だと言うのである。

この時代はまだ相撲だけでは食って行かれなかった。

 相撲部屋はあったが、それらが成り立つ程の満足な興行は無かったのだ。

おまけに一連の騒ぎに寄って数十年御公儀から禁止されていたが、漸く解禁となって、寺社奉行監視のもとに勧進相撲が行われていたのであるである。

 元々相撲は武士たちの鍛錬手段でもあったが、鍛える格闘から見て楽しむものに変化した結果、大名らの娯楽として相撲取りを抱えて楽しむ道楽となった。

だがどの家でもとはいかなかった。

 徳島蜂須賀家や仙臺松平家なども抱えていたが一時期は公儀(幕府)の締め付けもあって絶えていた。

 そんな財政難の中に在っても前田家や松江松平家のお抱え力士は存続したのである。

両家の相撲衆は単に相撲を取るだけではなく、必要に応じてもう一つの仕事をしていたのである。

 松平家で言うと、松平家所有の帆船の水主かこであったので相撲が無くても水夫として乗船の仕事をしていたのである。

 前田家には特殊な能力を具えた技術集団が存在した。

これらは普段は庭園の造営管理を担っているが、時に地震等で崩れた石垣の修理普請に駆り出されることもあった。

 地位は手木足軽てこあしがると言うから軽卒の筈だが、普通の足軽のような軽輩ではない。

特に選考に当たっては美男で力持ちでないと採用されなかったと言い、その審査は極めて厳格で、必要な資質を備えてなければ例え親の引退に伴っての世襲を望んでも叶わなかったのである。

 この手木衆にはもうひとつ、重要な役目があった。

それは例の雪氷の維持保存であった。

詰まり氷室の管理である。国許金澤では相撲衆がこの役目の一端を担っていた。

 相撲好きな三代目領主利常公の叡智によるもので、相撲の合間或いはその逆としても、決して無駄に家臣を抱えることはしなかったのである。

 


 扨て半時の休憩時間が終わって宗衍公が殿上に戻ると、年寄りの嶋乃海が決戦の口上を述べると、綾錦と大多々良が土俵に上がって睨み合った。

双方とも業師である。

 行司の軍配が返ると差し手の取り合いとなった。二人は喧嘩四つである。

大多々良が寄りに出ると綾錦は下手投げを打つというように技の掛け合いになったが、残す大多々良を引きつけた綾錦は足を払うように二丁投げに下したのであった。


 勝者は回廊に取り付けられた階段から段上に上がって殿様から直に褒美を賜るのだが、その前に休憩となった。

綾錦爲衛門はこの間に控え所にて衣装を整えて、階段下で着座を待った。

 四半時ほどして宗衍公が着座すると、段上の近臣が上がるように合図したので、裾を払って回廊に上がると御礼の挨拶を述べた。

「綾錦であったな。其の方の繰り出す多彩な技には感服致した。 

重教公への良き土産が出来たではないか」

 綾錦は褒美を頂くと段上から降りた。

この日は相撲ばかりではなく、弓術の交流も行われていた。

相撲衆の中で見物を希望する者があれば許されたので綾錦や葛山、岩五郎らと付き人が残って会場の隅から眺めたのであった。

 大体の者は的には当たるのだが、中心を射抜居た者は僅かであった。

勝者は松平家の者であった。


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