雨とモノローグ

ふたみ

雨とモノローグ


 古川秀が少年時代の自分と生活を共にするようになって、一ヶ月が経った。季節はいつの間にか秋に変わり、古川はかつての自分に長袖の服を何枚か買ってやった。しかし、本当はそんなことをしてやりたくはなかったのだ。そんなことをすると、まるでこれからの時間も共に過ごすことを認めてしまったようで嫌だった。彼は少年時代の自分を自分と認めることができなかったし、かといって他者だと割り切ることもできなかった。ただ、目の前にずっとどうにもできないあいまいな出来事があること自体が、彼を苦しめていた。

 秀は(古川は仕方なく少年の自分のことをそう呼んでいた)一ヶ月前に古川のアパートにいつの間にかいて、そのまま居ついてしまった。会社から帰ってみると、自分の部屋のドアの前に彼がいたのだ。子ども?と思いながら近づいた古川は、しかしその少年が振り向いた途端、それがかつての自分だと直感して身動きがとれなくなった。どうにか平静を装って、鞄から自宅の鍵を取り出し、少年に身振りでどいてと示す。秀は全く抵抗しなかった。表情ひとつ変えなかった。鍵を鍵穴に差すと、ジャリッという冷たい音がした。古川はドアを開けてから、かつての自分の様子をうかがう。秀はただ、自分の足元に視線を落としていた。

「なんで来たの?」

 と古川は尋ねた。秀はただ、首を横に振った。最初の衝撃が去ると、自分がこの異常な事態に冷静に対応していることを古川は不思議に思った。

「どこから来た?」

「……学校」

「家には帰らないの?」

 秀は一度だけ顔を上げかけて、しかしまた足元に目を落とす。首を横に振った。

「帰れない?」

「うん」

 古川はぼんやりと少年の自分を見つめる。うつむいた首があらわになって、折れそうなほど細い。中学生になっているかどうかという年齢だ。その首筋に、少しだけ汗が浮かんでいるのが見て取れた。自分にもこんな頃があったのだなと思うと、古川は体の奥に溜まった疲労を感じた。彼は秀を自分の家に入れてやった。

 秀は今、テレビを見ている。買ってやった長袖のTシャツの袖が少し余って、秀はその袖をいじりながら画面を見つめている。秀は食事をするときや寝るとき、トイレに行くとき以外は大抵いつもテレビを見ている。背を丸めて画面に見入っている少年を視界の端にとらえながら、古川はこの先も秀と一緒に暮らすのかと思い憂鬱に心を重くした。古川がなぜこのアパートに来たのかを尋ねても秀はわからなかったし、自分から何かを話そうともしなかった。古川の両親は健在であるが、まさか秀に俺の実家に帰れとも言えない。ただずるずると、二人の共同生活は続いていた。

 ご飯ができたよと秀を呼ぶと、彼はテレビの電源を消してのろのろと食卓へとやってきた。二人は同じ人間なので、好き嫌いに関してはまったく悩むことがない。古川が好きなものを秀も好きだし、古川が嫌いなものを秀も嫌いだ。基本的に古川の食事は白米だけ炊いて、あとは近所のスーパーで買ってきた総菜である。レトルトの味噌汁やフリーズドライのスープをつけることもある。この日はアジフライが安かったので、食卓には一匹ずつアジが並んでいた。古川は、タルタルソースもあったらよかったな、と思いながらそれに醤油をかける。秀が箸を取ったままそれを見ているので、醬油入れを差し出すと、秀はそれを受け取った。少しだけ醤油を垂らす。二人は夕食を食べ始める。

「タルタルソースがあったらいいと思わない?」

 秀は口を動かしながらこくりと頷いた。

「でも、うちでは出してくれなかったよね」

 秀はまた頷く。遅れて、うん、と返事をした。

「お母さんは元気?」

 おかしな質問だと思ったが、目の前の少年の母親の状況を自分は知らないのだ。秀はちら、と古川を見ただけだった。それがどういう意味なのか、古川にはわからない。古川はたくあんに箸を伸ばす。甘くない、しょっぱめのたくあんだ。古川も秀も、甘いたくあんは嫌いなのだ。

「いつうちに帰るの?」

 秀は答えない。キャベツの千切り(これも千切りにしてあるものをスーパーで買った)にマヨネーズをかけている。

「一度実家に帰ってみるか」

 秀は答えない。もう一度、古川は同じ言葉を繰り返した。秀は小さな声で、しかしはっきりと「ここがいい」と言う。古川はそんな秀を眺める。古川は秀のことをかつての自分だと信じて疑わなかったが、一つだけ、おかしいと思うことがあった。それは秀のひたいに大きな傷痕があることだ。古川は過去にそんな傷を負ったことがない。それは彼にはなかったことなのだ。

 秀は食事を終えると食器を流しに持っていき、水につけた。そして、引き寄せられるようにテレビの前に腰を下ろすと、リモコンで電源を入れる。画面に明かりがつき、秀の顔を照らした。古川は、テーブルの上の醤油入れを見つめる。食事を終えると、自分と秀の分の食器を洗った。

 洗い物が終ると、濡れた手をふきながら、古川は秀の姿を眺めた。その顔は液晶の明かりを受け、かすかに色が変わって見える。ひたいの大きな傷の上にも微妙な色が混じり合って、薄いまだらに染まっているようだった。


 ***


 仕事が休みだというのに、その日は朝から雨が降っていた。いろいろと買い足したいものがあったが、雨なので古川はすべてネットで注文して済ませてしまう。狭いアパートに秀といると、息が詰まりそうだった。なぜ自分がこのような思いをしなければならないのかわからなかったし、何より諸悪の原因は秀なのだと思うことがやめられないのが嫌だった。

 警察に連れて行こうか? もう何度目かわからないそんな思いが頭をよぎる。古川は秀を一度も他人に会わせていなかった。冷静に考えれば、少年の自分が今の自分を訪れるということはあり得ない。だとしたら、この子はかつての自分ではないということになる。ならば、本当の家に帰すべきなのだ。

 古川は立ち上がると、ふらりと秀の後ろに立った。秀はいつものようにテレビの画面を見つめていたが、背後の古川が動かないので、少し居心地が悪そうに身じろぎをする。しかし、彼は何も言わずテレビの画面を見続けていた。誰とも関わらないことで、秀は身を守ろうとしているのかもしれなかった。

 しかし、いったい誰から身を守るというのだろう?

「出かけよう」

 古川は考えを断ち切るように、秀を誘った。秀は怪訝そうに少し眉を寄せたが、古川はかまわず身支度を始める。このままだと、本当に秀を警察に突き出してしまいそうだったのだ。ほら、とうながすと秀は立ち上がる。彼らは傘を持ってアパートを出た。

 しとしとと雨が降っていた。古川は少し遅れて歩く秀を時折振り返りながら、駅までの道を歩く。いつも通り改札まで向かいかけたが、思い直して切符売り場で立ち止まった。普段は交通系ICカードを使っているが、秀がいるので切符を買わなければならないことに気が付いたのだ。適当に二枚切符を買う。電車を待っている間に、どこに行きたいと尋ねたが、秀は「わからない」としか言わなかった。古川は久しぶりに映画館へ行くことにした。

 たどり着いたのは、下町の古い映画館である。古川が子供の頃からあるところだ。入り口の前で秀の顔色をうかがうが、そこには何の表情もない。ビニール傘を差した秀の肩はいつも通りか細く、なんの期待の色もみえなかった。何が観たい? 秀は首を横に振る。わからない。

 古川は、古い映画のリバイバルが上映されているのを見つけた。この天気におあつらえ向きのように『雨に唄えば』である。「これ知ってる?」と古川は秀に尋ねる。秀は首を横に振った。そうか、知らないのか。古川は「じゃあ、これにしよう」と言いながら傘を畳む。秀もそれに倣った。

 古川の記憶では、この映画を観たのはちょうど秀くらいの年齢の頃だったように思っていたのだ。しかし、秀は知らないという。自分はこの映画を観る前の自分に会ったのか? 今まさに、俺は自分の歴史を変えてしまったのか? 古川はそんなことを思いながら、雨の中で歌い踊るジーン・ケリーを眺めていた。

 映画を観終わった二人は、近くの喫茶店に入る。オーダーをしてから、古川は秀に映画の感想を聞いた。秀はお冷を少し飲んでから唇を拭って、しばらく困ったようにしていたが、やがてこう言った。

「布が舞い上がっているところ……」

「布?」

「ものすごく長い衣装が、空に舞い上がってて……」

「ああ、うん。何もないセットの中でドンとバレリーナが躍るところね。幻想的できれいなシーンだよね」

「あんなの……」秀はぼそぼそと言った。「あんなのありえない」

 古川は、その感想にがっかりしてしまった。あれだけハイレベルなダンスと歌を見て、その感想が「長すぎる衣装があんな風に舞い上がるのはありえない」だとは。しかし古川は、なるべく自分ががっかりしたことを秀に悟られまいとした。あれはドンの心象風景であって、現実ではないのだと説明する。だが、秀は相変わらず、ぼんやりと古川を見つめているばかりだった。徒労感に襲われ、古川は口を閉じる。頼んでいたオーダーが来た。古川はブレンドコーヒーをブラックのまま啜った。

「……次はどこに行きたい?」

 秀は「どこでもいい」と答えてレモンジュースのグラスにストローを差す。いつも通りの返事だったが、この時の古川には、やけにその言葉が気に障った。

「いつもその答えだったら、こっちも困るよ。なにがしたいか言ってくれないと」

 秀は無言でレモンジュースを飲んでいる。ふと、古川はこの状況に既視感がある気がした。同じようなことを言った覚えがある。しかし、どこで?

「どうして俺たちが出会ったのかはわからないけど」古川は頭の片隅で、なおもどこでこのようなことを言ったのか考えながら続けた。「ふたりでやっていくしかない以上、非協力的では困る」

 古川の目は、秀のひたいの傷を見つめていた。秀が口を開いた。

「それが家族なの?」

 古川は黙っていた。喫茶店の外では、雨が降り続いている。秀は静かに目を伏せると、小さな息を漏らした。彼も疲れているようだった。


 ***


 翌日は、昨日の天気を少し引きずった曇り空だった。青空は見えなかったが、午後には晴れてくるという。古川はスマートフォンの古い履歴を眺めながら、かつて自分と恋人だった笙野圭とのやりとりを読み返していた。そうしているうちに、圭からの返信がある。彼女の文面は短かった。

「時間はいつでもいいよ。あの場所に着いたら連絡してね」

 古川は体を起こすと、しばらくその画面を見つめていた。彼女に会うのは、いつぶりだろう? 一年以上会っていないのは確かだった。古川は秀の名前を呼ぶ。「なに?」と小さな声が返事をした。

「ちょっと留守番してて」

 古川は圭に返信の文面を打ちながら立ち上がる。じゃあ、今から行くから、四十分くらいで着くと思う。急に連絡したのにありがとう。古川は、文面を送信すると腕時計を嵌めて上着を着た。財布とスマートフォンをズボンの尻ポケットに入れる。その動作のすべてが以前のままだと思った。忘れてないんだな、と思いながら秀を見ると、秀も立ち上がって古川を見ていたので驚いた。

「ちょっと出かけるだけだから。あ、でももし帰りが遅くなったら先にご飯食べててな」

 秀がこくりと頷く。その目を古川は、どこか不安そうだなと感じた。しかし、それに気が付かないふりをして彼は玄関で靴を履く。家を出るときも、あえて古川は秀の姿を目に入れないようにした。

 空は相変わらず曇っていた。風が強く、吹き付けると昨日の雨粒がぱらぱらと木々からこぼれる。古川はそれを避けるように道を歩いた。胸騒ぎがするような、それでいて何かに期待しているような、妙な心地だった。

 笙野圭とは、いつかともに暮らすことを考えていたほどの仲だった。しかし、彼女に別れを告げられて二人の関係は一度終わりになったのだ。ちょっと距離を置きたい、というありきたりな言葉が彼らの最後の会話である。その言葉に、古川も賛成した。圭も自身の状態をわかっているのだな、と感じたのだ。そう思うと、古川は少しだけ彼女のことを許す気持ちになった。圭は精神的にもろいところがあって、それは古川もわかっていたが、それが彼らの限界だったのだ。

 待ち合わせ場所は、圭の最寄り駅近くの交差点だった。しかし、そこに着いても古川はすぐに圭を見つけられなかった。しばらく探したのち、LINEで圭に着いたよ、とメッセージを送る。するとその後すぐ、古川は名前を呼ばれた。

「秀君」

 視線を上げると、そこに圭の姿があった。一年以上前の続きのようだった。

「あ、ごめん」

「なに?」

「いや、来てたんだと思って」

 圭は目だけで笑っている。その表情に古川は安心した。前よりよくなったんだな、と感じた。二人は連れだって歩き出す。圭は、家の近くに美味しいコーヒーショップがあるので、どうせならそこでコーヒーを買って話そうと提案した。古川もいいねと言う。圭から提案してくれたことが嬉しかった。

 コーヒーショップでコーヒーを買うとテイクアウトし、二人は近くの公園に向かう。秋風に混じって、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐる。少し空が明るくなってきた。雨上がりで遊具が濡れているせいか、公園には人影がなく静かだ。彼らはゆっくりと散策を続ける。古川はいつ話を切り出そうかと思っていたが、圭の落ち着いた表情に焦ることはないと考えなおした。

 やがて二人は、濡れていないベンチを発見し「大丈夫かな?」「大丈夫でしょ」と言葉を交わしながら腰を下ろす。

「冷たくない?」

「ちょっとね。でも大丈夫だよ」

 そうだね、と言うと彼らはコーヒーを啜った。圭の言った通り、とても美味しいコーヒーだと古川は思う。そして、圭がリラックスしているらしいことに改めて驚いた。相変わらず風は強かったが、だからこそ熱いコーヒーがちょうどよかった。

 やがて、彼は自然に話を切り出す。圭は静かにそれを聞いた。少年の自分が今の自分を訪れ、一緒に暮らしているという話にも、圭は驚いた様子を見せなかった。古川は圭のそういうところが好きだったと思う。同時に、そういうところが嫌いでもあった。

 古川と圭は恋人時代よく喧嘩をして、その度に必ず圭は傷ついていた。圭はそれをひけらかしたりしなかったが、古川はそれがよくわかり、しかもそれをわかる自分が嫌だなと思っていたのだ。彼女の繊細さや自制心の強さに古川は惹かれたが、一方でその維持に彼女がとてもエネルギーを使っていることがわかると、何か居心地の悪さを感じてしまうのだった。

 いつしか古川は現在のことではなく、圭と付き合っていた頃のことを話していた。

「俺は俺なりに精一杯やってたけど」と彼は言った。「でも、そうすることで実際はどんどん悪くなっていたと思う。圭と一緒にやっていきたいと思ってたから……。それを仕方ないと思ってた」

 圭はあの頃より髪が伸びていた。彼女が首をかしげると、その髪がやわらかく揺れて肩を流れ、それが古川に心地よい印象を与えた。

「つらかったよね?」

「うん」

「知ってたよ」

「……俺も傷ついてたのかな?」

「そうだね」

 圭はうなずいてから続けた。

「でも、私もそれに耐えられなかったんだよ。私も秀君が傷ついてるの知ってたから、それでどんどんおかしくなっちゃったんだよ」

 そう言われて、古川は頭に鈍い痛みを感じた。古川は掌の中のコーヒーカップを両手で包むようにする。話しているうちに中身は大分ぬるくなっていたが、まだ少しだけ温かい。古川はそれを飲むべきか考えながら、再び口を開いた。

「俺、たぶん圭とほんとにやっていきたかったんだろうな」

「それはそうだと思う。でも、ごめん、私は無理だったよ」

「いや、それは俺もわかってたよ。わかってたけどさ」

「うん」

「ふたりで暮らそうと頑張りすぎてて、自分の気持ちを考えてなかった」

「うん……」

 古川は昨日の秀の言葉を思い出し、口をつぐむ。それが家族なの? そう言った後の、疲れきったような秀の姿がよみがえって来た。

 コーヒーカップの蓋を取ると、彼は中身を全部飲み干す。すべて飲み終えてしまう必要はなかったのかもしれないと思ったが、他にどうすればよいかわからなかったのだ。彼は無理やり口を開いた。

「話、聞いてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 圭はにこっと笑った。しかし、古川はその言い方を少し他人行儀だと思った。いつの間にか空は雲が割れて、青空がのぞいている。彼は手の中で紙のカップを潰した。でも、俺たちはこれで良かったのだ、と古川は思う。

「じゃ……もう行くよ。さよなら」

「うん。バイバイ。元気でね」

 彼らはその場で別れた。陽が差してきて、道路のまだ濡れている部分をみるみる乾かしていく。古川はまっすぐに家に帰った。様々な考えで頭の中がいっぱいだったが、気が付くと彼は自分の家の前に立っており、ドアノブに手をかけていたのだ。鍵を開けて自分の家に入ると、秀は相変わらずぼーっとテレビを見ている。靴を脱ぎ、ポケットの中のものを全部机の上に置いて、古川はその隣に腰を下ろした。

 秀の目は無気力に画面を見つめていた。そのひたいには、やはり大きな傷がある。彼は少年の自分へ「その傷は俺のだから、俺に返してほしい」と言った。秀はゆっくりとまばたきをする。その顔はどこか寂しげだった。

「わかった」

 秀が立ち上がる。古川は自分のひたいの傷を見つめる。秀の両手が古川の頭に添えられたかと思うと、秀は思いっきり古川に頭突きをした。大きな音がして、一瞬目の前が真っ白になる。思わず手をついたが、視界の端で少年時代の彼がアパートのドアから出て行くのは目に入った。

 古川秀はひたいをこすりながら、玄関のドアが閉まるのを見つめる。もう傷のない俺はここに帰ってこない、と彼は思う。そういう風に、自分はこれから生きていくのだ。

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雨とモノローグ ふたみ @tateshima411

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