第27話 未練と密告

 アシュリンとクラウスが“アシュリン”を密かに燃やした翌日、蒼白になったのは、その報を聞いたフィルデルガー共和国の将軍たちである。


「何者かが、クルーゲ家領内にある廃屋へ侵入し、枯れかけていた薔薇を燃やしただと?」

「どうやら、その燃やされた薔薇が“アシュリン”だったらしいと言うのか?」

「そもそも“アシュリン”がまだ、国内には現存していたのね? 初耳だぞ、それは」


 王宮内の一室に会した上官たちが騒然となる様子を目前で見ながら、ライナルトは密かにきつく唇を噛んで、己の失策を悔いた。


 ――してやられたな。というか、自分の新居となる予定だった家の庭園に、“アシュリン”が植えられていたことに気付いてなかったなんて、僕はなんて間抜けなんだ。灯台もと暗しもいいところじゃないか。


 ライナルトには、“アシュリン”が植えられているのは、エンフィールド家の庭園の薔薇園のみという強い思い込みがあった。式の後の結婚披露パーティの会場に、ずらりと黄金色の薔薇が飾られていた光景はよく覚えている。だがそれは、オズワルドがエンフィールド家の薔薇園で咲いた“アシュリン”をクラウスに摘ませて運ばせたものだとばかり思っていたのだ。

 しかし、今この事態に陥るに辺り、その薔薇は、実は新居で咲いていた“アシュリン”だったと知る。


 ――だいたい僕は、婚約時、アシュリンと一緒に何度も新居に訪れていたではないか。そうだ、今考えてみれば、あの時庭ではクラウス・ダウリングが黙々と造園作業を行っているのを何度も見ていたじゃないか。そもそも、クラウスがアシュリンの専属庭師となったのも、あの黄金色の薔薇を咲かせられるのは、セオドアの息子である彼しかいない、と理由からだったではないか。でもそれを僕は、ゆくゆくは、という話かと勘違いしていたんだ。


 そう考えながら、ライナルトはアシュリンとの結婚前、いかに自分がしていたのか、ということに思い当たり憮然とした。いかにクーデターの実行直前で、気がそちらに削がれていたとはいえ、だ。


「この責任をどう取るのかね? クルーゲ少尉」


 ライナルトは我に返った。前を見れば、彼は将軍たちの鋭く不機嫌この上ない視線に囲まれていた。こうとなっては、ライナルトに上手い言い訳など浮かぶはずもない。彼は観念して、項垂れながら己の過ちを認めるしかなかった。


「“アシュリン”があの廃屋に今も現存していたと知っていたら、必ず、厳重な管理の上、監視兵を配置していました。それを私の勘違いでみすみす燃やされたのは、完全なる私のミスです。申し訳ございません」

「ふん、ずいぶん殊勝じゃないか。まあいい。騒いでも失ったものが出てくるわけじゃない。建設的な議論に移ろう。問題は侵入して薔薇を燃やしたのが何者なのか、ということだ」

「それは疑う余地はありません。あの薔薇の危険性を知っている者といえば、彼しか思いつきません」

「クラウス・ダウリングかね」

「仰せの通りです」


 ライナルトは短く肯定の意を述べた。すると、そう答えた彼に、またも苛立ちの声を投げかける者がいる。


「そもそも、クラウス・ダウリングの捜索隊はなぜ、まだ彼を捕縛できていないのだ。彼の足取りはオリアナを出たところで途絶えているというではないか。それで彼のハリエット入りをも察知できなかったということは、いったい、どうなっているのか」


 捜索隊の失策は自分のせいじゃない、と思わず反論しそうになって、ライナルトは慌てて言葉を飲み込む。彼がその代わりに口にしたのは、極めて現実的な提案だった。


「ともあれ、これで明らかになったのは、我々にとって、クラウス・ダウリングを捕縛する重要性が、これ以上なく高まったということです」

「それは確かだ。すぐにでも、ハリエット付近の検問を強化するよう通達を出そう。クルーゲ少尉、それは君に任せて良いのかな」

「承りました。すぐに手配します」

「もう失敗は許されんぞ。鼠一匹逃さぬようにな」


 その多分に嫌味が込められた命令に、ライナルトは敬礼で応じる。そして一礼すると、踵を返して部屋を退出した。


 

 ――アシュリン。君とクラウス・ダウリングはオリアナを脱したとき、一緒だったという。ということは、君は、彼とともにこの近郊に潜んでいるのか。


 命令の伝達を遂行するため、足を速めて王宮の廊下を歩みながら、ライナルトは考える。そして、アシュリンのことを思う度に乱れていく、己の心臓の鼓動を意識する。


 ――頼む、一緒にいないでくれ。頼む、僕は、君を捕らえたくないんだ。


 彼は知らず知らずのうちに、左手に嵌めたままの結婚指輪を握りしめた。これに関しては、口うるさい上官からは、いいかげんに外せ、そんなに昔の女に未練があるのか、と日々揶揄されている。だがそう言われる度に、彼は心の中でこう思うのである。


 ――ああそうだ、僕は未練だ。アシュリン、結局、僕は、君を裏切りながらも、理想にも傾倒しきれないつまらない男だ。だから、アシュリン、こんな僕の目の前に現れないでくれ。こんな、つまらない男に成り下がった僕を、見ないでくれ。

 

 だが、ライナルトの望みは儚く消える。その日の夜遅く、彼の元にもたらされたのは、こんな一報だった。


「ハリエット郊外で、クラウス・ダウリング捕縛す。なお、同行していたアシュリン・エンフィールドも同時に捕縛」



 アシュリンとクラウスが当局に捕縛されたのは、ふたりにとっても、ライナルトにとっても、意外極まる経緯だった。

 ふたりは、その前の晩、廃屋の“アシュリン”を燃やしたその足で、ハリエットから脱出しようと試みていた。

 

 “アシュリン”さえ絶やしてしまえば、ふたりはここに用事はなかった。というより、そこにいる時間が長ければ長いほど、危険が身に及ぶことは分かっていた。だから、ふたりはなるべく早く他の地域に逃れようと思案し、いつものように、夜になるのを待って、移動を開始した。


 危険な旅であるのはよく分かっているつもりだった。だが、アシュリンの心はその夜、いつもより浮き立っていたのかもしれない。旅の目的を果たし終えた直後であった、ということもある。しかし、それ以上に、彼女の心を軽くしていたのは、隣を歩くクラウスの存在だった。


 ――なんでだろう。私、こんな状況なのに、クラウスと一緒に連れ立って歩くのが嬉しくて、楽しい。


 そのわけを考え込んだとき「傍に、心から信頼できる従者がいる」という解が、すぐにアシュリンの心に浮かんだのだが、彼女はそのとき、「従者」という言葉に違和感を覚えた。それは、既にアシュリンにとってクラウスがそれ以上の存在になっていたからに他ならない。

 それに気づき、彼女は人知れず頬を赤らめた。


 ――私は、クラウスのことが好きなんだわ。


 そう思い至ってから、アシュリンはクラウスを見上げ、問いを投げかけた。


「ねえ、クラウス。あなた、私のこと、好き?」

「何を言っているんですか。当たり前のことです、お嬢様」

「そういうんじゃなくて」


 アシュリンが声を尖らせながら、急に立ち止まったので、クラウスは驚いたように足を止めてアシュリンの顔を見る。闇夜のせいで、その表情は見えないのがアシュリンにはもどかしかった。

 だから、彼女はもう一度、こう言った。


「……そういうんじゃなくて」


 その声に、クラウスの身体が、僅かに震えた。今度は、アシュリンの真意は正確に伝わったようだ。さぞかし今、彼は困ったような顔をしているんだろう、と彼女は想像する。その顔を、ゆっくりと心に思い描く。それだけの行為なのに、なんだろう、嬉し涙が溢れそうになるほど、アシュリンにはその瞬間が愛おしかった。


 やがて、ゆっくりとクラウスが腕をアシュリンの肩に差し伸べる。マント越しに、お互いの熱と熱が触れあいそうになった、その瞬間――。


 突然、ふたりの目を仄かなひかりが射った。

 目をひかりの方向に向ければ、道は大きな村の村外れに差掛かっていた。そして、そこに建ついくつかの建物のうちのひとつの扉が突如開いたのだった。その飲み屋らしき建物のなかからは、ついで、ひかりとともに口汚い罵声が飛んできた。そして、ひとりのみすぼらしい身なりの女が転がり出てくる。どうやら物乞いの女が追い出されたようだった。

 アシュリンは何気なく路上に転がった女の顔を見る。

 次の瞬間、アシュリンと女から同時に驚愕の叫び声が上がった。

 

「カミラ……!」

「アシュリン……!」


 驚いたことに、物乞いはかつての級友であり親友であった、カミラだった。あまりのことに、アシュリンは呆然と呟く。


「なんでこんなところで、こんなことを……」

「仕方ないじゃない……お父様もお母様も殺されて、家は燃やされて……住むところも食べるものもないのよ」

 

 そう呻くように呟いたカミラが、アシュリンの後ろにいるクラウスの顔を見て、顔を引きつらせた。そして汚れた顔を奇妙に歪ませると、彼女は火が付いたように飛び上がり、村の中心部に向かって駆けていく。


「カミラ……」


 呆然としたままカミラの後ろ姿を見つめるアシュリンは、ことの重大性にこのときまだ、気が付いてなかった。数分後、村の方向から足音高く駆けてきた数人の兵士に、剣を突き付けられて、囲まれるまでは。

 

 兵士はアシュリンには目もくれず、彼女の前に立ちはだかったクラウスの胴にいきなり蹴りを入れた。不意を突かれて地面に崩れた彼の身体に、さらに複数の軍靴が踏みつけられる。

 アシュリンは叫んだ。


「やめて! 乱暴しないで!」


 しかし、兵士はクラウスを踏みつけたまま、冷たい声で問う。

 

「庭師ってのは、お前か」

「なぜ……それを?」


 闇のなか、土にまみれながら呻き声を上げたクラウスと、棒立ちになったアシュリンの耳に、兵士たちの冷笑が響き渡る。

 

「たったいま、物乞いの女から密告があったんだよ。そこに庭師がいる、とな」


 アシュリンは思わぬ友の裏切りに蒼白になった。あまりのことに、ふら、と彼女の身体がよろける。

 すかさず、クラウスを踏みつけていた兵士のひとりが、アシュリンも捕えようと赤い髪を鷲掴みにした。


「離して!」


 そのアシュリンの悲鳴を耳にしたとき、地を這うクラウスの胸に、得も言われぬ激情が湧き上がった。彼は地べたを転がりながらもポケットの魔晶石に意識を集中し、両腕を天にかざす。

 それを見た兵士のひとりが、慌てて叫んだ。


「おい! こいつは内乱時、東の奴らに『黒髪の魔獣殺し』と恐れられた男だぞ! 気をつけろ!」


 クラウスには懐かしい己の異名だった。

 苦い感慨に胸が浸される。意識のどこかで、アシュリンお嬢様には聞かれたくなかった名前だった、と呟く自分の声が聞こえる。


 次の瞬間、夜の闇を裂いて虹色の閃光がクラウスの掌から炸裂した。突如迸った激しい光に身を焼かれ、彼を足蹴にしていた兵士たちが断末魔の悲鳴を上げながら一挙に吹き飛ぶ。クラウスは急いで身を起こすと、アシュリンの手を掴み、元来た方向へ走り出した。


「クラウス! どこへ!」

「この村にいては捕まります! せめてお嬢様だけでも、安全な場所まで送り届けます!」


 クラウスとアシュリンは、手を繋いだまま、闇のなかをひた走る。

 触れあう掌の熱が、この緊迫した状況とは場違いなほどに、あたたかくて、愛しくて、アシュリンの瞳からはいつしか涙の飛沫が舞った。

 彼女はクラウスへの溢れる想いのままに、息を切らしつつ叫ぶ。


「クラウス、嫌よ! 私だけ逃げるなんて、そんなの許さない……! 許さないから!」


 そしてアシュリンの足が、闇のなか、ぴたり、止まった。

 彼女を引っぱるように走っていたクラウスも足を止め、アシュリンのほうを振り返る。そして、突如身を包んだ柔らかな感触に息をのむ。


 アシュリンがこう囁きながら、クラウスの逞しい胴を抱きしめたのだ。


「どうせ殺されるのなら、一瞬でも長く、あなたとこうしていたい……」


 遠くから風に乗って、追っ手の声が聞こえてくる。春の夜風が少しの肌寒さを持って、闇を包む。

 その只中で、ふたりはいつしか、ひとつの彫像のように身を寄せ合っていた。アシュリンに続くように、クラウスもアシュリンの細い肢体に腕を回し、きつく抱き寄せる。ふたつの体温が重なり合い、吐息と吐息が触れあう。


 ともすれば、互いの心臓の鼓動さえ聞き取れそうだった。


「駄目です……お嬢様は生きて下さい……戦術魔術を使って時間を稼げば、あなたひとりなら逃げられる……」

「それは許さないわ」

「なぜですか!」


 漆黒の闇のなか、触れあう熱だけがひたすらに、あたたかい。

 こんな状況でなければ、永遠にこのままでいたいとクラウスは密かに思った。それでも彼はアシュリンにだけは生延びて欲しかったので、涙声のアシュリンに声を荒げる。

 そんなクラウスに投げかけられた主人の言葉は、胸を深く軋ませるものだった。


「クラウス、あなた……もう誰も傷付けたくないんでしょう?」

「……!」

「だったら、私はもう、あなたをそんな闇のなかには戻さない。戻させない。だって、あなたは誰よりも心優しい人だもの。だから、いまは、私を抱きしめていて。命の限り、抱きしめていてほしい」


 クラウスの頬を、あの朝から二度目の涙が伝う。右頬の傷を伝って、つっ、と熱い雫が顎へと滑り落ちていく。


 ずっと、ずっと、心に抱えていた自分の思いに、アシュリンが気付いてくれていたことが何よりも嬉しかった。でも同時に、彼女を助けられないことが悔しく、混乱する感情はうまく言葉として唇から紡ぎ出せない。


 だからクラウスは何も言わずに、胸に溢れる感謝の気持ちを腕に込め、愛しい人の胴を力の限り抱きしめた。


 闇をざわめく追っ手の声が次第に近づき、やがて再び囲まれ、その身に剣を突きつけられながら、縄に巻かれるそのときまで、精一杯、力の限り。


 兵士の手により荒々しく、アシュリンと引き剥がされる、最後の瞬間まで。


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