第26話 薔薇を葬る
四月中旬、春もたけなわのフィルデルガー王国は、一年で一番、美しい季節を迎える。
野山はもちろん、家々の庭園にも花と緑が見目麗しいまでに満ちあふれる。そしてその情景を貧富の関係なしに分かち合うのがこの国の習わしだ。豪奢な庭園を有する大商人や貴族たちも、この季節となれば、競うように庭を無償で開放しあう。
もちろんそれは己の権勢の誇示という意味合いも大きい。だがそれでもフィルデルガー王国の民衆はこの風習を雅なものとして建国以来の長きに渡り愛してきた。
そして、それぞれの庭を任された庭師たちにとっては、多忙を極めると同時に、己の職業の意義をどの季節より深く噛みしめられるのがこの時期なのである。
しかし、フィルデルガー王国がその名をこのたび「フィルデルガー共和国」と改めるに至り、その様相は一変した。
クーデターで王権を倒した軍政府は、この春、なおも抵抗していた貴族勢力の私兵との戦闘をほぼ平定し、その勝利を確実なものとした。そのうえで国内における新しい秩序を構築すべく、さまざまな「改革」を推進し始めた。
そこでまず旧勢力を徹底的に排除すべく、まず、目を付けられたのが、貴族の園芸趣味、及び、その担い手だった庭師の排除である。当局は、庭師を富裕層に寄生した穢れた職業であると定義した。そして、庭師たちへの徹底的な迫害を開始した。多くの庭師が「旧勢力と癒着した罪」で逮捕され、その職を追われた。
いや、追われただけの人々はまだ幸運だった。迫害はエスカレートし、そのうち逮捕された庭師のなかからは、拷問によって「より重い癒着の罪」を自白させられ、処刑される者が続出し始めた。
よって、この春を境にフィルデルガー共和国において庭師は幻の職業となったのだ。多くの庭園は廃れ、荒れるままに放置され、または別の建物に姿を変えていった。
なお、裏事情としては、オリアナ国で起こった“アシュリン”の爆発事件に動揺した軍政府における、庭師への危険視がこの一連の弾圧の発端となったという経緯がある。
しかし、この事実は歴史の表舞台で語られることはけっしてなかった。
ともあれ、アシュリンとクラウスが故国に戻ってきた時期は、まさにフィルデルガー共和国でこのような嵐が吹きすさんでいた渦中であったのである。そして、まさかライナルトの提言により、クラウスを捕縛する目的で捜索隊が放たれているとは、夢にも思わずに。
「ハリエットに戻りたいと考えています」
オリアナを出国した夜、山のなかで野営しながら、クラウスはアシュリンにそう打ち明けた。地表に座り込んだふたりのまえでは、ゆらゆらと赤く火が爆ぜている。炎が作り出す影のなかそう述べたクラウスの顔には、深い憂いが潜んでおり、アシュリンは思わず彼の顔を見直す。するとそのアシュリンの視線に気付いたクラウスは、静かにその理由を語り始めた。
「あの事件の日から、私は“アシュリン”がなぜ爆発し、魔獣を発生させたのかをずっと考えていました。故国で育てたアシュリンには、まったくそんなことは起きなかったのに、なぜマイシュベルガー邸の“アシュリン”だけがあのような恐ろしい悲劇を引き起こしたのか、と。そこで思い当たったのは、“アシュリン”の栽培過程における魔術との関係です」
そこで一旦クラウスは言葉を句切った。アシュリンは彼の言おうとしていることがいったいなんであるのか、真剣な目でクラウスの焦茶色の瞳を見つめ返す。
「あのマイシュベルガー邸の“アシュリン”が他の“アシュリン”と違うのはただ一点、おそらく、栽培過程において魔術を使ったか、否か、です。私にはそれしか思い当たりません。そこで、私は父がなぜ、あれほど“アシュリン”には魔術は禁忌だ、と強く言っていたのか、分かった気がしました。おそらく“アシュリン”は魔力となにか感応し合う性質を持っていている。それを引き起こさないために、父は魔術を使うなと私に強く口伝したのでしょう」
「そういえば、クラウスのお父様は、私のお母様への手紙にも“アシュリン”には特性があると書いていたわね」
「そう、それです。「ちょっとした呪い」、そう表現していましたよね。それがきっと、今回露わになった性質なんだろうと思うのです。つまり元々、“アシュリン”は恐ろしい性質を持った薔薇だったのです」
「恐ろしい性質……」
アシュリンはその言葉に、ぞくり、と震えた。幼いから愛でてきた、己の名を冠した美しいあの薔薇に、そんな秘密が隠されているとは、今まで考えたことはまるでなかった。するとクラウスがアシュリンの瞳をまっすぐ見つめて、真摯な顔で言った。
「お嬢様。私は“アシュリン”を根絶したいのです。あの薔薇がある限り、私はまたあの悲劇が起こるのではないかと、怯えて生き続けなければいけない。秘密を知ってしまった以上、見て見ぬ振りは出来ません。いま“アシュリン”が現存するのは、お嬢様の新居の薔薇園のみです。エンフィールド家の薔薇園は、おそらくあの火災で灰になってしまったでしょうから。だから私は、王都ハリエットにあるお嬢様の新居になんとか潜入して、あの薔薇を絶やしたいのです」
「だからハリエットに戻りたいということね」
「はい、危険なことは分かっていますから、ハリエットには私ひとりで向かいます。なので、お嬢様にその許可を頂きたいのです」
アシュリンは炎に瞳を落しながら、そのクラウスの願いを聞き届けるべきかどうか、暫く考えていたが、やがて軽く頭を横に振って答えを口にした。
「だめよ。許さないわ」
「お嬢様、でもあの薔薇は」
「違うの。私は“アシュリン”を絶やすことには賛成なの。だって、自分の名前がついたものが、そんな禍々しい存在だったなんて、私も嫌だもの。私が反対しているのは、クラウス、あなたがひとりでハリエットへ向かうことよ。それは許さない。私、もうあなたと離れたくないもの。だから、あなたの主人としてそれは認めないわ」
炎がぱちぱち、と爆ぜて、困ったような表情になったクラウスの顔に赤い色を落す。やがて、クラウスの唇がやさしく歪む。彼は苦笑しながらこう呟いた。
「我が儘なお嬢様ですね」
「そうよ、私、あなたの我が儘な主人だもの」
アシュリンがこともなげに応じる。主従の関係を踏み越えて抱き合った、その日の朝の思い出がふたりの頭を同時に過ぎったが、アシュリンもクラウスも、それは言葉に出さなかった。アシュリンが口にしたのは、別のことだ。
「あなたはいいの? お父様がせっかく開発した薔薇を絶やすことに、抵抗はないの?」
するとクラウスが焦茶色の瞳は、ふと遠くを見つめるような眼差しになった。彼がまえにも過去を語ったときにした、あの目つきだ。
「私は人より魔力が強かったもので、先の内乱で徴兵されました。それも、皮肉なことに魔獣を迎え撃つ特殊部隊の長として。そのころ、私はおぞましい異名で呼ばれていたものです。そして、戦場で多くの仲間を失いました。助けられなかった者も沢山いました。そんな私がいまも庭師でいるのは、命を育てることで安らぎを得たかったからです。それが戦いで亡くした仲間、または殺した相手への供養だと思っています」
遠くを見つめながら、一語一語を噛みしめるようにクラウスは話す。炎はその間も静かに燃えて、彼の横顔を照らす。
「ですから、父の手であれ、自分の手であれ、育てた花が人の命を奪うものなら、ましてや、魔獣と化して世を蹂躙するものならば、それを絶やすことに躊躇はないんです」
「……そう」
アシュリンはその答えを聞いて静かに頷く。そして、そっ、とクラウスの右頬に走る浅黒い傷へ、片手を添えた。クラウスは戸惑ったような顔をして、頬を赤くしたが、やがて頬に差し出されたアシュリンの片手に自分の手を重ねると、こう尋ねた。
「お嬢様は、私のこの傷が怖くはないのですか?」
「全然」
それからふたりは、しばらくそのままの姿勢で互いの瞳を見つめ合った。
傍の木に繋いである馬が低く嘶く。山の夜は密やかに更けていった。
ふたりはその翌朝から、馬で進むことが出来る低山に沿って、故国を目指した。
それは一週間程余計にかかる道のりだったが、結果的に、それがふたりに味方した。というのも、クラウスを追う捜索隊は、彼らが数ヶ月前オリアナに入るのに辿ったルートを洗い出し、その道を中心に探索していたからである。おかげでふたりは捜索隊と交差することなく、祖国に再び足を踏み入れることが出来た。
その領土内に入ってからふたりは馬を捨て、徒歩で山を越え、やがて王都ハリエットのある平野に到着した。人家の多い地域に入ってからは、慎重に、昼は野山に潜んで夜に進むやり方で歩を進め、やがてふたりは遂にハリエット郊外にあるアシュリンの邸宅に辿り着いた。
着いてみれば、新居であった邸宅は打ち棄てられ、廃屋と化していた。
人の気配はまるでなかった。ふたりは、すっかり荒れ果てた庭園に潜入し、“アシュリン”が植えてあった薔薇園にて枯れかけていた黄金色の薔薇を一本一本引き抜いて、密かに火にくべる。
炎のなかで朽ちていく“アシュリン”をふたりは声もなく見守る。
それはまるで、薔薇を火葬に付すかのようにアシュリンには思えた。
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