第22話 託された伝言

 前方に赤く獰猛な眼が、ぎらり、ひとつ、ふたつ、みっつ輝くのが視界に入る。

 彼は襲いかかる魔獣目がけて、無我夢中で駆けた。


 もとより平民だけで結成された特殊部隊ということで、自分たちは使い捨ての兵に過ぎぬことは分かっている。長である自分が卓越した魔力を持っており、治癒魔術も使えるからという理由で衛生兵すら付けてもらえなかった。それだからこそ、生き残るためには戦うしか道はない。殺すしか選べない。


 そしてそれを率先してやらねば、部下が死んでいく。


 ならば、己の心情がどうあれ、そのときのクラウスには、敵に向かって駆ける以外の選択肢は与えられていなかったのだ。


 懐に秘めた魔晶石が熱く燃えるのを感じながら、クラウスは掌に魔力を溜める。そして、その虹色の光を黒くそびえ立つ塊に向けて投げつけた。


 しかし、次の瞬間、鋭いなにかがクラウスの右頬を抉った。そして身体が大地に叩きつけられる。そのあと迸った絶叫は、己のものか、それとも部下たちのものか、もはやクラウスに判別はつかず――。



 クラウスは、かっ、と目を見開いた。そこは、闇のなかの戦場などではなく、視界を覆うのは白い木の天井だ。

 彼は我に返った。

 ここに来てから、遥か昔の悪夢ばかり見てしまう。

 クラウスは包帯を巻かれた腕を震わせながら額を流れる汗を拭い、考える。

 

 ――あのマイシュベルガー邸での魔獣の出現から、この病室に担ぎ込まれて、いったい今日で、もう何日になるのだろうか。


 あれは、予想などしようがない出来事であった。まさか己が育てた黄金色の薔薇が爆発し、それだけでなく、そのうえ、魔獣と化してあれほどの大惨事を引き起こす事態になるなど、クラウスの想像力の範疇を超越していたとしかいいようがない。


 だとしても、彼は、目の前の現実に愕然とせざるを得なかった。

 己がアシュリンの手によって九死に一生を得、と生き延びてしまったという事実に。あの時、アシュリンに突き飛ばされていなければ、鉢を手にしていたクラウスは、魔獣の最初の餌食になることを免れなかっただろう。

 

 魔獣と相対したクラウスは、マイシュベルガー邸の温室のなかに落下した後、アシュリンを探し当てることを果たせぬまま、その意識を閉ざした。

 そして、気付けば大勢の怪我人とともに市中の病院にいて、手厚い看護の元でなんとか一命を取り留めた思えば、次に彼を待っていたのはオリアナ警察の執拗な事情聴取であったのだ。

 

 だが、それにはまだクラウスは耐えられた。

 彼が何より堪えたのは、アシュリンの安否を問い質すクラウスに、警察は何ひとつ情報を与えようとしないことだった。よって、今日に至るまでクラウスはアシュリンの生死すら分からぬまま、虚しく病床に留め置かれているのだ。

 

 そして、今日もまた事情聴取の時間を迎え、クラウスの病室の扉がノックされる。入室してきた取調官に向かって、彼はいまや、こう叫んでしまいそうになるほどに焦燥に駆られていた。

 いっそ、殺してくれ、と。

 

 

「クラウス・ダウリング。つまりこういうことでいいか? 君は、あの“アシュリン”の爆発および、魔獣の出現については何も関与していない。また、あの薔薇の特性についても、何も事前知識はなかった。そういうことでいいかね?」


 その日の夕暮れ、寝台に半身を起こして聴取に応じていたクラウスを見ながら、取調官はそう告げてきた。どうやら警察は連日に渡る協議の末、ようやく彼の身の潔白を信じたようである。その事実に、クラウスは大きく息を吐きながらこう言葉を漏らした。


「……やっと信じてもらえましたか」

「君の証言と、我々の現場検証はたしかに矛盾しない。それに、君がひとり魔獣に立ち向かったという目撃証言もある。ならよかろう、君を解放しよう。だがそれにはひとつ、条件がある」

 

 いやに勿体ぶった取調官の口調に、思わずクラウスは眉を顰めた。そして、少し怒ったような声で彼は呻く。

 

「まだ何か、あるのですか?」

「君の身を思っての忠告だ。いいか、解放されたら、すぐにこのオリアナを出ろ。そうでもしないと、身の安全は保証できん」

「どういうことです」

「言わないと分からないか」

 

 要領を得ない表情のクラウスに、取調官はそう言葉を放ると、意味深な視線を病室の壁に作り付けられた窓へと投げる。そしてクラウスの瞳を射るように睨むと、滔々とその理由を述べ始めた。

 

「いま、君の育てた“アシュリン”が引き起こした事件のおかげで、我が国は大変なことになっているのだよ。ことに市民の動揺は計り知れないほど大きい。そして、その市民の間では君が大惨事を引き起こした犯人である、というデマが市中に出回っている。君の氏名や人相と一緒にな。つまり君は、このままオリアナ国内に留まったら、市民に必ずや私刑リンチを受け、殺されるだろう。そういうことだ」

「……なるほど」


 眉を顰めたまま、クラウスがちいさな声で呟く。まるで己に何かを、無理矢理納得させるような声音で。それから、彼は今一度、取調官に向かい合うと、こう言った。

 

「分かりました。仰せの通りにしましょう。ですが……」

「何だね」

「アシュリンお嬢様の安否は、やはり、教えてもらえないのですね」

 

 クラウスは、もはや何回目か分からぬ問いかけを、半ば諦めながら、取調官に投げかけた。ところが、その日の取調官の反応はそれまでと異なるものだった。

 取調官が少し考え込むような素振りをした後、数十秒の間をもって、静かに、彼に尋ねる。


「もし彼女が生きていたとして、なにか伝えることはあるか?」


 仄暗い病室に沈黙の影が落ちる。

 取調官の問いに、クラウスは困惑した。これは、アシュリンが生存しているということなのだろうか。だがこれまでと同じく、相手はその彼の疑問に答えるつもりはないようだ。仕方なく彼は考え込む。

 彼女に伝えたいことなら山ほどある。抱えきれないほどある。しかし結局、数分後、彼はこうとだけしか答えられなかった。


「私の荷物のなかにちいさな古い本があります。奥様から預かったものです。それを受け取って欲しい、ただ、それをお読みになってもご自身を責めないでいて下さい、と。それから……」

「それから?」

「お守りできなくて、申し訳なかった、と」


 クラウスの重く沈んだ声が部屋中に響き渡る。それを聞き届けると、分かった、とばかりに取調官は椅子から立ち上がる。そして部屋の扉をゆっくりと開け、じっと床に視線を投げたままのクラウスにこう告げた。

 

「彼女が生きていたら、伝えておこう。それでは病院を出る支度を急げ。そして必ずすぐに、この国を去るのだぞ。よいな」


 バタン、と扉が音を立て、取調官が廊下に消えてゆく。だが、クラウスの視線は下を向いたままで、それを見送ることはない。取調官の靴音が次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 

 しかし、胸を浸す絶望に麻痺しきったクラウスの五感は、それすら捉えることができなかった。

 アシュリンの生死すら分からぬまま、この国から去らねばならないという現実は、あまりにも彼には、酷すぎた。



 一方、アシュリンはその頃、世話になっている宿屋で、クラウスの帰りを待ちわびていた。

 彼女は運が良かった。

 あの瞬間、咄嗟にクラウスを突き飛ばしたおかげで、アシュリンは爆発した薔薇と、現れた魔獣の真っ正面にその身を晒し、本来ならその牙に裂かれて死すこと間違いなしだったのだ。

 だが、何の皮肉か、アシュリンの上には衝撃で倒れたマイシュベルガーの巨大な体躯がのしかかり、その結果、彼の分厚い身体が壁の役割を果たして彼女を魔獣から守った。もちろん、そのかわりマイシュベルガーは恋い焦がれた薔薇から迸るひかりをまともに喰らった挙句、魔獣の牙にかかり、即死してしまったのだが。

 

 意識を失った彼女は、事故後大分経ってからマイシュベルガーの死体の下から助け出された。だが、比較的軽傷だったのと、既に病院が怪我人であふれかえっていたという事情で搬送はされず、野戦病院さながらと化したマイシュベルガーの邸宅跡で数日間治療を受け、その後、負った傷も軽快したとのことで密かに宿屋に戻され療養と相成った。


 アシュリンはクラウスの主人ということで、オリアナ警察から彼の生存を伝えられてはいた。

 だが、同時に、彼は怪我の具合が思わしくないこと、そして事件の重要参考人ということで、すぐには戻って来られないとの報告も受けていた。

 だとしても、アシュリンはクラウスが自分の元に帰ってくると信じて疑わなかった。事件以降よそよそしい態度しか取らなくなった宿の主人と女将の態度に不穏なものを感じながらも、クラウスが帰ってきたらなんと声を掛けようか、どんな顔で迎えようか、それを考えるのを日々の心の支えにして過ごしていた。


 であるから、事件から三週間が経過した四月のある夜、クラウスの担当取調官だという男がやってきて、彼に国外退去命令を宣告したと告げたときは、驚愕で卒倒せんばかりであった。しかも、クラウスはアシュリンの生死も教えられずにオリアナを去ったと聞き、彼女は怒りの声を上げずにはいられなかった。

 しかし取調官の声は冷たいものであった。


「このままでは彼の命が危ういと判断して、我々はそのような処置を執ったのです。もし彼があなたのもとに戻る途中で、市民に襲われて命を落としたらどう感じます? きっと悔いても悔いたりないほどに、あなたは苦しむことになりましたよ。それでもよろしかったのですか?」

「だとしても、主人の私の生死も知らないままなんて、酷すぎるじゃないですか!? クラウスは何度も私の安否を確かめたのでしょう?」

「それも同じことです。もしあなたが生きていると知れば、彼はすぐにオリアナから去らず、結局、命を危険に晒したことでしょう。違いますか?」


 アシュリンは絶句した。

 だが絶句しつつも、取調官の言葉は筋が通っているとも感じざるを得ない。確かに、国内の情勢を取調官から聞くに及び、クラウスの命を守ることを第一とすれば、彼を早急にオリアナから退去させることしか道はなかったのだった。


 ――それにしたって、こんな別れなんて、あんまりだわ……。


 胸をせり上がる無念さと寂しさにアシュリンは打ち震える。取調官はそんな彼女をどこか哀れむような顔で眺めたあとに、クラウスの託したふたつの伝言を淡々と口にして、宿屋を後にした。


 ――何を言うの。あなたは、私をたくさん守ってくれたじゃない。


 アシュリンはアメジスト色の瞳を涙で濡らしながら、クラウスの伝言を反芻する。反芻しながら、置き去りにされた彼の荷物を探る。すると、古びたちいさな本はすぐに姿を現わした。

 彼女は震える手で、クラウスの意味深な言葉を思い返しながら、その最初のページを捲る。


 それは、アシュリンの母ヴェロニカと、クラウスの父セオドアの往復書簡を綴じたものだった。

 ページを捲るほどに、アシュリンの驚きと衝撃は深くなった。

 

 そこには、自分が産まれて以来ずっと秘されてきた、エンフィールド家とダウリング家の確執のすべてがあった。

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