第19話 黄金色の薔薇が開くとき
マイシュベルガー邸の庭園は、その日、オリアナ中の有力者たちが一堂に会し、それは歩くのにも難儀するような人混みだった。マイシュベルガーはいつも以上に宝石が煌びやかに輝く礼服を身に纏い、アシュリンを連れて歩いてはそのなかの著名人を紹介して回った。
あまりにも多くの人に引き合わされた彼女の頭は、こんがらがんばかりである。
「エンフィールド嬢、あちらはオリアナ政治部会の副会長のアビントン氏とその夫人、ああ、こちらは商工会長のクレンペラー氏だ。それから、こちらは……」
「え、ええ……」
アシュリンは混乱する頭を抱えながら、必死で儀礼的な挨拶を繰り返すばかりだ。すると、早くも疲労の色を瞳に滲ませたアシュリンを見てマイシュベルガーがにやにやと笑いかける。
「お疲れですかな、エンフィールド嬢。ですが、今日の園遊会のセレモニーはこれからですぞ。うむ、そろそろ準備が整ったようだな。さあさあ、では参りましょうぞ」
そう言いながらマイシュベルガーがアシュリンを庭園の中央にある温室の方向に案内する。温室の前には白いクロスに覆われた何も乗っていないテーブルがひとつ、ぽつん、と置かれていた。アシュリンはその脇に立つよう促され、マイシュベルガーの言われるまま足を運ぶ。
すると、そのテープルの前に屹立したマイシュベルガーが、ここぞとばかりに大声で演説を始めた。
「えー、オリアナ中の紳士淑女の皆様、ご注目頂きたい! 私、トーマス・マイシュベルガーは今日、目出度き春の聖霊祭を祝うにおいて、とっておきの供物をここに用意したことを皆様にお知らせする次第です。この度私は、オリアナの教養高き皆様ならご存じであろう幻の黄金色の薔薇、“アシュリン”の栽培に、なんと、見事成功したのです!」
途端に周囲から、おお、と言った感嘆の声が上がる。その声に押されるようにマイシュベルガーはますます声を甲高く張り上げると、いきなり空のテーブルの横に佇むアシュリンを指さした。
「それを記念して、私は今日この場に、極悪非道なクーデター騒ぎに揺れるフィルデルガー王国から逃れてきた、アシュリン・エンフィールド嬢をお招きしました! この黄金色の薔薇にその名を授けた、あのアシュリン・エンフィールド嬢を、です!」
一斉に無遠慮な視線がアシュリンの顔に注がれ、彼女は些かおののいた。そのとき、温室の扉が音もなく開き、クラウスが出てくるのがアシュリンの瞳に映る。
彼は、高芯咲きの黄金色の蕾が、今にも花開かんとばかりに輝く“アシュリン”が植えられている鉢を抱えていた。そして、クラウスは、アシュリンの横に置かれたテーブルへその鉢を飾るべく、一歩一歩、慎重な足取りでこちらに近づいてくる。
衆人の視線は、アシュリンから黄金色の薔薇へと移り、今度はその美しさを褒め称える声があちこちから聞こえてくる。
そう、ただ一輪、すっくと天を向いた黄金色の薔薇は、神々しいまでのひかりを放ち、今まさに花開くところであった。それは今までに見たどの“アシュリン”よりも気高く、そして妖しげな美しさに満ちあふれた花だった。
「どうぞ、ご覧下さい! これがあの黄金色の薔薇“アシュリン”です!」
そうマイシュベルガーが叫んだ途端、完全に花開いた“アシュリン”がクラウスの手の上で、突如、虹色のひかりを発するのをアシュリンは見た。
そして、そのひかりが、あっという間に激しい奔流と化して爆発すると同時に、息をのむ間もなく、禍々しい獣のかたちに姿を変えて、クラウスの身体に襲いかかるのも。
咄嗟にアシュリンは身体を、クラウスの方に向け、地面を蹴った。
「……クラウス! 危ない!」
アシュリンの叫び声とともに、クラウスは、誰かのか細い手によって、己の身体が激しく突き飛ばされるのを感じた。
衝撃で、手から鉢が離れる。
彼の視界の隅を、赤い髪と、アメジスト色の瞳が過ぎる。
誰よりも大事な主人の姿が。
次の瞬間、庭園中に、虹色の閃光に包まれた、けだものの咆哮が轟音の如く響き渡った。
己が主人に突き飛ばされ、地に転がったクラウスは、咆吼に導かれるように、その巨大な影を見上げる。そして彼の口から驚愕の叫びが漏れた。
「……魔獣!?」
果たして、彼が鋭く放った言葉通り、その場に現れていたのは、マイシュベルガー邸をはるかに超える背丈に、あの巨大なガラスの温室をも覆う体格を有した、猛々しい魔獣であった。
虹色の激しいひかりを纏った魔獣が、ぎらり、と黄金色のひとつ目を光らせる。
そのひかりはあの“アシュリン”の花の輝きを彷彿とさせるもので、クラウスの身体を抗いがたい戦慄が走った。
「……まさか、あの薔薇が!?」
クラウスが、あまりの事態の急変に唖然としているうちに、周囲の群衆は大混乱に陥っていた。誰もがその場から逃げ出そうと、悲鳴を上げながら、身を翻してちりぢりに駆け始める。
しかし、その人々の上を魔獣の黒い影が覆った。次の瞬間、けたたましい断末魔が庭園に木霊する。
数瞬後、魔獣の口元に目をやれば、誰ともしれぬ園遊会の客の首が、その牙に串刺しになり、赤く染まりながら、ぶらぶらと揺れていた。
「くっ……!」
クラウスは慌てて周囲を見渡し、アシュリンの姿を探す。だが、阿鼻叫喚の人いきれのなかに、彼女らしき人物の姿は見つからない。
彼はぐちゃぐちゃに入り乱れた群衆のなかにひとり立ち止まり、息を整えると、魔獣を見据えた。
そしてポケットのなかの魔晶石に意識を集中させる。
ほどなく、周りの人々を思いのままに歯牙にかけていた魔獣が、クラウスにゆっくりと目を向けた。彼の身から迸る虹色のひかりに反応したのだ。
クラウスが叫んだ。声の限りに。
「来い! 俺が相手だ!」
その声に呼応するように、魔獣がクラウスの身体に鋭い爪を勢いよく振り下ろす。人々と庭木を押し倒しながら、禍々しい刃が彼の身に迫る。その場にいる誰もが、クラウスの死を確信したその時――。
クラウスの雄叫びとともに、彼の両手から、魔獣に匹敵する激しい虹色のひかりの輪が迸り、魔獣の全身と激突した。魔獣もそれまでにない大きな咆哮を発し、全身を激しく震わせる。
その風圧でクラウスの身体は後方に弾き飛ばされ、半壊状態だったガラス造りの温室に、派手な音を立てて突っ込んだ。全身を耐えがたい激痛が貫く。
「アシュリン……お嬢様……! ……どこ、に……!」
クラウスは、砕け散るガラスの破片に身をちぎられながらも、主人の名を絶叫した。
しかし、急速に暗がりに落ちていくクラウスの意識は、その声に応じる者を、遂に掴み取ることが出来なかった。
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