第17話 伸びゆく薔薇の芽
――どうにも様子が、おかしい。
仕官した日から、数日おきにマイシュベルガー家へ通うのが日課になっていたクラウスは、温室の中で顔を顰めた。彼の目の前には、先日種を蒔いたばかりの“アシュリン”がある。芽吹いた“アシュリン”は既に、ぐんぐんと新芽を伸ばしている。
――“アシュリン”はこんなに早く成長する品種ではなかったはずだが。気候が違うと、こんなに伸びる速度も異なるものなのか?
首を傾げながらクラウスは青々と伸びた“アシュリン”の様子を改めて観察する。成長が早いこと以外には、茎や葉に異常は見当たらない。厄介な虫がついたり、病気の兆候もない。
彼はそばで別の作業をしている、同僚の庭師に声を投げた。
「エーリヒさん、私がいない間は、“アシュリン”の世話はあなたがしているんでしたよね?」
「えっ、あ、はい。そうですよ、私が行っています」
エーリヒは突然、若き庭師から声を掛けられ、飛び上がらんばかりに驚いた。思わず、その返答もどこか挙動不審になる。すると、クラウスは焦茶色の瞳に鋭いひかりを溜めながら、彼を詰問してきた。
「私の指示に反したことは行っていませんよね?」
「え、ああ、行っていませんとも。水と堆肥を仰ったとおりに与えているだけです」
「そうですか。堆肥は魔術で作り出したものではないでしょうね?」
エーリヒはクラウスの静かな口調が怖かった。その声を耳にしながら、彼の右頬に走った浅黒い傷を眺めると、理由の分からない恐怖がエーリヒの喉元にせり上がってくる。だが、エーリヒはなんとかそれに打ち勝って、主人の矜持を守るべくクラウスの言葉に答えた。
「違いますよ、普通の堆肥しか使っていませんよ」
「本当に?」
「ええ、ええ、本当ですとも」
「……それなら良いですが。……ふむ、どういうことなのだろうか……」
エーリヒが喉を振り絞りって放った答えを聞いて、クラウスはようやく彼から視線を逸らした。そして再び“アシュリン”の前にかがみ込む。
――どうにも“アシュリン”は謎の多い薔薇だな。この薔薇に関しては、父さんに聞かねば分からないことだらけだ。
クラウスは心のなかで独り言つ。叶うことなら、今一度、父に“アシュリン”について教えを請いたいところだが、それはもう詮無きことである。クラウスは衣服についた土を払いながら立ち上がり、温室の外に出た。
顔に吹き付ける年の暮れの風は冷たく、彼の身体から猛烈な速さで熱を奪っていく。
激動の年ももうすぐ終わろうとしている。クラウスは地平に霞んで見えるハリヤ山脈に目を留めた。アシュリンとあの山を越えた日のことが、まるで遠い昔のように感じる。実際には、まだ、ひと月も経っていないのだが。
――遠くに来てしまったな、俺は。身体だけでなく、心の中身までも。
そして、クラウスは考えこむ。果たしてそれは、己の望んでいる道であるのかと。
エンフィールド家への怨恨を越えて、主従としてアシュリンに寄り添おうとしている今の自分の生き様は、本当に正しいものであるのかと。
「新年おめでとう!」
新年の初日、着飾った子どもたちが歓声を上げながら通りを駆けていく。それぞれ手には色とりどりの細長い布が縫い付けられた飾りを持ち、年長の子どもには、横笛を吹きながら歩いている者もいる。
「良き年の到来に祝福を!」
宿屋の二階から、アシュリンは子ども達の祝福の声にそう答え、目を細めた。
オリアナ流の新しい年を祝う風習は、初めて祖国以外で新年を迎える彼女の目には、すべてが物珍しく、新鮮に映る。
「うふふ、新年はいつも畏まって、普段より上質のドレスを着て、お父様やお母様と王宮へ挨拶に行くのが楽しみだったのよ。何よりも、陛下から下賜される特別なお菓子がとっても美味しくてね。だから私、新しい年っていうと、いつも王宮でいまかいまかとお菓子を頂く瞬間を待っているときのことを思い出すわ」
「お嬢様らしいですね」
「あら、それどういう意味?」
「いや、とくに意味はございません」
今日は祝日ということで、普段よりくつろいだ格好で熱い茶を啜りながら、クラウスが答える。相変わらず声を立てて笑うようなことはないけれど、ここのところ、彼の表情からはあの険しさが消えてきたような気がして、アシュリンはそれが何より嬉しかった。
――だけど同時に、どこかぎごちなく、時に緊張したかのように自分に接するときがあるのが、気にはなるのだけど。
アシュリンはそんなことを考えながら、冬の冷気が部屋に染みこんでしまわないうちにと窓を閉め、クラウスに視線を投げる。すると彼の焦茶色の瞳と視線が交差する。彼女は一瞬、どきり、としたが、クラウスの方がなにやら気まずい表情になり、先に目を背けたのを見て、思わず心の中で独り言つ。
――やっぱり、私、嫌われたままなのかしら。そうだとしたら、寂しいことだわ。
つい気持ちが沈みそうになったアシュリンは、ことさらに明るく声を上げてみる。
「ああ、でもこういう新年も良いわね。なんだか楽しいわ」
「それは良いことです」
クラウスが茶を、ぐいっ、と飲み干しながら応じる。その口調は淡々としていたが、刺々しさはなかった。そこで、アシュリンはふとクラウスの仕官先でのことが気になって、彼に声を掛けてみる。
「そういえば、クラウス。マイシュベルガー様のお宅には、年明けはいつから伺うの」
「明日からです」
「あら、新年早々、さっそく行かねばならないのね」
「仕方ありません。植えた薔薇の世話をしなければなりませんから」
「へぇー! 薔薇! なんの薔薇を植えたの?」
すると、クラウスは心なしか顔を背けて、こうちいさく呟いた。
「……“アシュリン”です」
そう言うと、クラウスは飲み干した茶器の中に視線を落した。図らずも、彼女自身のことではないとはいえ、主人の前でその名前を呼び捨てで呼んでしまったことに、猛烈な羞恥心を感じたのである。
しかし、アシュリンは突然の自分の名を冠した薔薇の登場に、顔をほころばせた。
「まあ、やっぱりあの薔薇を植えたの! 素敵! 私、あの黄金色の薔薇をまた見たいわ!」
「そうですか。マイシュベルガー様には、そう、お伝えしておきます」
「わあ、クラウス。ありがとう!」
アシュリンは心の底から溢れる気持ちをこめて微笑んだ。するとクラウスはそれを、ちら、と見つつ、再び空の茶器に視線を戻しながら密かに思う。
――お嬢様がこんなに喜ぶなら、あのいけすかないマイシュベルガー様にも、仕えた甲斐が有ったかもしれんな。
そう思うと、なにかと気が重いマイシュベルガー家での庭師の仕事も、少しは楽しめるような気がしてクラウスは軽く息をついた。
どこかからまた、子どもたちが吹く笛の音が響いてくる。新年の日々は穏やかに過ぎていこうとしていた。
新年の休みが明けると、アシュリンは宿屋の手伝いに飛び回り、クラウスは数日の間を開けながらマイシュベルガー家に通う日々が再び訪れた。
庭師の仕事に従事する日は、マイシュベルガー家の馬車がクラウスを迎えに訪れる。いつのころからか、仕官の日の朝は、クラウスが馬車に乗り込むのを見届けるのがアシュリンの日課になった。
そして、クラウスの乗った馬車が朝靄に隠れて見えなくなるまで、アシュリンは赤い髪を風になびかせながら、ひらひらとその手を振り続ける。
クラウスは顔を顰めて、毎日のように、そんなことはしなくて良いです、とアシュリンに言ったものの、その胸には、なにかあたたかいものが、じわっ、と広がるのを感じずにはいられない。アシュリンを置いてマイシュベルガー家に行くことに対する罪悪感も、そんな彼女の気遣いによって、いくらか和らぐ。
クラウスはそのことを、心のなかでアシュリンに密かに感謝した。
やがて、月日はゆるやかに巡り、春の聖霊祭の日が近づいてくる。
マイシュベルガー家の温室に植えた“アシュリン”はクラウスの困惑をよそに、すくすくと育ち、青々とした葉を茂らして、今やちいさな黄金色の蕾を付けるまでに成長していた。
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