第16話 すべては“アシュリン”のために
「いやあ、クラウス、君が毎日ではないとしても、我が庭園の庭師として来てくれるのは、本当に喜ばしいよ。良く快諾してくれたね」
マイシュベルガーは馬車のなかで、朝からご機嫌だ。
その向かいに座ったクラウスはむっつりと黙りこくったままだが、マイシュベルガーはそれすら気にならなかった。それもそのはずだ、彼がオリアナにその足を踏み入れた次の朝から、毎朝足かけ一週間、市の中心街にある屋敷から寒村の宿屋に馬車を飛ばして通い続けた挙句、ようやっと若き庭師が庭園に来てくれることになったのであったから。
――無愛想で生意気な若者だが、まあそこは我慢のしどころだ。なにせ彼は世界でただひとり、あの黄金色の薔薇“アシュリン”を咲かす技を父から伝授された庭師なのだから。これは、オリアナ中、いや世界中の園芸愛好家の垂涎の的だろうて。
そうマイシュベルガーはほくそ笑む。
世界一の富を抱える都において、政治的権力を手中に収めた彼の手は、今や欲しいものを何でも掴める立場にあった。それこそ、金貨でも、美女でも、あらゆる政敵を失脚させる手段でも。そんなマイシュベルガーが、今なお手に入らない数少ないもののひとつが、黄金色の薔薇“アシュリン”であった。
その見目麗しさはフィルデルガー王国からこのオリアナまでも風の噂で詳しく聞くところであったが、“アシュリン”はエンフィールド伯爵のもとで厳しく管理され、その姿を拝めるのは、彼の邸宅の薔薇園でのみだった。また、その栽培方法も、品種開発者であるセオドア・ダウリングとその息子にしか口伝することを許さなかったとされる。
それが、フィルデルガー王国のクーデター騒動のおかげで、あちらから我が手に転がり込んできたのである。しかも、セオドアの息子だという庭師は、その主人として薔薇の名の由来となった伯爵令嬢のアシュリン・エンフィールドとともにある。珍重されるその薔薇の価値も恐ろしいものがあるが、ここまで役者が舞台に揃ったのは、マイシュベルガーからすれば己の権勢を誇示するまたとない機会でしかない。
――そうだ、三月の聖霊祭に“アシュリン”を咲かせた暁には、黄金色の薔薇を披露する盛大な園遊会を開こう。そこには、オリアナ中の有力者を集めるのだ。おお、そうだそうだ、この庭師とともにアシュリン・エンフィールド嬢を列席させるのも良いな。世界に名だたる薔薇と、その名の由来となった伯爵令嬢が並ぶとは、このうえなくドラマチックな演出ではないか。
マイシュベルガーは自らの天才的なまでの思いつきに、思わず手を打った。突然の挙動に驚いたクラウスが顰めたままの顔をこちらに向ける。
「どうかしましたか? マイシュベルガー様」
「ああ、いや。ちょっと良いことを思いついてな。ことに確認だが、クラウス、君はあの“アシュリン”を咲かすことは本当に可能なのだろうな」
「できますよ。種もちょうど持っています」
「おお、そうか、そうか。それは何よりだ」
マイシュベルガーはさらに上機嫌に、でっぷりとした顔に笑みを閃かす。
クラウスが控えめに嫌悪感を表すかのように、浅黒い傷の目立つ頬を背けたが、それも今のマイシュベルガーにはどうでもよかった。
一方、マイシュベルガーの前で顔を背けながら、馬車に揺られるクラウスの心中は、混乱と呆然の狭間にあった。
昨夜からの苛立ちがまだ心の底には色濃く残っている。それがいったい何なのか一晩夜もまんじりとせず戸惑い続け、明け方に至り、ようやく彼はその正体にぶち当たったのだった。
――結局、俺は主従として、アシュリンお嬢様の傍を離れがたかったのか。それなのに、お嬢様が、俺が仕官することにあっさり賛成したもんだから、こんなに苛々としているのか。
寝床のなかでそれを自覚したとき、クラウスは己に唖然とした。ついで、身体中が震える。荒ぶる感情が何度も、それは違うと叫んでいた。しかし、クラウスの理性は、それを冷静に否定した。
彼は愕然としながら、心の中で問い続ける。
――こんなことがあっていいのか。お嬢様と俺の主従関係は形だけだと言い放ったのは、当の自分ではないか。それに俺のなかで煮えたぎるエンフィールド家への怨念はどこへ行ったんだ。
クラウスは混乱する心情にさらに戸惑いながら、ゆっくりと寝台から身を起こした。
――俺は、傍にいたいのか……あの人の。
彼は大きく息を吐いた。もはや、白日のもとに晒されてしまったその気持ちを無視することは出来なかった。心の臓が早鐘のように身体の中で脈打っているのを感じる。
クラウスは己を何とか制御すべく、寝台から離れると、ふと思いついて、セオドアからもらった“アシュリン”の種とともに仕舞っておきっぱなしだったちいさな古い本を取った。炎の庭園で、ヴェロニカから手渡されたあの本である。
クラウスは明け方の仄かなひかりのなか、その本の頁を捲り、暫し静かに読みふけった。そして、途中まで目を通すと、それを、そっ、とまた荷物のなかに戻した。
これはしばらく自分が持っていようと、そう心に決めて。
早朝のそんな逡巡を思い返しながら、クラウスが馬車に揺られていれば、いつのまにかに馬車はオリアナの中心街に入ったようだった。外からは人いきれの気配がし、車輪は石畳の上を走り始める。
そして、いつしか窓からは壮麗な幾つもの屋敷が見えてくる。クラウスが庭師として勤めることになった、マイシュベルガー邸はもうすぐだった。
エンフィールド家の邸宅を思い出させる豪奢な屋敷に馬車が乗り入れ、やがて停車し、なかから降り立ったクラウスが早速案内されたのは、マイシュベルガー家自慢の広大な庭園であった。コートを羽織ったマイシュベルガーとクラウスは、冬ならではの澄み切った朝の空気のなか、白い息を吐いて、その中を進む。
多くの樹木は葉を落してしまっているが、ところどころに植えられた常緑性の
やがてマイシュベルガーは大きなガラス造りの建物の前で足を止めた。そして、クラウスに中へと入るように手振りで勧める。
「うおっ……」
入ってみれば、そこは巨大な温室であった。
なかには緑の樹木が生い茂り、花々は外の寒さをものとせず、色鮮やかに咲き誇っている。なかには八重咲きが見事な大輪種の薔薇も見受けられた。そしてどこからか、水のせせらぎが聞こえる。
「どうだね。気に入ったかね。ここが我がマイシュベルガー家自慢の温室だ。ここは年中温水が循環していて、一年中薔薇を初めとした花々が楽しめる」
「……ええ、驚きました。ここまで大規模な温室は、私も初めて見ました」
「そうかね、そうかね。実は君に、ここに“アシュリン”を咲かせて欲しいんだ」
マイシュベルガーは太った身体を揺すりながら、得意げに、クラウスの顔を見上げた。
「ここでなら、この季節でも“アシュリン”を聖霊祭までに花開かせることができるだろう?」
「聖霊祭……三月までにですか?」
「ああ、そこで皆に華麗なる“アシュリン”を皆に披露したいのだ」
クラウスはそのマイシュベルガーの言葉を聞いて、途端に、思案顔になった。そしてポケットから小袋を取り出しつつ言う。
「それは……難しいかと」
「ええーっ!?」
顔色を変えたマイシュベルガーが叫ぶ。それに対して、クラウスの答えは淡々たるものだった。
「たしかに、苗木なら、なんとかなるかもしれません。ですが今、私が持っているのは、“アシュリン”の種です。種から苗木に育て、さらにそれを花咲せるには、長い期間がかかります。今はもう、十二月の末。聖霊祭までは
「そ、そんな。そうだ、君たち庭師が得意な、魔術を使えばいいのではないかね? そうすれば、種の成長を促進できるだろう!?」
「他の薔薇ならそうすることもできますが、あいにく、“アシュリン”の栽培に魔術は禁忌なのです」
「なんだって?」
クラウスの言にマイシュベルガーが驚きの声を上げる。だが、クラウスは肩をすくめてこう答えるしかなかった。
「それだけは、父から強く言われていますので、譲ることは出来ません」
「そ、そうなのか……」
「どうしますか? ならば、“アシュリン”の栽培は諦めますか?」
そう問いかけながら、種の入った袋をしまいかけたクラウスに、マイシュベルガーが慌てて縋り付く。
「いや、それは、それだけは嫌だ! それでも構わん、聖霊祭までには間に合わなくても構わんから“アシュリン”の種をここに蒔いてくれ!」
「分かりました。では準備をしないと。冷暗所で種を湿らせて寝かせる必要があります。井戸は外ですか?」
「ああ、温室の外だ」
マイシュベルガーのその答えを聞いて、クラウスが身を翻して温室の外に出ていく。
その後ろ姿がガラスの向こうに消えゆくのを確かめると、マイシュベルガーは、大声で温室の奥に向かって喚いた。
「エーリヒ! エーリヒはいるか!?」
「は、はい、旦那様!」
すると温室の奥で作業をしていた庭師が緑の茂みを割って出てくる。エーリヒと呼ばれた庭師は主人の形相に驚きつつも、急いでそばに駆け寄ってきた。
「今の話を聞いていたか!?」
「あ、あの黄金の薔薇を育てる件でして? それならば聞こえておりましたが……」
「なら丁度良い。いいか、あの若造が来ない日は“アシュリン”にたっぷり成長を施す魔力を与えろ」
「よ、よろしいのですか? もしも“アシュリン”に何かあったら……」
「構わん! 私はなんとしても、聖霊祭に“アシュリン”の花を咲かせたいのだ!」
主人の剣幕に驚いて、エーリヒが慌てて一礼して去って行く。それを見ながら、マイシュベルガーは顔に不気味な笑みを浮かべて囁いた。
「見ていろよ、生意気な若造め……私は絶対に“アシュリン”の花を見事に咲かせて、皆をあっと驚かせてやるからな……」
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