第15話 マイシュベルガーの要望
アシュリンとクラウスが、オリアナに入ってから、一週間が経過した。
その間、ふたりは宿の仕事を手伝うなどして過ごした。というのも、フィルデルガー王国からの避難民は相変わらず引きも切らず、そのようやくオリアナに入国できた人々が、城壁に近いこの宿屋へと流れ込むものだから、忙しさは尋常なものではなかったからである。
クラウスは薪割りや水汲みなどの力仕事を、そしてアシュリンは慣れない手つきながら洗濯や掃除、食事の用意を引き受け、無料で滞在させてもらっている恩義に報おうと心を砕いた。アシュリンは先の内乱時、家をなくした人への慈善事業に従事したことはあったが、本格的に家事を手がけるのは生まれて初めての経験である。彼女は、宿の女将の後をついて回っては、ひとつずつ仕事を覚えていった。
その過程で知ったのは、市井の人々は初級魔術を日常の雑事に応用していることだった。それは、火を熾すときや、機嫌の悪い馬を宥めるときなど、生活の多岐にわたっていて、アシュリンは驚くことしきりだった。
「こんなこと、まるで驚くことじゃないんだけどねえ。私たちの生活からすれば日常茶飯事さ。それより、お嬢様の従者のクラウスとやらは、いったい何者なんだい? 庭師なら肥料の調合などに魔力を使うのはわけないんだろうけど、魔獣を倒す戦闘魔術も使えるなんてね。なかなか、あんな人、いないよ」
いちいち驚いてみせるアシュリンに、女将は好奇心を丸出しにしてクラウスのことをそう不思議がる。アシュリンはその言葉に曖昧に頷きながら、いよいよ謎めいてみせる彼の素性について思いを巡らす。
――そうね。本当にそれは不思議。だって、彼は一番難しいとされる、治癒魔術さえも使えるのだもの。
茶会で火傷をしたとき。そして山道で一歩も動けなくなったとき。そのたびにクラウスの手から迸った金色の治癒魔術のひかり。その輝きとあたたかさを思い出してはアシュリンは首を傾げる。
――どういうことなのかしら。そのうち、クラウスの方から説明してくれるのかしら。だけど。
だけど、それはありえないことかもしれない、とアシュリンは考える。クラウスはいちおう自分の従者ということになっているが、あのマイシュベルガーを追い返した件があるとしても、彼が自分を真の主人だと思ってくれているとは、とてもではないが自信がない。
それだけに、あのとき、彼がこう口にしたときの、胸が燃えるような喜びが、いまも心中で疼いてたまらない。
――「我が主人は、アシュリンお嬢様、ただひとりです」――。
そう、あのときアシュリンは思ったものだ。その言葉が真実であったら、どんなに自分は心強く、幸せに満ちあふれて、これからの人生を歩んでいけるだろうか、と。
胸の中で昂ぶり震えたその甘い思いを、アシュリンは、それから一週間が経過した現在もなお、心から取り除くことが出来ないでいる。
その感情が、クラウスへの思慕というかたちへと姿を変えつつあることには、いまだ、気が付かぬままに。
一方、マイシュベルガーはなかなかに、しつこかった。
あの日、クラウスに無碍にあしらわれ、宿屋から追い返されてからも、次の日にはまた彼の元に押し掛けて、繰り返し仕官を迫る有り様だった。そのときもまた、クラウスは丁重かつ慇懃にマイシュベルガーを追い返したものの、その翌日、また追い返されれば、そのまた翌日に姿を見せるというしつこさで、クラウスを辟易とさせた。
そして今日ついに、マイシュベルガーは、クラウスでなく、世話になっている村長の直々に元を訪れ、彼に仕官を受けるようになんとか口添えを頼む、と直談判する事態にまで陥った。その口調は、オリアナ一の有力者としての権威の誇示、さらにはオリアナでは寒村に当たるこの村への予算削減を言外にちらつかせるもので、困った村長はクラウスの元へやってきて、この件をなんとか解決すべく、彼と話し合うことになった。
「ですから、いまもなお、私はアシュリンお嬢様に仕える身です。そうである以上、マイシュベルガー様に仕官するわけにはいかんのです」
「それはマイシュベルガー様もよく理解したと言っている。その上で、君を庭師として雇いたいと仰せなのだよ」
宿屋の客間にある暖炉のなかでは、赤々とした火が爆ぜている。季節は進み、新年を間近にして、冬の寒さも本格的になってきた夜のことである。部屋の中ではクラウスと村長、そしてアシュリンが暖炉を囲んでいた。
アシュリンはクラウスに、いちおう主従である以上、自らの処遇に関わる話し合いには同席して欲しい、と乞われ、断ることも出来ずその場に加わっていた。
「フィルデルガー王国は、いま、クーデターを起こした軍と、それに抵抗する貴族たちの私兵との戦闘が恒常的になっており、内乱状態と言って差し支えない状況に陥っていると聞く」
「ええ、その情報は私も、この宿に流れ込んでくる避難民から耳にしています。このままの状態で年を越えるのは、間違いないだろうと」
クラウスが暖炉に薪を投げ入れながら、村長に応じる。
クーデターのことを耳にする度、アシュリンの心は、ちくり、と痛む。果たしてライナルトは、いまをどのようにして生きているのだろうか、と。もはや会うことも、仮に会ったところで愛を語り合うことは二度とない相手ではあるが。そして、己を裏切ったその罪を、アシュリンは、生涯許すことは出来ないのだろうが。そんな物思いに沈むアシュリンの前では、村長とクラウスの会話が、なおも途切れなく続いている。
「ならば、クラウス。君もマイシュベルガー様のご要望に少しは応じることも考えては良いのではないかね。君も、その主人たるお嬢様も、フィルデルガー王国に戻れる見込みは少ない。ならば、オリアナで生きていく術として、マイシュベルガー様の庭師になることは、決して悪い選択ではないと思うのだが」
「だとしたら、お嬢様はどうなるのです? 私に、アシュリンお嬢様を捨てろと?」
クラウスは眉を顰めて村長を見た。アシュリンは、自分の身を案じるクラウスの言葉を耳にして、心が途端に熱く燃えるのを感じる。たとえそれが、心からの台詞でないとしても、いまはその言葉に縋っていたい自分がそこにはいた。
すると、村長はクラウス、そしてアシュリンも想像しなかった言葉を繰り出した。
「マイシュベルガー様は、妥協案として、君が主人を変えぬまま、自邸の庭師になってくれてもよい、と仰せだ」
「……どういう意味です?」
クラウスは村長の言葉の真意を掴み損ねて、鋭い声で聞き返した。アシュリンも、ごくり、と唾を飲み込んで事態の行く末を見守る。
「君がお嬢様との主従関係を結んだまま、マイシュベルガー様の臨時の庭師として働く、ということでも構わないというわけだよ。つまり、君はこちらのお嬢様と今のままこの宿屋で暮らす。しかし、週に二・三回でもいいから、マイシュベルガー様の庭園に赴いて庭師として働いてもらいたいと。そういうことだそうだ」
「永続的な住み込みの専属庭師としてではなく、ということですか」
「だったら、クラウス。構わないんじゃない?」
アシュリンはその提案に、賛成、とばかりに声を上げた。
「私はこのまま、この宿屋で働くことはなんら、構わないし。その間に庭師として働けるのなら、こんなにいい話はないわよ」
「……ですが、お嬢様」
「おお、主人であるお嬢様が良し、と言っているなら、この話は決まりだな」
アシュリンの賛意を受けて、村長がさっそく話をまとめにかかる。それを聞いて、クラウスが渋りながらも、了承の意を呟いた。
「分かりました。では、そうしましょう」
「そうか、そうか。これで話は一件落着だ。よかったよかった。マイシュベルガー様は明日もまたお見えになるそうだから、その時に、さっそく話を引き受ける旨、伝えるといい。ああ、そうだ、クラウス、ちゃんと話が決まったからには。マイシュベルガー様のご要望も、いまいちど、きちんと伝えておかないとな」
「要望? なんですか、それは」
すると、話がまとまって、嬉しさを隠しきれない様子の村長は、訝しがるクラウスにこう答えた。
「マイシュベルガー様は、自邸の庭園に、ぜひ、君のお父上が作り出した黄金色の薔薇“アシュリン”を咲かせたいとのことだ」
「あの薔薇をですか……」
「ああ。では、しっかり頼むよ、クラウス」
そう言い残して、村長は宿屋の客間を退出していく。そのあとに残されたクラウス、そしてアシュリンは、暫し薪の爆ぜる客間に声もなく佇んでいた。
アシュリンはクラウスの焦茶色の瞳が、暗い影を帯びているのが不思議だった。
自分との、形だけの主従に足を引っ張られるよりかは、好きな仕事に従事できるほうがどんなに彼にとって幸せか、と考えずにいられなかったからである。だから、彼女は目前のクラウスにこう声をかけた。
「どうしたの? クラウス。良かったじゃない、これで……」
しかし、そのアシュリンの言葉は途中で終わった。クラウスが己の言葉を最後まで聞かず、足音高く客間を出て行ってしまったからである。感情の制御に困るようなその素振りは彼には珍しく、アシュリンは戸惑った。
だが、客間から躍り出たクラウスもまた、戸惑っていた。
自分自身にも分からぬ苛立ちが、心の中に満ち溢れていることに。
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