第二章 こころ からだ ともに彷徨う
第11話 なにもかもをなくして
――ライナルトの穏やかなペリドット色の瞳が至近距離に近づく。アシュリンは幸福に目を瞑って、彼の口づけを待つ。
だが、いくら目を閉じたまま待っていても、彼の熱い唇がアシュリンのそれに重なることはなかった。
アシュリンは不思議に思って、恐る恐るアメジスト色の瞳を開いた。すると、彼女の目に飛び込んできたのは、表情を一変させた夫の素顔であった。その瞳は冷酷な眼差しに取って代わり、貴公子然とした整った顔立ちは、憎しみに歪んでいる。
呆然として身動きも取れぬアシュリンの肩越しに、ライナルトが手を振るい、その指先から虹色のひかりが鋭く放たれる。
驚いてその光線の行方を目で追えば、そこには愛する父の姿があった。
アシュリンは声の限りに叫んだ。
「お父様! 逃げて!」
しかし、その叫びも虚しく、父の身体は虹色の炎に包まれた。そして絶叫する自分は、突如足元に広がった禍々しい黒い穴に落ちていく。穴の底に叩きつけられた身体の上には、熱い炎と重い真っ黒ななにかが倒れかかってくる。
――ああ、私も死ぬんだわ。お父様と同じように。
そこでアシュリンの意識は一旦途切れる。
次に意識が捉えたのは、自分の上にのしかかった重いなにかが消え失せ、ふっ、と軽くなる感覚。
そして、自らの身体までもが、ふわり、と宙に浮く感覚。
――あれ、これではまるで、いつも見る夢のようだわ。そう、あの夢のなかだとしたら、私はあの男の人に抱きかかえられているはずだけど。
そう思い、アシュリンは固く恐怖に閉じていた瞼をそっ、と押し開けた。途端に世界へと、眩しいひかりが満ちる。それは、忌まわしい戦闘魔術のひかりなどではなく、昼の陽光で――。
「気がついたのですか」
低く鋭い男の声がアシュリンの鼓膜を打ち、彼女は瞳を見開いた。声のほうに視線を傾ければ、そこは見覚えのある険しい焦茶色の瞳がアシュリンの顔を捉えていた。マントを被った黒髪の男の右頬には、浅黒い傷が走っており――。
「クラウス……ここは……?」
「ハリエット郊外、ストファリ川の河原です」
「ストファリ川の河原……」
アシュリンは節々の痛みに顔を顰めながら、粗末な布を敷いて寝かされていた身体を、ゆっくりと起こした。見てみれば、己の身体にも薄汚れた分厚いマントが掛けられている。
見上げる薄曇りの初冬の空に、うっすらと陽が透けてみえた。河原を渡る風はすっかりもう冬の気配を纏っていて、傍に焚かれた火の暖がなければ、身体はすぐにでも芯から凍り付いてしまいそうだ。
そして河原は、同じようにマントに身をくるみ、焚き火を囲んでいる人々で溢れている。
だが、アシュリンが、半身を起こしてきょろきょろと周りを見回していると、クラウスが、ちいさな鋭い声で彼女に声を投げかけてきた。
「あまり周囲をじろじろ見ないでください。目立つとまずい」
「えっ……?」
「魔術師団を筆頭とした軍人たちが、貴族階級の人間を探して、拘束しているとの噂です。この河原は王都から逃げてきた人々の避難場所となっているようですが、いつここにも彼らがやってくるか分からない」
そこまでクラウスの言葉を耳にして、アシュリンはようやく、意識を失うまでのことを思い出した。
魔晶石を取りに戻ったエンフィールド家の書斎で、父がライナルトに剣を突きつけられ、無残に殺されたときのこと。
その直後、アシュリンを認めたライナルトが、驚いたように視線を向けたときのこと。
そして、自分を殺すように命じられたライナルトが顔を震わせながら剣を構えたときのこと。
全ての恐怖の記憶が、アシュリンの脳裏を過ぎり、彼女は寒さのせいでない震えが身体に走るのを感じた。
「……ライナルトたちは、軍はクーデターを起こしたと、お父様を殺す前に言っていたわ……」
「ここにいる避難民もみな、そう言っています。クーデターを起こした軍は、王都の各所を襲い、王族や要人を殺して火を付けて回り、貴族の私兵と戦闘状態に入っていると」
「夢じゃなかったんだわ……」
アシュリンはそう呟くと、視線を川向こうの丘に広がる王都ハリエットへと投げた。
なるほど、クラウスの掴んできた情報を裏付けるように、壮麗な王宮や塔が立ち並ぶ都のいたるところから、火の手や黒煙が立ち上っているのが良く見える。
アシュリンは肩を落した。不幸中の幸いか、アシュリンのいまの格好は、全身煤だらけ、赤い髪は乱れ放題、ドレスもところどころがずたずたに引き裂かれた酷い有り様であるから、彼女を一見して伯爵令嬢と見破る者はいないだろうが、だからといって安堵の吐息を漏らすわけにもいかなかった。
彼女は身にかけられたマントをたぐり寄せて、身に強く巻き付けた。そして巻き付けながら、ふと、クラウスの顔を見る。
「あなたが助けてくれたのね」
「……」
「……今度は
アシュリンの独り言とも囁きともつかぬその言葉に、クラウスは無言で応じる。
彼はアシュリンになんと言葉をかけていいものか、わからなかった。結婚式の夜に、愛する夫に手ひどく裏切られた彼女を。それも目の前で、実の父を夫に殺されるという、残酷この上ないやり方で。
――むごいことだ。あまりにも、むごい。
だが、同時にこうも、クラウスの心中では、己の声が木霊している。
――だが、俺たちダウリング家が舐めた辛酸に比べれば、こんなことはたいしたことでない。これはエンフィールド家への罰だ。だとしたら、もっと苦しめば良いのだ、もっと。
すると今度は、昨夜、夜の薔薇園でオズワルドに投げかけられた言葉が脳裏に浮かぶ。
――「アシュリンには何の罪もない」か。それはそうだが……だが、そうだとしたら、俺のこの積年の恨みはどこにぶつけたら良いのだ?
クラウスはマントの上から黒髪を掻きむしる。どうあっても、自然と彼の思考はどんどん過去に引き戻されてしまう。
――そうだ、エンフィールド家だけでない。そもそも、貴族どもが酷い目に遭うのは自業自得だ。そうだ、前の内乱のときだって、奴らのせいで、俺は。だが、それはそれとして……だ。
クラウスは、心のなかで独り言つ。
彼にはこの先、どうすればよいか、皆目見当がつかなかった。いや、自分ひとりの身の振り方なら、考えていることはあった。その上で、また庭師としてどこかに仕官して、生きながらえればよいのだ。
問題は、自分がどういう気の迷いからか、
「ねえ、クラウス。あなたはこれからどうするの?」
「お嬢様には関係のないことです」
「大ありよ。私はあなたの、主人なんだから」
そのアシュリンの語気強めの発言に、クラウスは思わず皮肉な笑みを浮かべざるをえなかった。
「何を仰いますか。それは昨日までのこと。私は庭師としてクルーゲ伯爵夫人に仕えるはずだったのです。いまや、地位も屋敷も失ったお嬢様とは、もう、なんの主従関係もございません」
「そんな……」
途端に弱々しい色を帯びたアシュリンのアメジスト色の瞳が、クラウスには疎ましかった。だが次の瞬間、アシュリンは、きっ、とクラウスを見据えると、こう言葉を放ってきた。
「じゃあ、主従でもなんでもなくてもいいわ。ただのひとりの人間として、あなたに尋ねるわ。あなたはこれから、どうするつもりなの?」
「私はオリアナに向かおうと思います」
「隣国のオリアナ……」
「父が何かあったらオリアナへ行けと言っていたからです。それ以上の理由はありません」
「そうなのね。……なら、私も一緒についていって構わないこと?」
クラウスは虚を突かれて、思わずアシュリンの顔を見返す。その瞳は強い意志に輝いている。
「もうあなたの主人面はしないわ。だからあなたも従者として私に接してもらわなくて結構。ただの同行者として、あなたについていくだけよ」
「……」
「途中で邪魔になったら、その場に捨てていってもらっても、一向に構わないわ」
「……オリアナへ辿り着くには山を越えねばなりません。道は険しいですよ」
クラウスは言葉少なにアシュリンの覚悟を質した。だがアシュリンの意志は揺らがなかった。
「ええ、分かってるわ」
「置いていくときは、山中だとどこだろうと、置いていきますよ」
「そうして頂戴」
アシュリンの燃える瞳がクラウスの顔を射る。
やがてクラウスが、険しい顔のまま、ぽつり、と呟いた。
「……お好きになさってください」
途端にアシュリンが破顔する。そんな彼女に、クラウスは口早に旅の条件を重ねて突きつけた。
「明日の朝、ここを出発します。それまでに最低限の旅支度を調えておいてください。そんな格好では、旅に出るまでもなく、凍え死ぬでしょうから」
「分かったわ」
己の判断に懊悩するクラウスの心中を知ってか知らずか、アシュリンは静かに頷いた。
初冬の風がふわり、と避難民で溢れた河原を舞い、アシュリンの乱れた赤い髪を揺らし、川面をさざめかせる。
頼りない陽のひかりが差す冬の河原で、ふたりの男女は、お互いの心を探り合うかのように、ただ、視線を交わし合った。
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