第12話 ふたり旅

 翌朝早く、夜が白みきる前に目を覚ましたクラウスは、傍にアシュリンの気配がないことに気付いた。


 ――途中で捨てられても良いからついていく、なんて言っていたが、さすがに怖じ気づいて王都に戻ったのだろうか。


 だとすれば、自分はひとりでオリアナを目指せば良いだけだ。アシュリンのことが気に掛からぬ訳ではなかったが、そう思ってしまえばクラウスの心は、これで良いのだ、という思いに満たされる。クラウスはまだ河原に横たわって眠っている大勢の避難民の間を縫って歩き、川岸に辿り着くと、冷たい水で顔を洗った。

 すると、その彼の姿を見つけて河原を駆けてくる人影がある。


「クラウス! よかった、もう出発してしまったかと思ったわ!」


 振り返ってみれば、そこは旅装に身を整えたアシュリンがいた。

 質素な綿のワンピースにマント、足には皮のブーツを履き、さらに手には何やら中身が膨らんだ麻袋まで手にしている。いままでは常に高く結い上げていた赤い髪は、首元でひとつにまとめられていて、その風貌はどこから見ても庶民の娘そのものだ。

 クラウスは思わず呆気にとられてアシュリンの全身を見つめた。


「川沿いの村で交換してもらったのよ。結婚指輪や髪留めを渡したら、このくらい揃えるのに問題なかったわ。ついでにチーズや干し肉、パンも分けてもらってきたの。これだけあれば、少しは道中の食糧の足しになるでしょう」

「……随分と手際が良いですね」

「そうよ。その気になれば、私にだってこのくらい出来るわ」


 曙色に染まり始めた空の下で、アシュリンは得意げに笑ってみせる。クラウスはアシュリンの行動力に内心舌を巻かざるをえなかった。だが、それは表情には出さずに、彼はただ淡々とこうとだけ口にした。


「では、出発しましょう。明るくなる前に動いた方が良い」

「ええ」


 ふたりの男女は、夜明けの空の下をストファリ川上流に向かって歩き始めた。しばらくは川沿いの街道を辿り、途中からはフィルデルガー王国の西を走るハリヤ山脈を登る。そうすれば、山脈向こうに広がるオリアナに達するはずである。何も問題がなければ、三日ほどの旅程であった。


 ――さて、お嬢様が無事ついてこれるかどうか、見物みものだな。


 クラウスは隣を歩くアシュリンに目を留めた。何も言わずに歩を進める彼女の横顔を、ぱぁーっ、と朝陽の一閃が照らし、一日の始まりを告げる。旅はまだ始まったばかりだった。



 アシュリンの踏ん張りは、クラウスの想像以上だった。一日目、そろそろ旅に慣れぬ足が痛んできたであろう夕刻には、辛そうな顔を見せ始めたものの、その唇は弱音を漏らすことはなかった。

 

 だが、それとは別の障壁がふたりの旅路には生じていた。街道筋では、各所で軍による検問が行われていて、王都ハリエットから逃げ出そうとする貴族を捕えようと、兵士達は虎視眈々と旅人を待ち受けていた。幸い、アシュリンの変装は功を奏し、彼女は「旅の庭師の連れ」をうまく演じきっていたが、クラウスにはそれも限界があるのではと憂慮せずにいられなかった。

 

 検問の様子を窺うに、軍のクーデターは王都だけのものではなく、フィルデルガー王国の全土に及んでいるようであった。だとすれば、今後も幾度となくあるであろう検問を、そううまく乗り切れるかどうか、クラウスには確信が持てなかったのだ。


 やがて陽は暮れ、街道沿いの河原に打ち棄てられた船小屋で、クラウスとアシュリンは最初の野営を行うことにする。アシュリンの調達してきた干し肉を噛みながら、こうアシュリンに告げた。


「このまま街道を進むのは危険かと思われます」

「じゃあ、この先どうするの?」


 それまで食べたことのないような固くて味のしない干し肉に眉を顰めながら、アシュリンがクラウスに尋ねる。

 

「予定を変更して、ここで街道を離れ、山道を辿りましょう。一日ほど余計に時間は掛かりますが、その方が安全かと」

「そうね。時間が掛かるのは嫌だけど、仕方ないわ」


 アシュリンが船小屋の床に目を落しながら、ぽつり、と呟く。ふたりはそれから暫く、声もなく干し肉を噛み続けていたが、やがて、アシュリンがふと疑問を零した。


「クラウス、あなたはどうしてこんなに地理に詳しいの? 各地で庭師の修行をしていたから?」

「それもありますが、だいたいの地理の知識は軍で覚えました」

「クラウス、あなた、軍にいたの?」

「私は先の内乱の際、徴兵されていましたから」

「そうなの。じゃあ、頬の傷もそのときのもの?」


 アシュリンの何気ない問いに、クラウスは一瞬、いつもの険しい表情を解き、ふと遠くを見つめるような眼差しをした。


「……まあ、そのようなものです」

 

 そう言うと、彼は再び干し肉に手を伸ばした。それから、その夜、船小屋の薄汚れた床に身を横たえるまで、ふたりの間には会話らしい会話は生まれなかった。



 二日目から、クラウスは宣言通り山道へと足を踏み入れた。最初は長く緩やかな坂道が続くばかりだったが、やがて道は急坂の繰り返しとなり、アシュリンの息は乱れ始めた。乱れたのは息だけでなく、足どりも同様であった。アシュリンの歩みが目に見えて遅くなり、その身体は苦しげな呼吸とともに左右に揺れる。

 それでも彼女は弱音を吐くこともなく、枯れ枝を踏みしめ、足をなんとか前に動かすべく奮闘した。

 

 だが、昼過ぎ、その動きも空転し始めた。全身にじんわりと汗が滲み、口から吐く息は荒く、足はまるでなにかの足枷を嵌められたかのように重い。気が付けば、前を歩くクラウスの背中は少しずつ遠のいていた。そして陽が西に傾く時分、遂にアシュリンの足は動かなくなった。

 やがて折れ曲がった山道の向こうに、クラウスの姿が消えてゆく。


 ――これまで……かしら。


 そう思った途端アシュリンの身体から、ふっ、と力が抜けて、彼女はゆっくりと山道の上に膝を屈した。どう気力を振り絞っても、もう足を持ち上げることは出来そうにない。


 ――もう動けない。そしてもうじき夜が来る。そうすれば、元来た道を辿ることも出来ないだろうから、凍え死んでしまうのも時間の問題だわ。いいえ、山を彷徨う魔獣の餌食になるのが先かも知れない。


 アシュリンの心は絶望に覆われる。それまで決して流すまいとしていた涙が、彼女の視界を、じわっ、と滲ませた。アシュリンはアメジスト色の瞳を空に投げ、死を意識する。吹きすさぶ冬の風が山肌と枯れ木を揺さぶる音が聞こえる。

 


 どのくらいそうしていたのか。気が付けば、険しい焦茶色の瞳が自分を見下ろしていた。


「足を見せて下さい」


 そう言いながらクラウスは呆然としたままのアシュリンの足元に屈むと、彼女のブーツの紐を解き始める。そして彼はアシュリンのブーツを両足とも脱がせると、その白く細い素足をいかつい掌で包んだ。

 ほどなくして、クラウスの両手から、金色のひかりが迸る。そして、そのひかりが消え失せれば、アシュリンの両足は嘘のように軽くなっていた。


「すごいわ……」

「今からでも遅くない。王都へお戻りになったらどうですか、お嬢様」


 クラウスの治癒魔術に感嘆の声を上げて、しばし我を忘れていたアシュリンは、クラウスの声に、はっ、とする。


「いかにライナルト様といえども、お嬢様の命をとるまではしないでしょう」

「……いやよ。たとえ、殺されなかったとしても、殺されずにすんだとしても……」


 淡々としたクラウスの言に、アシュリンは声を震わせて抗った。堪えきれない嗚咽が唇から溢れ出る。


「……私、ライナルトを許せない……、許せないんだもの……!」


 途端に堰を切ったように、アシュリンのアメジスト色の瞳から涙が流れ出た。

 泣いてはならない、泣いてはならない、そう彼女は繰り返し思ったが、一度溢れ出た涙は簡単に枯れることはなかった。

 

 彼女は気付けば号泣していた。あの恐怖の晩以来、乾ききっていた感情が急に色を取り戻すかのように、アシュリンはクラウスの前で泣き崩れていた。

 

 どれほどの時が経ったのであろう。泣きに泣いて、腫れ上がった目を上げてみれば、そこにはクラウスの顔があった。

 そのとき、彼の表情にいつもの険しさだけでなく、哀惜の色が滲んでいたのは、果たして気のせいだったであろうか。アシュリンは思わず泣くのをやめてそれを確かめようとしたが、その時にはもうクラウスは顔を背けて、視線を遠くに投げてしまっていた。続いて、クラウスの感情を抑えた低い声がアシュリンの鼓膜を打つ。


「……今日はここで野営にしましょう」

「クラウス……」

「ここを過ぎれば、あとは尾根道です。明日以降は、もう少し楽に歩けるかと思います」


 陽が山の向こうに沈み、急激に冷えてきた空気がふたりを包む。

 クラウスに促され、アシュリンはブーツの紐を締め、ふらふらと立ち上がった。枯れ木の隙間から遠くなった王都が微かに霞む。それはもはや遥か彼方に過ぎ去ってしまった、アシュリンの穏やかな日々の姿そのものだった。



 クラウスの言は正しく、翌日、難所を超えてからの山道は比較的易しかった。

 そして王都ハリエットを立ってから四日後、アシュリンとクラウスの足は独立国オリアナの領内に達していた。

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