第9話 すべてが暗転する初夜

 結婚パーティは和やかに幕を閉じた。アシュリンはライナルトとともに終始、列席者への挨拶に追われ、父が宴を中座したことにも気が付かなかった。むろん、クラウスがどうしていたかなども気を配る余裕はなかった。

 

 夜の帳のなかで、ひとり、またひとりとおのおのが馬車に乗り、アシュリンとライナルトの新居を去って行く。ベラやカミラを初めとした友人たち、そしてオズワルドとヴェロニカも、名残惜しそうにしながらも自邸に戻っていった。

 いよいよ新居には使用人と新婚夫婦のみが残され、急に、しん、と静まりかえった屋敷のなかで、アシュリンは長く甘く幸せだった今日一日を思い返す。すると、アシュリンの顔を優しく覗き込みながら、ライナルトが思わぬことをアシュリンに言い出した。


「アシュリン。ちょっと魔術師団の詰め所に戻って良いかな。実は重要な仕事の書類を、上官に渡し損ねてしまっていたことに、今になって気がついたんだ」

「えっ。こんな時間に……?」

「すまん。ほら、明日から結婚休暇をもらっているだろ? その前にどうしても手渡さなければいけないんだ」


 そう言うとライナルトはペリドット色の瞳を優しく細めて、アシュリンの頬に軽くキスをした。そして、彼女の耳もとでこう囁くことも忘れなかった。


「二時間ほどで戻ってくる。そのあとはたっぷり……僕を君で溺れさせておくれ」


 アシュリンのアメジスト色の瞳が揺れ、ついで、その顔が髪色と同じ赤に染まった。そうであった。一日はまだ終わってなどいなかった。これから、アシュリンにとっては一番緊張を要する時間が待っていたのだった。すると、頬を上気させる妻に笑みを閃かすと、ライナルトは魔術師団の白い礼装のまま、玄関へと歩み去って行った。


 アシュリンはまだ見慣れない新居の自室に戻り、マリアンの手を借りてウェディングドレスから寝間着へ着替え、香油の匂いが漂う夫婦の寝室へと移る。あとはライナルトが帰宅したら湯浴みして身を清めればいいだけだ。

 その時になってアシュリンは、己の首元にあるべきものがないことに気がつき、ひとり、素っ頓狂な声を上げた。


「きゃあ! わ、私、魔晶石を……! エンフィールド家に置いてきちゃった!」


 一大事である。というのも、フィルデルガー王国では、初夜の寝室には、新郎新婦の魔晶石をひとつの盆に入れて枕元に置く習わしがある。それによって、初夜の営みとともに、夫婦の絆は永遠とわのものとされるのだ。

 アシュリンは焦って部屋に掛けられた時計を見た。時刻を見れば、ライナルトが屋敷を出てから、まだ時間は三十分ほどしか経過していない。


 ――となると、ライナルトが戻るまであと一時間半。今すぐエンフィールド家に戻れば一時間で帰ってこれるから、ライナルトの帰宅には間に合うわ。


 アシュリンは頭の中で慌ただしく計算を終えると、とりあえず簡素なデイタイム・ドレスに袖を通した。早く魔晶石を取りに戻らなければ。もはや心中はそのことでいっぱいだ。こんな大失敗で大事な結婚生活の幕を開けるのはまっぴらごめんだわ、とばかりに彼女はその身を廊下に滑り出させた。

 

 ――とりあえずマリアンに相談しなければ。

 

 そう思って女中達の控え室に歩き出した彼女の前を、横切る影があった。


「ク、クラウス」

「……お嬢様」


 見れば、礼装を解いたいつもの姿のクラウスが廊下に佇んでいた。本来はもう「奥様」と呼ぶところなのだろうが、クラウスはついそれまでの呼称でアシュリンの名を口にした。

 しかし、アシュリンはそれをとがめることもせず、早口でクラウスにこんな時間に何をしているのかを尋ねた。


「何をしているも何も、私はこれから庭にある自邸へ戻るところですが」

「あ、そう……、なの……」


 専属庭師となったクラウスは、アシュリンの新居の庭に、ちいさな家を下賜されて暮らすことになっていた。これは、共同の寝床くらいしか与えられない普通の使用人には考えられない待遇であり、この国で庭師は礼を持って遇されていることを象徴する事例のひとつである。

 だが、今のアシュリンにはそんなことはどうでも良くて、その瞬間に考えついたことをクラウスの前で口走ってしまっていた。


「ねえ、お願いがあるの、クラウス。私を今からエンフィールド家に連れて行ってくれない? 実は私、魔晶石を置いてきてしまったの」


 クラウスが顔を顰めた。彼とて、自国の初夜の風習は良く知っている。なので、それが大事であることも瞬時に理解する。だが、いくらなんでも今日結婚した花嫁が、この夜更けに実家に戻るというのは問題があるのではなかろうか。

 そんな考えがありありと顔に出てしまったのだろうか。アシュリンは彼を説得すべく、必死になって語を継ぐ。


「ライナルトが急用で出かけているの。そのうちに、なんとしても魔晶石を手にして戻ってこなければならないのよ」

「ライナルト様が急用で?」

 

 クラウスは驚いた。普通、結婚初夜に妻を置いて夫が出かけるなど、あってはならないことだ。クラウスにはそれが引っかかった。いったい、それほどの急用とは何であろうか。

 思わず考え込んだクラウスを見て、アシュリンはさらに彼に言葉を畳みかけた。


「ねえ、お願い。たしか裏に空きの馬車があったはずよ」

「しかし……」

「もう! いいわよ! なんなら私がひとりで馬車を飛ばして取ってくるわ! 私だってそのくらい出来るんだから!」


 渋るクラウスを前にしたアシュリンは、遂にアメジスト色の瞳を怒りで染めてずんずんと勝手口に向かっていく。それを見てクラウスは慌ててアシュリンの前に回り込んだ。


「何よ、行ってくれないんでしょ?」

「……分かりました。分かりましたよ。私が馭者になります。ですから、落ち着いて下さい」

「本当? クラウス?」

「……はい」


 クラウスは不承不承といった表情で答える。するとアシュリンが、勇んで馬小屋へ続く勝手口の扉を押し開けた。クラウスは折れてしまった自身のふがいなさに嘆息しつつ、険しい顔をしてアシュリンの後に続いた。

 


 十数分後、クラウスは馭者席に座って、夜道にて馬車をエンフィールド家に向けて走らせていた。むろん、なかにはアシュリンが座している。


 ――自分には関係のないことだと、突っぱねることも出来たはずなのに。どうしてこうなってしまったのか。


 馬に鞭を振るいながら、クラウスは自問自答する。

 先ほどの薔薇園でのオズワルトとの会話が影響しているとは、認めたくなかった。自分のエンフィールド家への怨念は、あんな一回の謝罪などでは収まらないものであったから。

 

 ――エンフィールド家の血を引く者は、地を這いずるほどに惨めな目に遭えば良いのだ。


 そんな思いは、今もクラウスのなかで沸々と煮えたぎって止まない。だが、クラウスは頭を振って一旦その考えから意識を離した。


 ――仕方ない。それはそれ、これはこれだ。このままこの世間知らずのお嬢様を、夜中にほっぽり出すわけにはいかん。この場は手を貸そう。だけど、これっきりだ。あとは庭師としてのみ、仕えればいいのだ。


 クラウスはそう決意を固めると、カンテラの明かりが照らす夜道の向こうにだけ意識を集中させる。闇を疾走する馬車は、もう少しでエンフィールド家の門に辿り着くところまできていた。

 この数分後、その屋敷のなかで、予想もつかぬ惨劇が起ろうとは、このときふたりは予想すらしていなかったのである。

 


 アシュリンとクラウスがエンフィールド家に到着したとき、屋敷は不気味なほど静まりかえっていた。

 なぜか門の扉は開け放たれており、クラウスはそれを不思議に思ったが、使用人が閉め忘れたのだろうとしか考えなかった。不用心なことだ、とは思ったが。

 明かりがまだ窓から煌々と漏れる邸宅前にアシュリンを降ろすと、クラウスは彼女が魔晶石を取りに屋敷へ入っていくのを、冷たい視線で見送った。クラウスは、早く自宅に戻って休みたかった。そのためには、アシュリンが早く戻ってくれば良い。馬車の上で、彼が考えていたことといえば、そのくらいだ。

 

 突如、クラウスの視界の隅を、なにかの眩しいひかりが走った。

 ついで聞こえてきたのは激しい爆発音、そして爆風が彼を襲った。馬が嘶き、彼は馬車から振り落とされそうになる。慌てて体勢を維持し、クラウスはなんとか地面に転がらずに済んだが、彼にはその虹色のひかりにも爆発音にも、既視感があった。


 ――あれは……、戦闘魔術の輝きだ……何度も戦場で経験した、あの……。それが屋敷内から迸ったぞ? どういうことだ?


 クラウスは数瞬の自失呆然から立ち直ると、地面に降り立ち、次の瞬間には、反射的に屋敷のなかに駆け込んでいた。

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