第8話 宴の影で

 教会のバージンロードをオズワルドにエスコートされながら、ウエディングドレス姿のアシュリンが進む。長いベールを踏まぬよう、一歩一歩慎重に歩みながら、緊張に身を震わせつつ前を見てみれば、もう祭壇の前だ。そこには魔術師団の白い礼装に身を包んだライナルトが微笑みながら、花嫁の到着を待っている。


「さあアシュリン、行っておいで」


 耳もとで囁いた父の声に促され、アシュリンはオズワルドから離した手をライナルトに差し伸べる。するとその手をそっ、とライナルトが包み込む。彼の顔はいつも以上に眩しい笑顔で華やいでおり、そこからは何の憂いも感じ取れず、アシュリンは密かに安堵の吐息を漏らした。


 あの夕食会の波乱から、早くも三月みつき。季節は晩秋へと移り変わり、アシュリンは遂に結婚式の日を迎えた。あれからライナルトは任務が忙しいとのことでエンフィールド家には寄りつかず、アシュリンと会うのも稀になっていた。ましてや、衝突したオズワルドとは今日の式に至るまで顔も合わせていない。

 だが、今日のふたりを見る限り双方の表情は穏やかで、軋轢を思い出させる要素は何もない。


 ――よかった。これからも、お父様とライナルトはきっとうまくやっていけるわ。


 大きな羽根のついたペンを結婚証書に滑らせながら、アシュリンはそんな思いを噛みしめた。やがて、双方の署名が済んだ証書を司祭が列席者に掲げて見せ、婚姻の成立を宣言する。途端に教会内には祝福の拍手と賛辞が響き渡り、女神フランティーラの象徴である薔薇の花弁が頭上に躍る。

 はらはらと舞う色とりどりの花弁に包まれた空間で、ライナルトとアシュリンは接吻を交わした。夫となったライナルトの唇は仄かな熱を帯びていて、アシュリンの意識は幸福に蕩けそうになる。至近距離で輝くペリドット色の瞳が眩しくて、アシュリンは微笑みながら逞しい夫の身体へと肢体を委ねた。

 アシュリンが纏う金糸の刺繍が縫い付けられた豪奢な白いドレスが、ふわり、と風に揺れて、舞い落ちた花弁を受け止める。


「クルーゲ家万歳! エンフィールド家万歳!」

「両家と新郎新婦に、女神と王室の加護を!」


 少女たちが手元の花籠から降らせる花吹雪がますます色濃く、教会内を舞い躍る。それに高らかな列席者の祝いの声が重なり、アシュリンとライナルトの結婚式は最高潮に達した。アシュリンはライナルトにもたれかったまま、胸をせり上がる幸せに思わず目を閉じた。

 その身体を優しく抱き止める夫も同じ思いでいることを、露ほどにも疑わぬままに。


 

「ウェディングドレスってたしかに綺麗だけど、いつものドレスの数倍も窮屈なものなのね! これをあと数時間も着ていないといけないなんて、ちょっとした拷問だわ!」

「少しは黙っていてください。でないとせっかくのドレス姿がお崩れになる一方ですよ!」


 教会での式を終えて数時間後、アシュリンは甲高い悲鳴を自邸にて響かせていた。新居での夜の結婚披露パーティに備えてドレスの微調整を手がけるマリアンの口調は、いまやクルーゲ伯爵夫人となったアシュリンにも変わらず容赦ない。


「あーっ、マリアン! もうちょっとコルセット優しく締めてよ! あたたたっ!」

「そんなに大きな声をお出しになるものじゃありませんよ、まったくもう」


 そう言いながらもマリアンの口調は、どこか満足そうだ。その眼差しは感慨深げですらある。それもそのはずである、なんせ、ちいさい頃から見守ってきたお嬢様が、ついにこうして婚姻の義を無事に終えたのだから。マリアンは手早くアシュリンのドレスを直しながら、心の中で呟いた。


 ――あとは立派な伯爵夫人として、あちらでの生活に早く慣れてもらわねばね。そうそう、あとはあのセオドアの息子とうまくやっていけるかどうか、私が逐一見守ってなきゃ。


 マリアンはアシュリン付の女中として、エンフィールド家から新居に移り住んで、変わらずアシュリンの世話をすることになっていた。そのアシュリンの新生活において、マリアンが一番気がかりにしているのは、やはり若き庭師のことだった。


 ――よりによってあのクラウスをお嬢様の専属庭師にするとはねえ。


「マリアン! 待って! 魔晶石の紐が髪に引っかかっちゃった。一旦外すから、それからもう一回結い直して!」

「はいはい、分かりましたよ」


 マリアンはアシュリンの手から魔晶石を受け取ると、傍のサイドテーブルに置いた。そして物思いに耽りながらまたアシュリンに手を添える。


 ――旦那様は何をお考えなのか。まあ、考えても私などには分かりようがないがね。


 そこまで考えて、マリアンは部屋の置き時計に目をやった。新居でのパーティの時間が迫っていた。窓の外を見れば陽は既に落ちて、庭園の緑も黒い影に覆われている。


「さあ、出来ましたよ。急いで馬車に乗って下さい。花嫁がパーティに遅れたらそれこそ末代までの恥ですよ」

「分かってるわよー!」


 アシュリンはマリアンに押されて、慌ただしく自室を後にした。扉がバタン、と閉まり、誰も居なくなった部屋の空気がゆらり、揺らぐ。

 そこに置き忘れられた乳白色の魔晶石に、目を留める者は誰もいなかった。

 


 なんとか時刻に遅れずに新居へと辿り着き、パーティ会場である客間に足を踏み入れたアシュリンは、目を見張った。


「わぁ……!」


 アシュリンが驚いたのも無理はない。真白いクロスを掛けられたテーブルの至る所に、薔薇が飾られていた。それもすべてが、きらきらと光り輝く黄金色の薔薇だ。


「どうだね。驚いただろう、アシュリン。すべてこの日のために彼が咲かせた“アシュリン”だ」

「お父様。それに、クラウス」


 振り向いてみれば客間の入口に、クラウスを従えたオズワルドの姿があった。クラウスは、今日はいつもの簡素な格好ではなく、礼服を身に着けている。かといって平民のそれは、貴族の礼服ほど煌びやかではなかったが。しかし、表情はいつものあの険しさをやはり帯びていて、アシュリンに礼をして述べた言葉にも、ぎごちなさが滲んで見えた。

 

「アシュリンお嬢様。このたびのご婚姻、誠におめでとうございます」

「……ありがとう、クラウス。これからもどうぞよろしくね」

「はは、そんなに固くなることはないんだぞ、クラウス。せっかくの宴だ。今日は君も、このパーティの陰の功労者として列席したまえ」


 そこまでオズワルドが話したとき、ライナルトの到着を告げる使用人の声が客間に響いてきた。オズワルドが笑いながらクラウスの肩を叩く。


「おお、花婿の登場だ。さあパーティが始まるぞ。クラウス、君も楽しみ賜え。アシュリン、ライナルトを迎えておあげ」


 そう言うとオズワルドはクラウスの前から去って行く。アシュリンもライナルトの元へと歩み去る。そのふたりの後ろ姿をクラウスは暫く黙って見つめていたが、やがて、周囲に誰の目もないのを確かめながら、急いで着慣れぬ礼服の胸ポケットを探った。

 

 そこには、さきほどオズワルドが肩を叩きながら、密かにクラウスの胸に差し入れた、ちいさな紙片が入っていた。クラウスは素早く折りたたまれた紙を広げて、そこに綴られた文字へ目を走らせる。

「乾杯が済んだら、庭の薔薇園にて待っている」

 クラウスの手は僅かに震えたが、すぐにその紙をポケットに戻した。客間にはパーティの客が次々と到着しつつあった。黄金色の薔薇に彩られた空間では、華やかな宴が今にも始まろうとしていた。



 オズワルドはカンテラを手に、ひとり闇に包まれた薔薇園に佇んでいた。秋咲きの色とりどりの薔薇がそこには咲き乱れている。なかでも夜目にも眩しく輝くのは、今を盛りと花開いた黄金色の“アシュリン”の煌めきだった。その芳香は格別に香しく、オズワルドは満足そうに夜の薔薇園を見回した。するとその闇のなかに、ひとつの明かりが揺れているのが見えて、彼は待ち合わせの相手が訪れたことを知る。

 

「ここだ。クラウス」


 現われたのは表情を硬くしたクラウスだった。彼もまた手にカンテラを掲げている。クラウスはオズワルドの姿を認めると、足早に彼の元へと歩みより、ちいさく声を掛けた。


「何事ですか。大事な宴の最中に、こんな手段で私を呼び出すなど」

「……君の育てた薔薇はどれも見事だな。流石、セオドアの息子だ。改めて見直したよ。ことに、この“アシュリン”の花弁の艶やかさといったらどうだ。たしかにこれは、誰にも真似できまい」

「私をここに呼び出したのは、そんな薔薇談義をするためではないでしょう?」


 自分を呼び出しておきながら本題に入ろうとしないオズワルドに、クラウスは些か苛立ちを覚えて語を放った。するとオズワルドはクラウスの顔に向き直り、改めて彼の焦茶色の瞳に、じっ、と視線を注ぐ。そしておもむろに口を開いた。


「頼みがある。君に我が娘、アシュリンを託したい」

「……どういう意味でしょうか。それを仰るのなら、私などではなく、ライナルト様に仰るべきだと存じますが」


 漂う薔薇の芳香のなか、クラウスはオズワルドの意を汲み取ることができず、困惑してそう応じた。カンテラの頼りない明かりに照らされたオズワルドの表情には影が落ちていて、彼がどういう顔でそれを言ったのかも掴めない。ただ、声音はおそろしいまでに真摯な響きに満ちていた。それは、続いた言葉でも変わることはなかった。


「ライナルトでは駄目なのだ。そうなると、私には君にしか娘を託す相手は見つからない」

「私はただの庭師です。旦那様の仰る意味が、私には分かりかねます」

「そのうち分かる。クラウス、頼む。君には先の内乱で発揮したような魔術の嗜みもある。もしもの時は、アシュリンを守ってやってくれ」

「……旦那様がそんな勝手なことを、私に言えた義理をお持ちとでも思っているので……?」


 オズワルドの一方的な言に、クラウスは怒りを覚えて声を荒げた。否が応なく、胸にこみ上げてきたエンフィールド家への数々の怨恨が彼をそうさせた。クラウスからすれば、そうならざるを得なかった。だが、オズワルドにはそれをものともせず、淡々と語を継ぐ。


「君が、我がエンフィールド家を憎く思う気持ちは分かっているつもりだ。レイラのことについては、悪いことをしたと思っている。この場で詫びさせてくれ。申し訳なかった」

「……!」


 話が遂に中核に及び、誰よりも愛おしい妹の名をオズワルドが口にしたのを耳にし、クラウスは身を固くした。そんな彼の前で、オズワルドは長身をかがめて深々と礼をする。薔薇の黒い茂みがオズワルドの頭に触れ、ばさ、と音を立てる。


「どうか許して欲しい。罪は全て私にある」

「なにを今ごろ仰るんですか! あんたたちは私たちダウリング家をめちゃくちゃにしておいて……!」

「しかし、アシュリンには何の罪もないんだ。だから、どうか娘を頼む」

「……そんなことをしてもレイラは帰ってこない!」


 精神の限界だった。クラウスは鋭い声でそう吐き捨てると、闇に包まれた薔薇園から身を翻した。

 ばさ、ばさりと茂みをかき分ける音がして、クラウスが遠ざかっていくのを、身を屈したままのオズワルドは感じ取る。彼が身を起こしたのは、その音が止んで、庭園が静けさを取り戻してからだった。客間から漏れ聞こえてくるパーティのさざめきが、オズワルドの鼓膜を叩く。

 

 彼は大きく嘆息すると、星のきらめく夜空を見上げた。その闇の濃さは、己の罪の深さをオズワルドに感じさせて、彼の心をますます黒く澱ませた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る