第7話 密やかな背信
夕暮れ過ぎには、オズワルドとアシュリンを乗せた馬車は、教会からエンフィールド家邸宅に帰り着いた。
玄関先で、喪の穢れを纏った身体を清めるべく、ふたりはそれぞれの魔晶石を水で清めるまじないを済ませると、煌々と明かりが灯された邸内に足を進めた。執事のカルスが、いつものように恭しく、オズワルドとアシュリンを迎える。
「ご主人様、お嬢様。クルーゲ少尉がお待ちでおられますよ」
「まあ、ライナルトが?」
「はい、今日は少し早く任務が終わられたとのことで、お立ち寄りになったとか」
「あら、じゃあ、ねえお父様。今日はライナルトに夕食を一緒と、勧めて構わないこと? この間の朝食会の穴埋めがしたいわ」
喪装の黒いヴェールを外しながらアシュリンは父に尋ねる。対するオズワルドの答えは明快であった。
「ああ、もちろん構わないよ。ライナルトとはしばらく顔を合わせていないしな。まずは、服を着替えてきなさい、アシュリン」
「ありがとう、お父様!」
自分の願いを快く受け入れた父に礼を述べて、アシュリンは黒いドレスの裾を翻して自室のある二階へと駆けていく。オズワルドはそんな愛娘の後ろ姿を微笑みを浮かべて見送ると、自分も自室へと戻り、使用人の手を借りて服装を整える。それを終えて、談話室に顔を出してみれば、そこにはまだアシュリンの姿はなく、ヴェロニカとライナルトのふたりが言葉を交わしていた。
「なんだ、もう調子は良くなったのか? ヴェロニカ」
帰ってきた夫の姿に目を留めたヴェロニカは、投げかけられた皮肉に僅かに眉を顰めたものの、動じることもなくオズワルドに礼をしてみせた。
「お帰りなさいまし。ええ、もう大分良くなりましたので、クルーゲ少尉のお相手をさせていただいておりました」
「そうか。……それはそうとライナルト、よく来てくれた、この間は申し訳ないことをした」
「とんでもございません。オズワルド・エンフィールド閣下、お久しゅうございます。連日の閣議、お疲れ様でございます」
ライナルトがソファーから立ち上がり、オズワルドに颯爽と歩み寄って右手を差し出す。オズワルドも覇気溢れるライナルトの声音に、思わず目を細めてそれに応じる。シャンデリアの明かりが揺れるなか、もうすぐ親子になろうとしている貴族院評議会議長と魔術師団の若き将校は固い握手を交わして、互いの信義を確かめ合った。
やがてそこに、蜂蜜色のイブニング・ドレスを身に着けたアシュリンがようやく階下に降りてきたので、四人は談笑の場を食堂へと移すことにする。
和やかな夕食会のはじまりであった。それがまさか、これまでにない波乱の場となるとは、このときはまだ誰も予想していなかったのだ。ただひとりを除いては。
夕食会はつつがなく進んだ。会話はオズワルドとライナルトのふたりを中心に進み、ヴェロニカとアシュリンはもっぱら聞き役に徹した。というのも、その話題は国内外の政治情勢が主であったので、アシュリンは加わりようがなかったからなのだが。
男同士の政治談義は次第に熱を帯び、やがて話題は国内の治安問題へと移っていく。
「それにしても、ここ最近、この王都ハリエットにおいても、人心の荒廃ぶりは酷いものだ。ちょっと郊外に出れば追い剥ぎが絶えぬと聞くし、ハリエット内部でも貧困層が暮らす地域では、窃盗、人身売買を目的とした人攫いが日常茶飯事といった有り様だ。私には、どうも戦乱以降、庶民の道徳、ことに王室への忠誠心が低下しているようにしか思えぬ。憂慮すべきことだよ」
ポークソテーをナイフで切り分けながら、オズワルドがライナルトに語りかける。それに対し、ライナルトは頷いて同意を示しながらも、落ち着いた声でこう述べた。
「それはハリエットに限った話ではないと僕は聞いております。フィルデルガー王国の領内全てにおいてみられることと上官から聞かされております」
「うむ。やはり、王国全土の臣民の道徳意識の引き締めが肝要だな。全ての国家の礎はそこにある。もっとそれを厳しく、徹底する手段を考えなければな」
「恐れながら閣下。もはや庶民の意識の引き締めだけでは、国内の治安を保てない、と僕は考えます」
そのライナルトの言葉に、オズワルドの動きがはたと止まる。彼は視線をポークソテーからライナルトの顔に移して、興味深そうにそのペリドット色の瞳を覗き込んだ。
「ほう……ライナルト。君には何か別の施策があると考えているのかね。ぜひ、その考えを聞きたいな」
オズワルドが興味津々とばかりに語を継ぐ。対して、それに対するライナルトの答えは、オズワルドを驚かせるものであった。
「ええ、閣下。畏れ多いことながら、それは庶民にも、教育の機会を与えることが求められているのではと」
「……庶民に教育の機会、だと?」
「はい。そう僕は考えます。我が国では現在、各都市に貴族の子女だけが学ぶことが出来るアカデミアが設置されておりますが、それ以外の庶民が公教育を受ける機会は皆無です。これは、これからの国力増強、及び結束力の強化を考えるにあたり、絶対的に不利なことなのではないでしょうか」
訥々と己の考えを述べた金髪の青年に、オズワルドは驚愕の視線を向けた。彼からすれば、ライナルトの発言は青天の霹靂以外の何物でもなかったからである。
不意に、食堂に沈黙の帳が降りた。オズワルドは何かを考え込み、ライナルトもポークソテーを口に運ぶのをやめて、ただ今は、じっ、とクリーム色のクロスに覆われた食卓に視線を落している。アシュリンそしてヴェロニカも、なんとはなしに食事の手を止め、突如、食堂に舞い降りた不穏な空気に身を固くした。
数十秒の後、口を開いたのはオズワルドだった。その瞳には、戸惑いの色が躍っている。
「……驚いたな、ライナルト。君が国内外におけるいわゆる進歩派と言われる輩の影響を受けているとは。ライナルト、君はまさか、あの戦乱で我々に負けた、東方貴族連合の間に浸透していたとされる危険思想に影響を受けているのではなかろうな?」
「何を仰います、閣下。僕は危険思想などには染まっておりません」
今度はオズワルドの言葉に、ライナルトが顔を顰める番だった。彼は不服そうに抗弁したが、それがオズワルドの心証をますます刺激した。オズワルドはナイフをテーブルに置くと、ライナルトに改めて向き直り、彼の発言を厳しく責め立てることを抑えきれなかった。
「いや、ライナルト、君はそう取れる発言をしているぞ? そもそも先の戦乱はなぜ起こったか君は忘れたのか? あの戦の発端は、進歩派にそそのかされた東方の貴族どもが、王権の弱体化を目的に王国への納税義務を怠ったところにあるのだぞ? それを阻止するために我らは戦わざるを得なかったのだ。そうだ、我々は、それを正義と信じたのだ。そして偉大なる女神フランティーラは我々の正義を是とした。よって国を二分した戦乱は収まり、我らは平和を取り戻したのだよ」
「……閣下、それはよく存じております。ですが、国に富が集中し、一部の貴族のみが知識を独占している現状は、この先、国の未来を思うに、けっして良い状況ではございません。そのためには……」
だが、次の瞬間、ライナルトの言は遮られた。オズワルドの怒声が、唐突に、食堂中へと響き渡ったのだ。
「君は我々の正義を賭けた戦いが、間違いだったと言うのかね!」
食堂内は、水を打ったように静かになった。
アシュリンはこの思わぬ波乱に発する言葉もなく、目の前で睨み合う父と婚約者を呆然と見つめるしか術がなかった。オズワルドは大きく息を吐きながらライナルトに怒りの視線を浴びせているし、ライナルトも毅然とオズワルドの顔を見つめている。
アシュリンは慌てた。何しろこんなに怒った父を見たことはなかったし、あんなに厳しい顔をしているライナルトを見るのもまた、初めてだった。アシュリンは思わず、助けを求めるように母の顔を見た。だが、母も突然のことに面食らって、ただ手元に置かれたナイフとフォークを握りしめて目を泳がしている。無論、給仕をしていた使用人達も、どうしたものかという困惑を顔に浮かべるばかりだ。
果たして、静まり返った食堂に再び言葉が響きわたったのは、たっぷり三分ほどの間を置いてのことだった。ライナルトが静かに椅子から立ち上がりながら、押し殺した声音でこう言葉を吐くのを、アシュリンは驚きながら耳にする。
「……いえ、そう仰るつもりはありませんでした。お気を悪くされたら申し訳ございません。……食事の途中、誠に失礼ではございますが、僕は、これにて」
「え、ちょっと! 帰っちゃうの? ライナルト!?」
「アシュリン、構うな!」
急いで婚約者の後を追おうとしたアシュリンの足を、オズワルドの再びの怒声が止める。そうしているうちに、ライナルトは一度も振り返ることなく、食堂を出て行ってしまった。これまでになく激しく燃えるペリドット色の瞳を、肩までの金髪で隠しながら。
ライナルトはそのまま馬車で自邸には戻らなかった。あまりにも早いエンフィールド家からの退出を訝しがる御者に、馬車を勤務先の王宮内にある、魔術師団詰め所に向かわせるように命じると、彼は馬車のなかで軽く目を瞑った。
――やはり、どうにもならなかったか。ごめん、アシュリン。
ライナルトは夜道を揺られながら、婚約者の顔を思い返し、心のなかで詫びる。そのうちに馬車は目的地に到着する。ライナルトは闇のなか、人目を避けるようにカンテラも灯さず、詰め所の一室へと足を運ぶ。そこには、彼の帰りを待っている仲間が潜んでいた。
密やかに暗号を交わした後、部屋に身を滑りこませた彼のもとには、さっそく、首尾を質す声が飛んでくる。
「クルーゲ少尉。どうだった? 評議会議長の考えは?」
「駄目だ。まったくもって、話にならない」
「そうか。やはり我らの理想は彼には危険思想でしかなかったか。敵に回すのは惜しい相手であったが、仕方ない、エンフィールド伯爵も抹殺対象とせざるを得ないな」
誰とも知れぬ仲間の低い声が、ライナルトの耳を打つ。そして、こう、彼の覚悟を確かめる声も。
「異議はないな。クルーゲ少尉」
「……ああ。問題ない」
「では、我々の具体的計画を詰めて行こう」
ライナルトは仲間の声に頷いた。
彼に後悔はなかった。自分がもはや戻れない岐路を進んでしまったのは、火を見るよりも明らかであったが、それは今日に始まったことではなかった。そう思えばこそである。
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