第6話 晩夏の弔鐘

 カーン、カーンと教会の鐘が響く。

 高音を三回、それから彽音を九回。それを四回繰り返す鐘の音の意味は、フィルデルガー王国に住む者なら誰もが知っている。弔いの鐘だ。

 

「……喪の国に逝く者よ 聖なる大地に還る者よ 偉大なる女神フランティーラの御許に その身を縋れ……」

 

 蝋燭の明かりのみの仄暗い教会のなかで、葬送の歌を列席者が口ずさむ。女神像の下に安置された棺の傍に佇んでいるのは喪服を身に着けたセオドアとクラウス親子だ。その横では、列席者たちがそれぞれに携えた弔いの花を、棺に横たわる故人の傍へと次々と投げ入れていく。

 やがて、ひときわ豪奢な花輪を携えた参列者が、棺の前に足を止める。それはエンフィールド家の当主、オズワルドに他ならなかった。喪章を付けたオズワルドは花輪を棺のなかに捧げると、妻の死に沈痛な面持ちを隠せないでいる喪主に声を掛けた。


「セオドア、このたびは残念だった」

「ああ……。だがこれであいつが二度と苦しむことなく、レイラの傍で暮らせるのなら、それでいい……」


 旧友であり、自邸の専属庭師でもある男が、包み隠さず漏らした本音を耳にして、オズワルドは声もなく教会の冷たい床に視線を投げる。だが、それも一瞬のことであった。オズワルドはセオドアの肩を抱くと、弔いの言葉を呟いた。


「故人に女神の加護を」

「……ありがとう、オズワルド」


 オズワルドの腕を受け入れながら、セオドアがちいさく囁いた。十何年かぶりで聞いた、セオドアが自分の名を呼ぶ声に、オズワルドはただ無言で頷く。そしてセオドアの隣に立つ彼の息子を見て、優しげに声を投げる。


「これからは亡くなったアニタの分まで、セオドアを支えてやってくれ」

「仰せのとおりに致します。旦那様」


 クラウスは丁重にオズワルドに一礼した。だが、その胸中は、はらわたが煮えわたらんばかりであった。果たして自分はいま、臓腑から滲み出る憎悪を顔に出さずにいられているだろうか。クラウスには自信がなかった。体内を駆け巡る衝動が己の喉をこじ開け、侮蔑の言葉を放ってしまいそうだ。しかし、礼を終えてみれば、既に目前にオズワルドの顔はなく、去りゆく彼の背中が見えるのみである。


 ――危ないところだった。この間のお嬢様とのやりとりの時のように、激発するところだった。


 クラウスは額を流れる脂汗をそっと拭った。次に花を捧げに来た参列者が怪訝な顔をしながら、クラウスに弔いの言葉を掛けるが、彼にはそれを構う余裕もなかった。それが誰か、判別する余裕もない。機械的に謝辞を述べ、そしてまた次の参列者を迎える。


 ――奥方がこの場にいたら、いくら父さんが止めようとも、俺は怒りをぶちまけることを止められなかっただろうな。いや、父さんがいるからこそ……。


 クラウスの胸中をさまざまなエンフィールド家への怨念が去来する。

 そうしているうちに献花の時は過ぎ、司祭が棺の前へと歩み出た。司祭の差し出した壮麗な金の盆には、いまは色を失い、変哲もない無色透明の小石に戻ったアニタの魔晶石が置かれている。

 司祭は女神への祈りの言葉を捧げながら、その石の上へと鎚を打ち付ける。鎚の音とともに、母の魔晶石が粉々に砕かれていくのを見て、クラウスはようやく、母がその辛く長い生を終えたのだと実感することが出来た。

 やがて、棺に蓋がされ、故人の魔晶石の破片を頭上に捧げ持った司祭を先頭に、葬列は教会の外へと進む。薄暗い教会のなかから外に歩み出たクラウスは、じっとりとした空気が滲む、夏の夕空を見上げる。

 

 赤く燃える空を渡る風は僅かながら冷気を纏っていて、もう秋の訪れが近いことを、彼はその肌で感じ取った。



「ねえ、お父様。クラウスったら、心ここにあらず、っていう感じだったわね」


 教会から戻る馬車に揺られながら、赤い髪を黒いレースのベールで覆ったアシュリンは、向かいに座る父の顔を見上げて呟いた。


「そりゃあ、実の母が死んだんだ。平然としていられるほうがおかしいだろう」

「……それはそうね」


 体調が優れないから、と言って、自室に引きこもってしまった母の代わりに、オズワルドとともにアニタ・ダウリングの葬儀に参列したアシュリンは、沈みきった様子のクラウスの顔を思い出しながら答えた。あの賑やかな茶会から一ヶ月の刻が経っていた。

 

 エンフィールド家から馬車で三十分ほどの距離にあるハリエット郊外のクルーゲ家の領内に建てられた、ライナルトとアシュリンの新居は、もう完成間近だ。そして、その周りでは、庭園の造園も着々と進められている。

 

 もちろん、その作業を担うのは専属の庭師となるクラウスだ。アシュリンは、その進捗を見守るべく、週に二、三度は新居に足を運ぶのが、ここのところの日課となっていた。訪れる時間はその日それぞれで、任務を終えたライナルトとともに夕刻に足を運ぶこともあれば、昼間の空いた時間にアシュリンがひとりで訪れることもあった。

 そして、どんな時間であっても、クラウスは黙々と造園作業に励んでいた。それは、クラウスの母、アニタの具合が思わしくないことを、マリアンから聞かされた夏の盛りの季節であっても、まったく変わることはなかった。

 

 それが気になって、一度だけだが、ある日、ひとりで新居を訪れたアシュリンは、クラウスに声を掛けたことがある。あれはまだ燃えるような夏の日差しが肌を刺す午後のことだった。日傘を差しながら、新居の庭へとひとり降り立ったアシュリンは、クラウスの姿を探す。やがて、植え付けられて間もない庭木の隙間から、土に屈んでなにかの苗を手にしているクラウスの大きな背中が、ちら、と見えた。


「クラウス、ご苦労様」


 そう声を掛けたアシュリンに気付いて、クラウスがゆっくりと振り向く。

 その顔は土に汚れ、汗の粒がいたるところに浮かんでおり、そしてアシュリンを認めた焦茶色の瞳は、いつものように途端に険しさを帯びる。アシュリンはクラウスの瞳に気圧されそうになって、その場に立ちすくむ。果たして、クラウスが自分に投げかけた声は無愛想極まりないものであった。


「こんな暑いなか、お嬢様がなぜ、こんな場所におられるのです?」

「……いえ。あの、私ね、あなたのお母様が病気だと聞いたの。なのに、クラウス、あなたったらここで働き通しで」

「それがなにか」

「え。だから、それが気になって……その、あなたさえよければ、エンフィールド家の家に戻って休みを取ってもいいのよ、って……」

「母のことは父に任せてあります。お気に掛けずとも結構です」


 やっとの思いで告げた好意を、ぴしゃり、と撥ね付けられて、アシュリンは言葉に詰まった。

 すると、クラウスは再びアシュリンに背を向けて、泥だらけの手に掴んだままの苗へと、視線を移してしまった。アシュリンはこのままでは、また、気まずいままで終わってしまいそうな対話をなんとかするべく、慌てて語を継ぐ。


「クラウス、それは何の苗?」

 

 すると、再び振り向いたクラウスの口の端には、かすかな笑いが浮かんでいた。しかしそれも、心から楽しそうなものではなく、なにか苦しげな薄い笑いであった。


「……これは、の薔薇の苗です」

「私の?」

「そうです。お嬢様がお生まれになった記念に父が作った薔薇、“アシュリン”の苗です」


 アシュリンは目を見張った。どこか皮肉を包んだ声音で話すクラウスが気にならないわけではなかったが、彼女の意識は己の名前を冠した薔薇の苗へと注がれた。


「これがそうなのね! 私、花が咲いている様子は毎年見ているけど、苗は初めて見たわ。でも、こんな暑い時期に植え付けて、大丈夫なの?」

「たしかに、夏は薔薇の植え付けに適した季節ではありません。でも、“アシュリン”は特別な薔薇なんです。他の薔薇とは違う、変わった性質をしています」

「そうなの……! 初めて知ったわ」


 アシュリンは暑さも忘れて、クラウスの説明に聞き入った。そして今更のように、クラウスの周りに転がる大小のスコップや如雨露などの園芸用具に気がつく。


「そういえば、魔術は使わないの? 庭師は初級魔術を応用した技をたくさん身につけているって、私、アカデミアで習ったけど」

「“アシュリン”はその点でも特別な薔薇です。その栽培には一切魔術を使用してはならないと、私は父から学んでいます。そうしないと、花付きが悪くなると」


 クラウスはアシュリンの問いに淡々と答える。

 その答えは、アシュリンの知的好奇心をくすぐるものばかりで、彼女はこのまま延々とクラウスから薔薇の話を聞いていたくなった。だが、クラウスの次の言葉は、そんなアシュリンの気持ちを、無残にもへし折るものだった。


「……もうよろしいですか? 私は、作業に戻りたいのですが」

「え? あの、でも、クラウス。ちょっと休憩でもしたらどう? なんだったら私、お茶の用意をさせるけど。私、あなたからもっと薔薇の話を聞きたいし……」

「私にあまり、関わらないで頂きたい!」


 突如クラウスの口から、激しい言葉が爆ぜて、アシュリンは、びくり、と身を固くした。日傘を持つ手が思わず震える。それは使用人としてはあまりに失礼な態度だったが、それ以上にアシュリンは彼がなぜ怒っているのかが理解できなくて、憤慨することも忘れてその場に佇んだ。

 

 蝉がどこかで激しく鳴いている。夏の日差しが揺らぐ。クラウスの額を伝う汗が、右頬の傷に沿って、つーっ、と流れる。そして、またもアシュリンから、その顔を背けるのが見える。

 

 結局、クラウスの焦茶色の瞳は、その日以降、アニタの葬儀に至るまで、アシュリンを捉えることはなかったのだ。

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