第2話 たわいない朝の会話

 支度をようやく済ませたアシュリンが階下に降りていけば、親しげに談笑する男女の声が聞こえてきた。しかし、それは食堂からではなく、その手前にある談話室から流れてきているようであった。なので、アシュリンは食堂に向いていた足を一旦戻し、談話室の前で立ち止まると、その扉を押し開けた。


 木の重厚な扉がぎぃっ、と音を立てれば、金とモスグリーンを基調とする、落ち着きと格調高さを兼ね備えた調度品が並ぶ室内が目に飛び込んでくる。そしてその部屋の中心に置かれた大きなソファーに向かい合って座っていたのは、赤銅色の髪を結い上げた紫色のドレス姿の婦人と、紺色の魔術師団の制服を身に纏った若い金髪の男性だ。


 若い男性は、会話を遮るように談話室に飛び込んできたアシュリンに気がつくと、肩までの金髪を揺らしながら彼女のほうに立ち上がって向き直り、やわらかく微笑んだ。


「おはよう、アシュリン。僕の愛しい薔薇。だけど今日はまだ、眠り足りないようだね。今朝の君は、花ひらく前の蕾といったところかな?」

「やだ、寝坊してきたからってからかわないでよ。おはよう、ライナルト」


 アシュリンは大切な婚約者に、朝一番の挨拶でからかわれ、思わず顔を赤らめる。すると傍らの婦人もソファーから立ち上がると、アシュリンをたしなめるように厳しい声で言葉を放った。


「なんですか、アシュリン。寝坊してきたあなたに非があるというのに、その言い草は。失礼ですよ」

「だって、お母様。ライナルトが私をからかうから」

「まあまあ、エンフィールド伯爵夫人。たしかに僕にも言い方ってものがありました。失礼だったのは僕も同様です」


 気まずい空気が流れそうになった母娘の間を取りなすように、ライナルトが朗らかに笑う。途端に場は以前の和やかさを取り戻して、アシュリンは自分の失態がこれ以上、話題に上りそうにないことに、密かに胸をなで下ろした。そして今更のように、その場に一家の当主である父の姿が見えないのに気づき、きょろきょろと辺りを見回した。


「ああ、閣下は、朝方に緊急の閣議が入って、王宮に参られているとのことだ」

「えっ。そうなの? お父様、いま王宮にいらっしゃるの? こんな朝から?」


 アシュリンはライナルトの言葉に驚いて、アメジスト色の瞳を瞬かした。ついで、思わず不平の言葉がその唇から漏れる。


「えーっ、せっかくライナルトが来てくれての朝食会だというのに? いくら評議会の議長だからっていって、忙しいのにも程があるわよ」

「こら、アシュリン」

「お母様、そう仰いましても、たしか二日前にも、夜半過ぎに王宮の特使とやらが馬車でやってきて、お父様をたたき起こしたばかりじゃない。あのときは私もびっくりして、目が覚めちゃったのよ」


 アシュリンはソファーに腰掛けながら、頬を膨らませた。マリアンによって丁寧に結い上げられた赤毛と、真珠色のドレスの裾が、ふわり、揺れる。すると、彼女を宥めるかの如く、すっ、と顔を近づけてきた者がいる。ライナルトだった。

 彼はアシュリンの瞳を真っ正面から見つめると、ゆっくりと口を開いた。

 

「オズワルド・エンフィールド閣下は、このフィルデルガー王国のために、一生懸命にお働きになっているんだよ」

「……ライナルト」


 アシュリンは婚約者のペリドット色の瞳が、いつになく真剣な色を帯びていることに気づき、思わず息をのんだ。そんな彼女に構わず、彼はその瞳にその色を躍らせたまま、語を継ぐ。


「フィルデルガー王国はたしかに先の内乱を乗り切った。その甲斐あって、いま、我が国は、国際的には落ち着きを取り戻している」


 部屋いっぱいに差し込んでいる朝のひかりが、その一瞬、雲にでも遮られたのか、すっ、と翳って、部屋に影を落す。同時に、それまで穏やかだったライナルトの眼差しにも鋭さが見て取れて、アシュリンは言葉を飲み込んだまま、なんとはなしにドレスの袖を、ぎゅっ、と握りしめた。


「しかし、だからといって、すべてにおいて盤石というわけではないのだよ、アシュリン」


 そう言って、ライナルトは、アシュリンが窺いきれない遠いどこかに思いを馳せるように、視線を再びひかりが満ちた窓の外に放った。


 ――先の内乱。

 

 アシュリンが暮らしているフィルデルガー王国では、五年前、諸侯の対立に端を発する、国を二分した戦乱が終結したばかりだった。四年の長きにわたった戦火は、国土を荒廃させ、民を等しく飢えさせた。

 その記憶はアシュリンにもまだ生々しい。もちろん、伯爵令嬢である彼女は、市井の庶民のように、住み慣れた我が家を追われ、地を這って食べ物を探すような日々を強いられたわけではない。しかし、アシュリンが在籍していたアカデミアの中等部でも、授業は中断され、生徒たちは戦火で家を失った人々への奉仕活動に駆り出される日々が長らく続いた。アシュリンよりも四歳年上で、高等部に属していたライナルトに至っては、戦地に動員され、兵士の後方支援に従事する役目を担わされた。


 幸い、アシュリンの父、オズワルド・エンフィールド伯爵を中心とする西方貴族連合に勝利の女神は微笑み、敵側の首領たちは処刑もしくは追放され、内乱は終結した。

 

 だが、エンフィールド家を真の嵐が襲ったのは、内乱の終結後だったのだ――。


 そう、そこまで過去の記憶を掘り起こしたとき、アシュリンは、ふと、今朝方、目が覚める直前まで見ていた夢を思い出したのだった。アシュリンは、沈黙の帳が落ちた談話室を再び賑やかな会話で満たそうと、母のヴェロニカに向き直り、できる限りの陽気さを込めて、語を継いだ。


「ねぇ、お母様。私、また、あの時の夢を見たのよ」

「あの時?」

「そうよ、、私を炎から助け出してくれた人の夢よ」


 するとヴェロニカは、はぁ、と大きな息を吐き、アシュリンを諭すように険しい口調で言う。


「何回言って聞かせれば分かるの。あれはただの夢だって、お父様、それにお医者様も仰っていたでしょう」

「分かっているわよ。吸い込んだ煙の毒が頭に回って見せた幻覚だっていうんでしょ? でも、いまも、何度も夢に出てくるのよ、あの人。それもすごく生々しいの。こう、抱きかかえられた手の節の凹凸さえ、はっきりと思い描けるくらいに」

「アシュリン、夢とはいえ、そんなことを婚約者たる殿方の前で話すものではありませんよ」


 熱い憧憬を瞳に滲ませて、夢に現われた恩人の話をする娘に、ヴェロニカは形の良い赤銅色の眉をこれ見よがしに顰めてみせる。だが、それを見たライナルトは、ははは、と大きく口を開けて笑った。


「そのくらい構いませんよ、伯爵夫人。僕は婚約者の夢のなかの男に嫉妬するほど、心は狭くありませんから」

「お心が広くて助かりますわ、ライナルト・クルーゲ少尉。すみませんねえ、まったくうちの娘ったら」


 自分を無視して、笑みを交わし合う母と婚約者の様子を見て、アシュリンは、ついむっ、として口を開きかけた。

 だが、その言葉は空で霧散した。そのとき、談話室の扉がノックされ、ついでエンフィールド家の女中頭であるアンジェリカが現われて、こう告げたからである。


「奥方様、朝食の準備が出来ております。……旦那様のお帰りをお待ち申し上げますか?」

「あらアンジェリカ、ありがとう。いいえ、先に頂くことにするわ。クルーゲ少尉もいらしていることですし」


 そして、ヴェロニカは優雅な所作で立ち上がりながら、アシュリンとライナルトにこう語りかけた。


「さあ、お喋りはこのくらいにしないと、昼になってしまうわ。朝食にいたしましょう」

「はーい。あーあ、お父様、まだ王宮にいらっしゃるのね。せっかくライナルトが来ているのに、ざーんねん」

「それは構わないって言ってるだろ、アシュリン」

 

 三人は談話室をあとにして、食堂へと歩き始めた。ぼやくアシュリンの手を、そっと、さりげなくライナルトが掴む。アシュリンはどきり、とした。その婚約者の仕草が意外だったからでは、ない。彼の指先から迸る熱に、夢のなかで己の身を抱き上げた男の掌を思いだしてしまったからである。

 

 ――いけない、いけない。私ったら、なんてことを。たかが夢のなかの人に。


 アシュリンは慌てて軽く頭を振った。そんな彼女を、ペリドット色の瞳が訝しげに包み込む。


「どうしたんだい、アシュリン」

「いいえ、なんでもないの」


 アシュリンはライナルトの肩にもたれかかり、微笑んだ。年が明ければこの人の妻となるのだ、という事実が彼女を優しくも落ち着かない気持ちにさせる。気ままな娘時代はもうすぐ、終わってしまうのだ。


 だけど、そうすればもう、不思議な男の夢を繰り返し見ることもなくなるだろう。


 それでいいのだ、とアシュリンは思った。そうでもしなければ、夢を見る毎に高まってしまう胸のときめきを、堪えることが出来なくなってしまいそうだから。

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