第3話 早まる婚姻
オズワルド・エンフィールド伯爵が自邸に帰ってきたのは、その日の昼近い時刻であった。当然、朝食会はとうに終わっており、ライナルトは軍務があるからと、屋敷を辞した後である。気難しい顔をして屋敷に帰ってきた夫を、ヴェロニカはいつものように淡々と出迎えた。
「お帰りなさいまし。早朝からのお務め、ご苦労様でございました」
「うむ。ライナルトには悪いことをしたな。彼はどんな様子だった?」
「特にあなたさまに申し伝えるようなことは、ございませんでしたわ」
ヴェロニカは、名で呼びかけるほどに、将来の義理の息子に親しみを露わにした夫に素っ気なく応じる。そんな妻の様子を見て、オズワルドはちいさく嘆息した。いつものこととはいえ、妻とのやりとりには、己の精神に気苦労が滲む。それは妻とて同じことだろうが。そう思いながらオズワルドは、窓の外に広がる庭園を眺める。そういえば、ここのところ仕事に多忙を極めていて、庭のなかをゆっくり散策することも叶っていないことにオズワルドは思い当たる。
「ヴェロニカ、天気も良いようだし、今日の午後はひさびさに庭へ出ないか? 池の睡蓮もそろそろ花ひらくだろうし、アガパンサスも見頃を迎える時分だろう」
できる限りの柔らかさをその口調に込めて、オズワルドは妻に誘いを掛ける。だが、ヴェロニカは丁寧に結い上げられた赤銅色の頭をオズワルドのほうに傾けることもせずに、冷たい口調で応じた。
「庭を愛でたいなら、おひとりでいってらっしゃいまし。私は気分が優れませんゆえ」
「……そうだったな。お前が庭で興味を持つ事柄といえば、セオドアのことぐらいだ」
ヴェロニカの肩が、びくり、と震えた。夫から唐突な奇襲攻撃を投げつけられて、アシュリンと同じアメジスト色の瞳が僅かに色を成す。オズワルドはそんな妻の顔を皮肉めいた顔つきでしばらく眺めていたが、それに飽きると、白髪交じりの栗色の髪を撫でつけつつ、かねてからの懸案事項である娘の結婚について会話の舵を切った。
「アシュリンとライナルトの婚姻についてだが、時期を来年から今年の秋に早めようと思う」
「……急になんです?」
「時局がきな臭さを増してきている。最悪、ライナルトが出征する可能性も考えなければなるまい」
夫の言葉が示唆するものを察知して、ヴェロニカは思わずオズワルドの顔を見た。その日はじめて、夫婦の視線が絡み合う。
「また、戦乱が起こりますの……?」
「それは、まだ分からん。ただ、最悪の事態を見越して行動するにこしたことはないからな。……いま、俺がここで言えるのはこのくらいに過ぎぬ」
沈痛さを秘めた夫の表情を見るに及び、ヴェロニカは悟った。なるほど、ここ数日の夫の動きの慌ただしさは、こういうことであったか。道理で顔色も冴えないはずだ、と。だが、次に彼女の口から漏れたのは、夫を労る言葉ではなく、まったくべつのことであった。
「それでセオドアの息子を、急遽、修業先から呼び戻させたわけですわね。合点がいきましたわ」
「そういうことだ。すでに、彼の庭師としての腕は申し分ないとセオドアも太鼓判を押しているからな」
オズワルドが頷きながら、呼び鈴の紐に手を伸ばす。軽やかな音で鳴った鈴の振動も収まらぬうちに、扉が控えめに叩かれる。夫妻の前に姿を現わしたのは、執事のカルスであった。
「旦那様、お呼びでございますか」
「ああ、セオドアの息子を呼んできて欲しい。名前は……何と言ったか」
「クラウスでございますな」
「そうだ、クラウス・ダウリングだ。彼を呼べ。……それと、アシュリンもだ」
「承知致しました」
恭しく礼をして、カルスが部屋から出て行く。その後、再び夫婦ふたりきりのみになった部屋に、新たな会話は生まれなかった。
帰宅したばかりらしい父に呼ばれて、広間に姿を現わしたアシュリンは面食わずにはいられなかった。唐突に父の口から出た、ライナルトとの婚姻の時期を早めるようにとの言に彼女は驚き、数秒ほどの間、あんぐりと口を開けて目の前に並ぶ両親の姿を見た。
「クルーゲ伯爵家にはすでにお伝えしてある」
「えっ、でも、結婚は年明けとばかり思っていたから、私……その……」
「なんだ、何か問題があるのか? アシュリン」
「いえ、その……心の準備が」
そう言いながらアシュリンは父の顔に目を走らせる。そこには、毅然とした態度の父がいた。アシュリンは肩を落した。いつもは優しく甘い父であるが、こういう表情をしているときの父は、頑として自らの意向を譲ることはない。そのことをアシュリンはよく知っていた。
――もうちょっと、後悔のないように遊んでいたかった、なんて、声に出せる雰囲気じゃないわよね。
僅かに肩をすくめながらアシュリンは思う。ライナルトとの結婚に異議があるわけではない。むしろ、アカデミアの先輩と後輩という仲でお互いを思い合っていたライナルトとの婚姻は、アシュリンには願っても無い縁談である。
貴族同士の結婚ともなれば、政略結婚がいまだ主流であるこのフィルデルガー王国において、自由恋愛に極めて近いかたちでの婚姻は、珍しい部類にあたる。アシュリンはそのことで政略結婚を強いられる級友の子女たちから、数えきれぬほどの賛辞とやっかみを浴びたものだ。「流石、貴族院の評議会議長たるエンフィールド伯爵は違う、考えが新しくあられるわ」と。
だからアシュリンは自らの恵まれた立場に感謝こそすれ、拒絶などはなから考えてはいないのだが。だが、そうであっても、結婚が現実味を帯びてくるにつれ、気楽な娘時代がもう少し長ければいい、などの考えが頭をもたげてきていた最近ではあったのだ。
アシュリンはいまだ十八才。アカデミアの高等部を今年卒業したばかりである。
級友をはじめとする女友達とはまだお茶会やお泊まり会を楽しんだり、王都で流行っている占いや美味しいタルトのことに話の花を咲かせていたい年頃だった。
ライナルトと結婚してクルーゲ伯爵夫人の座に納まってしまえば、おそらくもう、そんなことは叶わないだろう。アシュリンはなぜ、父がライナルトとの婚姻を早めるように命じたかを考える余裕もなく、その心には影が差した。
だが、アシュリンは、去りゆく娘時代への郷愁にのんびりと浸ってもいられなかった。そのとき、ドアがノックされ、執事のカルスが部屋に入ってきたからだ。いや、入ってきたのはカルスだけではなかった。カルスは広間の壮麗さとは釣り合いの取れない、質素な格好をした、長身の男性を伴っていた。そして、男は広間に入るや否や、オズワルドの前に跪く。
短い黒髪に焦茶色の瞳の、その男の右の頬には浅黒い傷が這っており――。
「あーっ! あなた……! 今朝の!」
アシュリンは思わず素っ頓狂な声を漏らした。それは、今朝、自室の窓から寝間着姿で羽を伸ばしていた自分を、まじまじと凝視していた庭師に他ならなかった。一方、彼のほうは、アシュリンの顔を見ても何の感情も感じさせない表情をしている。その瞳は
「なんだ、もう顔見知りだったのか?」
娘の声に目を見張って、オズワルドが怪訝な顔をする。すると、落ち着きはらった低い声が部屋に響いた。
「いえ、今日の朝、庭を手入れしていたところ、ちらと、お目に掛かったことがあるだけです。旦那様」
声の主は、あの庭師だった。アシュリンが慌ててその端整な顔立ちに視線を投げれば、彼の表情は変わらず冷静そのものだった。その言葉を聞いて、オズワルドがどこか安堵したかのようにアシュリンに声を掛けた。
「そうだったのか。なら話が早いな。アシュリン、彼の名はクラウス・ダウリング。うちに長年仕官している庭師のセオドアの息子だ。歳はお前より九つ年上の二十七才だ。……ああそうだな、お前の遊び相手だったレイラの兄でもある」
「レイラ……! わぁ、懐かしい!」
アシュリンは突如父の口から漏れた、今は亡きかつての友の名を聞いて、再び声を上げた。一方、クラウスと紹介された男は跪いたまま、眉ひとつ動かずじっとしている。
「そうだ、アシュリン、お前には懐かしいだろうな。……それで、彼は、いまや、ほうぼうに修行に出て腕を磨いてきた有能な庭師でな。このたび、お前の結婚に際して我が家に呼び戻したというわけだ」
「え? 私の結婚に合わせて?」
オズワルドの言葉に、アシュリンはきょとん、とした。彼の素性はよく分かったが、それが自分の婚姻と何の関係があるのであろうか。すると父は、そんな娘の心を見透かしたかのように、こうアシュリンに重々しく告げた。
「アシュリン、私はクラウスにお前の新居の専属庭師となることを命じた。彼でなければ、あの
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