第一章 それは最後の穏やかな日々

第1話 見知らぬ庭師

「……アシュリン様、アシュリンお嬢様! いい加減にお目覚めになって下さい!」


 アシュリンは、耳もとで響きわたった大声に驚き、アメジスト色の瞳を、ぱちくり、と見開いた。目に飛び込んできた風景は、あの深夜の燃える庭園などではない。そこは、心地よい朝のひかりに包まれた、自室であった。豪奢な装飾が施された高い天井が瞳に映る。どこよりも見慣れたその光景が、アシュリンの意識を微睡みのなかから覚醒させる。


「まったくもう、いつまでお眠りになれば気が済むんです? お天道様はもうあんなに高く空に輝いておりますよ?」

「……ふぁーぁ。そう耳もとで大声で怒鳴らなくとも、もう目は覚めたわよ、マリアン」

 

 頬に触れるふかふかとした羽布団の感触を、名残惜しそうに味わいながら、アシュリンは女中のマリアンを見上げた。そしてマリアンの小言がこれ以上増えないうちにと、癖のある腰までの赤毛を、ふわり、と揺らしながら、勢いよく身を起こす。途端に眩しい陽のひかりがその目を刺し、思わずアシュリンは窓の外に視線を投げた。


 窓からは、エンフィールド家の誇る広大な庭園が一望できる。夏を迎えた庭園の緑はいよいよ冴え渡り、そのあちこちには何の花だろうか、鮮やかな色彩が点々と色づいている。アシュリンは寝間着のまま寝台から滑り降りると、窓際に駆け寄り、その光景をより深く目に留めるべくガラス窓に頬を押しつけた。


「何ですか、お嬢様。素足のままじゃないですか! それもそんな格好で窓にべったり張り付くなんて、外から丸見えですよ!」

「いいじゃない、こんなに陽のひかりが心地よい朝なんだもん。それに、こんな時間から庭に出てる者なんていないわよ」


 そう言うや、アシュリンは背後から小言をまくしたてるマリアンに構わず、ガラス窓を外に開け放った。ざわっ、と夏の匂いを纏った風が部屋に流れ込み、アシュリンは両手を伸ばし思いっきり深呼吸を繰り返す。爽やかな庭木の匂いが全身に広がり、アシュリンは思わず満足の吐息を漏らした。

 そこには彼女の世界の全てがあった。手入れの行き届いた庭園の緑、色めく花の芳香、それを包む眩しい陽光。それらを全身に思いきり感じ取って始まる、今日という日。それは彼女にとって、生きるに値する、歓びに満ちた日々のひとかけらであり、永遠とわに続くと信じてやまぬ日常であった。


「よいしょ!」


 アシュリンは、レースのフリルが窓枠に引っかからないように気を配りながら、身を開け放った窓から外に乗り出した。いつも肌身離さず胸から下げている、乳白色の魔晶石が揺れる。同時に、心地よい風がアシュリンの頬を掠めていく。しばらくアシュリンは、そのままの姿勢で朝の風との戯れを楽しんでいた。


 だが、数十秒後の後、彼女は頬に触れるものが、空気の流れだけで無いことに、ふと気付いた。それは微かな違和感に過ぎなかったが、アシュリンはその正体が、何者からの視線であることを知るに及び、慌てて周りを見渡した。アシュリンの赤い髪があわただしく揺れる。


 数瞬後、彼女の瞳にその視線の主が映り込んだ。それは、アシュリンの部屋の真下に植えられたハナミズキの木の幹に、梯子を立てかけて剪定を行っているひとりの若い庭師だった。


 端整な顔立ちに短い黒髪、そして、右頬には何らかの怪我の痕だろうか、浅黒い傷跡が走っている。その男が焦茶色の瞳で、じっ、と自分の様子を窺っているのがアシュリンの視界に入る。


「なっ……!」


 アシュリンは顔を真っ赤にして、乗り出していた身体を部屋の中に引っ込めた。歳は二十代半ばといったところだろうか。エンフィールド家では見たことの無い庭師だった。しかし、急いで身体を移動させたものだから、寝間着の袖のフリルが窓枠に引っかかってしまったではないか。アシュリンは窓際で、焦りながらじたばたと腕を曲げたり引いたりする羽目になる。

 

 ところが、その間も、アシュリンの頬を刺す視線は消える気配がないのだ。アシュリンは、さらに数秒のすったもんだの後、なんとかフリルを窓枠から引き離すことに成功する。そしてもう一度、こちらに無遠慮な視線を投げかけている見知らぬ庭師に向き直ると、抗議の声を上げた。


「そ……、そんなにじっと、見ていないでよ! 失礼でしょ!」


 だが、若い庭師はとくに言い返すこともなく、アシュリンのほうに変わらず視線を放っている。それが生来勝ち気なアシュリンにはときて、再度、無礼な若者に声を上げようと彼の顔を見つめた。が、途端、アシュリンの唇は固く閉じた。

 というのも、若い庭師の焦茶色の瞳に、何者をも拒絶するような冷たい色が躍っていることに気がついたからだ。アシュリンは声もなく、庭師の険しい顔を見つめる。


 だが、次の瞬間、アシュリンの腕は強く引かれ、部屋の中へと完全に引きずり戻された。見れば、マリアンの太い腕がアシュリンのフリルにくるまれた細い腕を掴んでいた。ついで、バタンと大きな音を立て、アシュリンの目前にて窓が閉められる。


「ほら、だから言わんこっちゃないでしょうが、お嬢様」


 マリアンはそう言いながらアシュリンの前に回り込むと、部屋のカーテンをも、ぴしゃり、と閉じてみせた。陽が翳った部屋のなか、苦々しい顔つきのマリアンにアシュリンは思わず、尋ねる。


「ねえ。マリアン。あの無礼な庭師は、誰?」

「さあ、誰でしょうね。旦那様から私には、何も知らされておりません。新しい庭師が来るなど」

「そうは言っても、こんな朝早くから屋敷にあんな近い木を手入れしているなんて、エンフィールド家に仕官している庭師以外には、いないと思うんだけど」

「知らないものは知らないとしか、答えようがございません、お嬢様。そんなに気になるなら、旦那様に直接伺えば良いじゃあないですか」

「お父様に……、そうね………あっ!」


 そうマリアンに言われてアシュリンは、慌てて部屋の暖炉の上に置かれた置き時計を見た。見れば、時計の針はすでに八時を回っており、朝食の時間まであと半時を切っている。


「ああーっ! もうこんな時間! お父様に怒られちゃう!」

「そうですよ。それに今日の朝食には、ライナルト様もお見えになるんじゃないですか?」

「そうだわ! 私ったら、まだこんな格好!」


 アシュリンは慌てて、勢いよく寝間着を脱ぎ捨てた。そして、ばたばたと派手な足音を立てて、マリアンがすでに鏡の前に用意していた衣装を手に取り、身に纏い始める。


「やだ、やだー! 今度は髪がコルセットに挟まっちゃった! なんとかして、マリアン!」

「はいはい、分かりましたよ。それくらい、普通でしたら初級魔術でなんとかなる部類のことですがね。それはともかく、そんなに大声を出すと、下まで響きますよ。こんな有り様、未来の旦那様に筒抜けでいいんですか?」

「えー!? ライナルト、もう来ているの!?」

「ご到着済ですとも」

「それを早く言ってよ! マリアン! ライナルトったら、なんでそんなに早起きなのー!?」


 真珠色のエンパイア・ドレスに袖を通しながらアシュリンは悲鳴を上げる。長く赤い髪はいまだ寝乱れたままで、その姿を見たマリアンは櫛を手にしながら、思わず苦笑した。


 ――まったく、うちのお転婆お嬢さまときたら、これでご婚約されているとは。どんな奥方になることやら。


「もー、なに笑ってるの、マリアン、髪を結ってよ!」

「はいはい」


 マリアンは苦笑いを崩さないまま、アシュリンに近づくと、その髪を手に取った。アシュリンはさっきまでの威勢はどこへやら、半ばむくれて泣き出しそうな顔をしている。


 ――やれやれ、この調子なら、あの庭師のことなど、忘れてくれるかねえ。

 

 そんなマリアンの心の内など知らぬアシュリンは、椅子に腰掛け、今は大人しく髪を梳かれるままになっている。そのいまだあどげない顔が、マリアンには愛しかった。そして、できることなら、このまま何も知らず、永遠の少女のように生きて欲しいと願わずにはいられない。

 アシュリンの部屋の下のハナミズキの枝が、ぱちり、ぱちりと切られては地面に落ちる音が微かに聞こえる。


 マリアンは軽く頭を振って、その音から意識を逃し、アシュリンの赤い髪を結うことに集中した。

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