第6話 呪縛の章
【無事に】
国立を突破し、新しい世界を満喫している文月は、集落から一歩出ると常に注目の的である。それは、うぶすな神が備えている貴賓のある仕草だ。
決して誰にも真似は出来ないだろう。日向にとっては、それがなによりも助かる。周囲の反応でどこにいるのかわかった。
しかし、日向が安心できていたのは、通い始めて数週間だった。文月がうぶすな神というお荷物を、簡単に投げ捨て、驚異のスピードで周囲に馴染んだ。
やっと、見つけた文月が、大学のキャンパスで絵画のように木にもたれて、本を読んでいる。他の人なら自然に振り向かせる事は出来るが、文月には通じない。
気を抜くと、あっという間に姿を消す。日向にとって、イラっとくる瞬間だ。そして、これは、難解な事だと初めて気が付いたが、すでに遅く。日々、大勢の中で文月をうまく探せずに、悪戦苦闘をしていた。
毎日、帰って来ては「慣れない…」と 深くため息をついている。
【そんな日向を見て】
琴絵ママンと滴が思惟で話し始めた。
『あの子の事を随分と悩んでいたみたいだったけど、今は楽しそうね』
『ママン、日向ったら、生まれて初めて、あんなに必死になっているんじゃないの』と滴が笑った。
そこへ、日向が割り込んで来た。
『おい』
『ちょっと割り込んで来るのか!そんな芸当いつから!』
滴と琴絵ママンが驚いていると
『さあ?今から?』日向はとぼけた。
『私たちのチャンネルに突然に入り込むなんて…。ほんとうにあんたは計り知れない』
滴はそんな日向に納得できないようだ。
『ネットワークと自分だけのチャンネルと行き来が出来るようになった。という事?なんで、あんただけできるのよ!』
『知るか、姉ちゃんもやってみれば?』
『どうやるのよ?』
『知らないけど、出来た』
『あんたの事だから、知っていても教えないのよね』
『そこまで意地悪じゃないよ』
『お祖母ちゃん、ママン、どうやるの?』
『さあ?』
お祖母ちゃんは不思議そうだ。
『ひょっとして、お祖母ちゃん、その記憶はないの?』
『ない…。かな』
考え思い出そうとしているが、やはりないようだ。
『ひとつ、考えられるのは、日向が繕い師という事だわね』
『どういうこと?繕い師は私たち感取放の使い手とは違うの?』
『うん、そうみたい』
『戸和からの記憶にそうあるの?』
『戸和は出来るかもしれないけれど、思惟の会話を遮断したり、割り込んだりする相手がいなかったし、歴代の繕い師は長生き出来ていないから…』
お祖母ちゃんの答えに、滴が慌てて
『ああ、そうね。そうよね。日向今の時代に生まれて良かったね。きっと長生きできるわ!歴代の繕い師は結婚どころか恋愛したりすることもなく死んでいるから。あんたは初めてなのよ』
『姉ちゃんらしくないな、はっきり言えよ。負けて悔しいって!』
『日向!』
繕い師が長生き出来ない事は、一族の秘密ではない。むしろそれを踏まえて必死になって守って来たのだ。日向はすべて承知で滴をからかった。
それでも、話題を変えたかった琴絵ママンが、深くため息をついてから
『ねえ、日向は最近は、体調がいいんじゃないの?感取で過敏になって、地下室にこもる事もなくなって、車も運転しているし』
琴絵ママンが日向にたずねると日向は初めて気が付いたように
『えっ』驚きの声を上げた。
『どうして?』
『そういえば、そうだな。文月のせいで緊張しながら、大学に通っているはずなのに、あまり疲れを感じないな。敏感と鈍感が一緒になってプラスマイナスゼロになっているかも、すべてに安定しているのは確かだ』
『文月さんが鈍感?と言っちゃう訳?ほんとにもう、少し言葉を選びなさい。とにかく、今後の事もあるからなにがそうさせているか、確認した方がいいと思うわよ』
『そうだな』
日向はあまり気にしていないようにテキトーに答えた。
【文月はルームミラーに写る日向の顔を見つめていた】
日向は探しても見つからないが、突然、予想もしないところから、物凄いタイミングで現れる。
今日も、大学に迎えに来てない武人と胡桃から「今日は一緒に帰れない」と連絡があったばかりだ。
話が違うと抗議をしたものの元気のよい胡桃の声で、文月の声は切断され電話は切れた。
『うんざりする』
車で一般道路二時間、高速を使えば一時間半の距離が電車とバスを乗り継ぎ四時間はかかる。おじい様にどうやって言い訳をしようか考え込みながら駅へと向かった。
日向は携帯を持っていないので連絡が出来ないのに、駅に着くとロータリー横の街路樹に寄り掛かっている。
文月を見つけると、まるで待ち合わせをしていたかのように「帰ろう」と後部座席のドアを開けた。日向はいつも文月を後部座席に座らせる。
文月もまた、車に乗り込むと当たり前のようにルームミラーで日向が見える位置に座る。
【日向は】
必ず高速道路にのってパーキングエリアで三十分ほど、時間調整をする。時々ルームミラー越しに目線が合う。それが嬉しいと感じる。文月はぼんやり考える。
『たとえば、この人への気持ちはどうなのか?日向が死んだ時、私はどうするだろう?きっと、私は死んだ裸体の日向を抱きしめたまま、裸体の自分も一緒に土葬にしてもらう。肉が腐り溶けて重なり合った互いの肉片や骨が混ざりあったまま、一緒にバクテリアの餌となり森の一部となりたい』
不気味でエグイ想像が自分でも可笑しいが文月は気に入っている。
『日向が戸和の子孫だったらいいな。沼田は論外だけど、武人との子供を作るだけの呪縛から逃れられる』
単純に思う。
ルームミラーから日向がこちらの方をみて聞いて来た。
「なにを考えているの?」
ルームミラーの日向から目線を外し、田園が広がる窓の外を見ながら、
『もし、戸和の子孫が現れたら、私は日向よりもその子孫を選ぶのかな?私は戸和の子孫にも、日向と同じような気持ちになるのかな?それとも、愛しているとか好きとか感じるのかな?それとも武人のように不愉快の塊が歩いているみたいに思うのかな?』
「ねえ、日向、運命って信じる?」と日向に聞いた。
「運命?さあ、どうかな?」
ルームミラー越しに日向の優しい視線が文月に届く。
「文月は運命を信じているの?」
「信じたくない。自分の置かれた環境や人生が運命という言葉で決めつけられるのは、とても嫌だけど、人との出会いに運命とかあるのかな?」
「そうだな、運命的な出会いの定義がわからないけど、周波数があう。チャンネルがあう。って事はあるな」
「どういうこと?」
「求める心が送信で、受け入れる心が受信だとすると、周波数が合わないと、どんなに頑張っても通信が成立しない。好きという気持ちで求める心があっても受け入れられなければ、一方通行でしょ。片思い。周波数が合えば心が行き交うので両想いになるけど、それを運命と呼ぶ人はいるかもね??」
「わかったような、わからないような」
人の気持ちを感じたり、相手に感覚的に伝えたりすることが出来ない文月にとって、この手の話はもともと不得意分野のはずである。
最近の日向は、テレビなどの無線通信回線構成に当てはめて説明をすることが多くなった。目に見えないもの感覚にないものを、視覚化しないと、文月には理解できないのだ。
【何を考えているのかな?】
日向はルームミラー越しに、一生懸命に理解しようと考えている文月を見ると、愛おしさが溢れて来る。
『少しずつでいいよ』そう思う、しばらく考えていた文月が、深刻な口調で
「日向?」
「うん?」
「周波数が合わない人同志って時間をかければ、周波数が合うの?」
「えっ?さあ?どうかな?」
「訓練すればどうにかなるの?」
いつも、文月の質問には驚かされる。感取放がわずかでもある人は、きっと周波数が合うという意味合いが感覚的に理解できるはずだ。
しかし、文月はその感覚がないはずだから、当然と言えば当然だが、
「アンテナやフィルターが壊れれば、可能かもしれないな」
「アンテナ?フィルター?」
「不可能ではないと思うけど、難しいな。アンテナやフィルターが壊れてすべての周波数が送受信出来れば可能かもしれないけど、それって何億万台ものラジオやテレビ、オーディオ機器を一度に聞くのと同じだから、耐えられないだろ。壊れたら修復が大変だよ」
「アンテナやフィルターの種類や精度を変えるとかは?」
「そうだな、各自についているアンテナやフィルターの精度は変えられないと思う。今の世の中は、そのたぐいの研究はされていないのじゃないかな?それに周波数が合わないとノイズが発生するだろ?ノイズの多い人同志が無理矢理合わすことはできないから、ノイズが多い状態での関係を作っていくしかないな」
「そうか、ノイズって鬱陶しいだけだもの、ノイズが発生したらスイッチを切りたくなる。ということは、人同士も自然と距離をおきたくなるの?」
「そうだね。両想いにならない人同士が、両想いを望んでも、両想いの望みはかなわない。つまり相手が他の人と両想いになったのを見て、自分もその人と同じようになりたいと願ってもトラブルが起きるだけ。無理を押し通そうとするときの人間って、加減が出来ないからね。誰も許してくれない罪を重ねて、自分の手で自分の人生をドブに捨てる事になる。親密圏、いわゆる家族や友人、周囲の人達は、その人に与えられた試練だ。ほとんどの人は、無意識に周波数の合う人を選んでいるでしょ。試練は楽な方がいいからね」
「ふーん、両想いになる人は一人だけ?」
「お?両想いか?そうだな。人が皆まったく同じという事はありえないから、周波数の幅が広い人は、当然周波数が合う人が多いけど、幅の狭い人は、必然と数的には少ないよね」
「なるほど」
「周波数が同じ人と、何人も同時に出会えば、それは、居心地がいいかもしれないな。だけど、すべての人を好きになるとは限らないし、好きになっても、ひとりだけを選ぶ場合もあるしな。正解はないよ」
パーキングエリアで車を止めた。
ゴールデンウィーク中に、多くの人出があった観光地だが、このところ空は湿気を帯び、人影も少ない。二人とも外に出てベンチに座った。
日向はいつものように文月の顔が見えるように真向かいに座った。なにかあったら怖いから横にも並べない。いつも手の届かない距離をキープしている。
【座ったとたんに】
真正面から文月が日向の顔を直視しながら聞いてきた。
「じゃあ結婚は?」
「?入籍する事?」
「うん、十八歳で結婚できるようになったよね」
「そうだね。アンテナや周波数の話とは違うの?」
「違うのかな?一緒なのかな?わからない。結婚ってどういうもの?私は、父はいないし、おかあ様は行方不明だし、考え方がわからない。そう言う話をしてくれる人がいない」
「そうか…。うちは…。周波数はあっているかも。だけどそれだけでは解決できない問題もあるな。父さんは一番偉いよ。全部筒抜けなのを知っていて、なにも隠そうとしない。そんな父さんをママン達は理解して優しいな。それは周波数があっているからじゃなくて、役割みたいな気持ちもある」
「役割?」
「父さんは家族や一族を養うとか、支えになるとか見守るとかそんな役割、母さんはそんな父さんや僕らを実質的にサポートして、この時代に適応できるようにする役割。それらを完全に分担して、それぞれが役割を大事にしている感じかな?」
「役割か…。この時代とか表現がオーバーだけど、家族を支えるお父さんとお母さんが羨ましい、憧れる」
「そうだね。僕が結婚できるとしたら父さんみたいな人を探さないとな。簡単じゃない問題があるから余計かもね」
「お母さんみたいな人じゃなくて?」
「ああ、うちには母さんみたいな人はたくさんいるから、父さんみたいな人が貴重だ」
「ふーん」
「お母さんってどんな人?」
「君も知っている通りの人だよ、それにあえて、ひとつ加えるなら何でも知っている人かな」
「何でも知っている?偉い人?」
「そうじゃないけど、相談があるなら母さんがいいよ、的確に回答してくれる」
「日向はお母さんの事を信頼しているのだね。私とは大違い、おじい様もおかあ様も信用出来ない」
『うちは信頼しているというよりは…まあ、いつかはわかるかな。黙り込んだ文月はさっきから何を考えているだろう?』
日向は文月の質問に正直に答えながら、文月の複雑そうな身の上を聞こうかどうか迷った。
「文月のおじい様やおかあさんの事を聴いてもいいか?」
文月は黙って首を振った。
「それは悔しい話か、怖い話か、恋しい話なのか、いつか気が向いたら僕にも教えてくれよ。もう出発しよう」
そう日向はさらっと流し、返事を待たずに席を立った。
【文月は立ち上がりながら】
「そろそろ、金銀花を採りに行かないといけないの」
日向の後ろ姿に話しかけた。振り向いた日向は嬉しそうに
「スイカズラの花のつぼみを日に干したものが、生薬の金銀花だろ?」
「そう、漢方では浄血、利尿などの目的で配剤される。民間では煎じて風邪の解熱、むくみとり関節痛などに利用される。金銀花酒は疲労回復、解熱、腎炎、かぜ予防、食欲増進…」
文月は日向の顔を見上げ
「日向、ありがとう。先祖代々受け継いで来た知識が役に立っている。この大学にはいれて良かった」
「おい、文月の努力だろ?俺は何もしてないさ」
やさしく笑った。
「お酒は夏ごろにできるから御馳走するわね」
「そうか、明日はお天気も良さそうだから霊の刻に湖畔で待ち合わせしようか?俺も手伝うわ!」
日向の言葉に、嬉しさがこみ上げる文月だが、いつまで日向と過ごせるのか…。そう思うと唇を強くかみしめた。
【国立大学の入学金と前半期の学費を納めて】
貯金が空っぽになった文月は、温泉施設のアルバイトを再開していた。来月、誕生日を迎え十九歳になる文月に残された時間はあと一年だ。
二十歳になれば大学に通わせてもらえない、おじい様は薬科大学の入学金と一年間の学費と交通費は出してくれたが、それ以上は期待できない。
それでも国立の二年分の授業料になる。四年間通うには、後一年半分がまだ足りない。
朝のバイトのほかに胡桃に頼んで、出来る時は緊急補充要員をして資金を貯めている。正直、日向が送り迎えしてくれて交通費が助かり学費が工面できても、頑張って勉強をしたとしても、文月の根本的な呪縛は解消されていない。
タイムリミットが後一年という事も変わりない。悲壮感は拭えない。ここから先をどうやればいいのかわからない。
『戸和の一族が見つからないかな~。ここから逃げ出そうか、おかあ様みたいに行方不明になるか?』
しかし、一年前まではあんなに監視が厳しかったが、今は監視されている事も忘れる事がある。このまま、おじい様も集落の住人も、うぶすな神の記憶がなくなればいいのに、切実に思う。
文月は、大学から帰ると温泉施設へ向かった。到着すると、急なスタッフの休みに温泉施設の受付の代打に入った。
七月の海の日を過ぎたあたりから、また観光客が増えて来るが、六月から七月中旬にかけた梅雨の時期は温泉施設も落ち着いている。
【いらっしゃいませ】
今日は文月が休みだと思ってきた琴絵ママンは少し驚いた。最近は、日向と文月が頻繁に会っているので、文月と出来るだけ会わないように時間をずらしたりしていた。
「あら、文月さん、こんにちはお久しぶり」
文月は緊張した。あんなに和らいだ印象で、自分の母より親しみを感じたのに、最近、日向とかなりの頻度で会っているせいか、今までとはちょっと違う感情が芽生えたみたいだ。
「琴絵さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ、文月さんはお元気?」
緊張している文月に対して、なにも変わらず、満面の笑顔で挨拶してくる琴絵ママンに、日向が今日「相談があるなら母さんがいいよ」と、言っていた言葉を思い出した。
「琴絵さん、記憶は無くなるの?」唐突に聞いた。
「記憶?忘れたい事でもあるの?」
「無くてもいい記憶を消すことが出来たら、人生を生きやすくなるような気がして」
琴絵ママンは笑いながら
「そうね、わかりやすく言うと、記憶はクッキーに似ているかもしれないわね。クッキーを作った事はある?クッキーの生地自体は変わらないのに、バニラやココア、ナッツとトッピングや他のものをプラスする事によって味や食感が変わって来る。それと同じで、記憶に思惟、つまり思考が混ざると、記憶自体は消える事はないけれど、本人の都合よく変化させる可能性があるのね」
「それは、どうやれば変化するのですか?」
「うん?そうね。多分、文月さんには難しいかも知れない」
「私には難しいと言う事は、出来る人がいるって事ですか?」
「まあ、さあ、どうかしら?どうして?」
「いえ、ちょっと思い付きで、何か出来ないか考えてみます」
文月がなにか事情を抱えているのは、周囲からの感取で理解しているが、情報収集して、問題を自分でなんとか、切り開こうとしている姿勢はすごいと琴絵ママンは感心した。
【文月の帰り際に】
沼田が温泉出口にいた。それを無視してひとりで集落との送迎バスに乗った。最近は
「文月ちゃん、バイトは終わった?」
その送迎バスに、追いかけるように沼田が一人で乗り込んで来た。
【神牧が運転席にいる】
神牧は身長は低く、ずんぐりむっくりとした体形と毛深く四角で大きな顔はアウストラロピテクスのようだと、さつきが揶揄する。
温泉施設から駅や高速バスの停留所、集落間の送迎バスと雪の季節は除雪車の運転が主な仕事で、その他は沼田にぴったりとくっついている。
沼田が乗り込んでくると送迎バスは、文月を乗せたまま走り出した。
温泉施設の従業員のほとんどは集落の人間だ。温泉施設と集落は車で二つの山越えをして約一時間のところにある。いつもなら、少なくても数人は送迎バスに乗るが、今日は沼田と文月以外に誰もいない。
走り出した車内で沼田は文月の隣に移動してきた。曲がりくねった道路に沼田は体の力を抜き、揺れに身を任せた。
死んだ目をした文月は表情を変えずに威圧的に聞いた。
「沼田。お前の目的は?」
「いいでしょ。どうせ僕達は結婚するのだから」
ねちっこく沼田が薄ら笑う。文月は深くため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げるのだってさ。ため息をつかないで、前向きに考えればいいだろ。楽しみだね。あと一年」
「ため息で幸せは逃げは、せぬ」
文月の気持ちの入っていない言葉に、沼田の感情が揺さぶられた。自分を無視されていると感じ
「うぶすな神は頑固だな…」吐き捨てた。
「なぜ、お前ごときに従順でなければならぬ」
文月は平然とフッと鼻で笑った。
【その時】
日向達、感取放の使い手たちも、沼田の文月に対しての悪意の思惟を察知していた。文月の思惟は感知できないので、沼田の思惟を読み始めた。
『ママン、文月は温泉でアルバイトだった?』
『ええ』
『なんかとてもやばい。おかしいよ。この辺一帯の文月への思惟を止めているはずなのに』
『一人かしら?』
『もう一人いる』
『なんか、読みにくいわ』
『とにかく悪意の塊のそいつ、車から降ろそう』
【湖畔のくねった山道が】
文月の乗った送迎のマイクロバスを左右にゆずぶり、文月に接触するたびに、隣の席の沼田を刺激した。
文月は、他人の思惟が受信できない。それは、相手がどんな感情を持っているか伝わらないので恐怖も感じない。
沼田を完全に無視して湖畔を走る風景に日向の事を重ねていた。
突然、沼田が
「俺、ここで降りるわ、止めて」
運転席の神牧に言いながら、中腰に席を立った。
「沼田さん、ここで降りますか?」
神牧が驚き、不信そうに聞いても沼田は返事を返さないので、更に声を大きく聞いた。
「沼田さん、何もないところですよ。ここで降りてどうするのですか?」
「いや、いや ここでいい」
「でも」
沼田と押し問答していた神牧に、文月はきつい命令口調で言った。
「本人の望みである。それでよかろう」
集落の守護神として、生き神の文月が言葉にすると迫力がある。威厳をもった重たい言葉は、神牧を服従させた。
「へい」
神牧は返事をしながら、隠れるように文月を盗み見て「こいつ」苦々しく小さく言った。
沼田は結局、湖畔のはずれ、外灯もない山の中で車を降り、文月はそのまま自宅に帰った。
文月はこの不可解な出来事よりも「どうせ結婚するのだから」という沼田の言葉に気を取られた。
『やはり、強硬手段しかないか…』
机の引き出しから出した、婚姻届けに目を落とした。
【翌日】
「沼田さん、昨日はどうしてバスから降りたんです?自宅に連れて行く予定だったじゃないですか?」
神牧が沼田に詰め寄った。
「あっ?用事があった」
「どんな用事ですか?」
「どんなって」沼田は少し考えていたが
「とにかく、用事だ」
「沼田さん、あの女を諦めるのですか?」
「女?」と、不思議そうな顔をした。
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