第167話 白月の手紙②

 ハクの手紙、柊士の言葉。それを聞いていて、不意にハクの言葉を繰り返す忠の声が蘇った。

 

『一度戻らないと終わらない』

『やるべきこと』

『けじめ』


 あの時にはわからなかった、水晶玉に入ったハクが言ったであろう言葉の断片。でも、今の状況を合わせれば理解できる。ハクはあの時から、この状況を考えていたのだろうか。

 だから、『戻る』だったのだろうか。

 ハクの『やるべき事』が、今、柊士が持っている手紙だったのだとしたら……これが、『けじめ』だったとしたら……


 あの時、忠はハクが消えたがっていたと言っていた。でも、途中で意見を変えた。それは、あの場で転換の儀を受けなければならなくなる俺を救うためだとばかり思っていた。でも、ハクが見ていたのはもっと先。これから先ずっと、自分が居なくなっても良いように。人界も妖界も困らないように。これからもここに残り続ける柊士や俺や未来の守り手のために、『一度戻った』だけだったのだ。


「我らは、白月様のお言付けに従い、妖界を守ります。人界の皆様には白月様の要求の受け入れをお願いしたい。」


 翠雨は静かに、柊士を見据える。 

 しかし、柊士は俯いたまま答えない。 


 ……何故、妖界の者達はここまで落ち着いていられるのだろう。自分達の主を失ったというのに。

 

 翠雨の求めを受け入れてしまえば、ハクがもう戻ってこないことを受け入れてしまうようで、俺も言葉がでなかった。


 結局、失うことになってしまった。救えなかった。

 消えたいと……戻りたくないと、SOSを出していたのに。魂をすくい上げただけで、全然、ハクの心を救えなかった。

 

 もともと人界に生き人界を守るために尽くしていた者を妖界に行かせ、酷い目にあわせて追い詰めて……せめて妖界で幸せにと願ったことすら、失わせてしまった。


 じっと柊士の返答を待っていた翠雨は、このままでは答えが返ってこないと思ったのだろう。小さく息を吐きだした。


「……受け入れてください。そのうえで、協力を願います。」

「……協力?」

「我らはあの方を諦めるつもりはありません。」


 一瞬、翠雨の言葉の意味が理解できなかった。柊士も同じだったのだろう。俺が言葉を失っている間に、顔をゆっくり上げて翠雨を見返す。


「……どうするつもりだ? あいつはもう……」


 柊士の問に翠雨は仕方がなさそうな顔をし、今度はこれ見よがしに溜息をついてみせた。それから隣にいる璃耀に目を向ける。


「璃耀、人界の皆様は、勝手にあの方を失ったと思っておいでのようだが?」

「そのようですね。お捜ししてお戻りいただけば良いだけの話なのですが。」


 二人の会話がよく見えない。行き先は鬼界だ。人界に紛れ込んだ鬼でさえ対処に苦労するのに、それらが住む場所に行って無事で済むはずがない。

 

 しかし、二人は当たり前のような顔で、捜しに行けば良いだけだと言う。

 

 柊士も眉を潜めて二人を見ていた。


「バカな事を言うな。鬼界だぞ。」

「馬鹿はどちらです。鬼界に恐れをなし勝手に諦めて泣き言を吐き、あの方をみすみす失おうなど。人界の妖の頂点ともあろう方が、随分と腑抜けていらっしゃるようですね。」

「翠雨様……っ!」

 

 真正面から柊士に言い返す翠雨に、後ろにいた蝣仁が慌てたように窘める。が、翠雨はそれをフンと一笑に付した。


「妖界側の結界石への陽の気の供給はやめるわけには参りません。補償として御二方からの御協力を求めます。しかし一方で、お帰りになるつもりのないあの方を黙って待っているわけには参りません。」


 それに、璃耀が頷き、言葉を引き継ぐ。

 

「人界の皆様にお願いしたいことは補償のほかには一つだけ。次に鬼界との結界に綻びが見つかれば、我らに知らせていただき、閉じずに妖界の軍団をお待ち頂きたいのです。我らがお迎えに上がります。」 

「……迎えに……?」


 知らず知らずのうちに、自分の口から唖然とした言葉がこぼれ落ちる。

 

 しかし、妖界の者達の表情を見れば、誰の目にも諦めはなかった。少なくともここに居る全員が、無事にハクを連れ戻そうとしているように見えた。


 どうしてそこまでハクが生きていると信じていられるのだろうか。鬼には何度もひどい目に合わされた。凶暴性は妖界の者達だって知っているはずだ。その鬼が住んでいる場所に入り込んで、無事でいられるはずがない。


 そう思っていると、翠雨は不意に、フッと小さく笑いをこぼした。


「人界ではどうだったか存じませんが、あの方は、たった一人、小さな兎の身で人界から妖界にいらっしゃり、頼る者もない中で、紅翅の蓮華畑に入った泥棒を捕らえました。病の羊の子を救うためだけに崖や滝を独力でいくつも登って越え、大鳥に捕まっても諦めずに逃れ、山羊七の守る温泉を自力で見つけだしました。ヤマタノオロチにも人魚にも烏天狗にも気に入られ、京に攻め入った鬼から民を救い、妖界を不当に支配する者を捕らえ妖界を平定なさいました。」


翠雨が言うと、璃耀が苦笑しながら付け加える。

 

「落武者の霊の群れに女神と崇められた事もありましたね。狐の村を土砂崩れから救い、濁流に飲まれた子どもを助けたことも。」

 

 まさか、そんな大冒険をしていたなんて、と、人界側はほとんどの者達が目を丸くしてそれを聞いていた。ずっと人界で共に行動していた汐と亘もだ。


 一方で、柊士は一気に疲れた様な顔になり、眉間を指先でグリグリと押さえた。 

 それを、翠雨はじっと見つめる。

 

「鬼界に行ったのが何だと言うのです。あの方は、必ず、生きていらっしゃいます。」


 確実とは言えない。それでも、妖界の者達は信じたいのだ。彼らを救った英雄を。その英雄が必ず自分達のもとに戻ってきてくれると。


 ……でも、不安はそれだけじゃない。

 

「……もしも、本当に無事だったとして、本人が戻りたくないと言ったら……?」


 人界側の誰にも言っていない。あの場にいた汐と椿、忠しか知らない懸念。

 宇柳は翠雨達に伝えたのだろうか。

 俺達のためだけに自分の気持ちを殺して、ハクは妖界に戻ったのだということを。一度は戻り、本人がすべきと思ったことをやり終えた今、ハクは戻ることを望まないかもしれない。


 しかし、璃耀は何でもないことのように眉を少しだけ上げて首を傾げた。


「もしもそう仰るなら、説得すればよいでしょう。それでも尚あちらに残りたいと仰るなら、私があちらへお伴すれば良いだけです。」

「……璃耀、それだと其方の目的しか果たされぬのだが?」

「元よりそのつもりですが。」


 翠雨が顔を引き攣らせるが、璃耀はしれっと言い返す。


「……本気で行くつもりなんだな?」


 柊士が確認するように言う。

 

「ええ。」


 翠雨達の表情に悲観はない。必ず帰ってくると、真っ直ぐに信じている目だ。


 柊士はじっと妖界の者達の顔を見る。悲嘆と強い悔恨の色が消え、その目に光が戻ったように見えた。


「わかった。できる限り協力する。」


 柊士がそう返答すると、不意に後ろから柊士に問いかけるの淕の声が聞こえた。

 

「では、こちらからは誰を行かせましょうか?」


 自分が行く気はさらさら無いのだろうが、柊士が前を向いたのが嬉しかったのだろう。心なしか声が明るい。


「武官をお貸しいただけるのですか?」


 翠雨と璃耀の後ろから、蒼穹が驚いたように声を上げる。


「数は出せない。知っての通り、人界は未だに結界が脆弱なままだからな。有志を数名、それでも良ければ貸し出す。」

「結様の為ならばと名乗りを上げる者も多いでしょう。」


 柊士に同意するように、瑶がニコリと笑った。


「ひとまず、強者と戦いたくて仕方のないうってつけの者から声をかけることにいたしましょう。これ以上里を壊されては堪りません。護衛役の誉れも不要なようですし、丁度よいでしょう。」


 笑ってはいるが、何だかヒヤリとしたものを感じるのは気の所為だろうか……

 

「……先日、淕さんと亘さんが手合わせしている時に柾さんが乱入し、御番所の壁に穴を開けたのです。」


 こそっと椿が教えてくれて納得した。瑶は相当御立腹らしい。

 ただ、柾は護衛役よりも鬼退治をしている方が良いと言っていた。心配ではあるけど、適任であることには違いない。


 そしてもう一人、名乗りを上げそうな者がいる。


「……亘は行かなくていいの?」


 ハクは心配だ。でも正直、亘を送り出したくはない。それでも、亘本人が行きたいというのを止めることもできない。亘の意思を大事にしたいとも思う。


 俺は自分の真後ろにいる護衛役を見上げる。すると、亘に物凄く嫌そうな顔をされた。

 

「……『俺の護衛役だ』と仰ったのはどなたです?」

「それはそうだけどさ。」

「余計な気を回さないでください。私は貴方の御側におります。それとも、解任なさいますか?」

「……ちょっと聞いてみただけだろ。解任なんてしないよ。絶対に。」


 少しだけ心配になったのを隠したくてそう言うと、亘は仕方なさそうに息を吐く。でも、その顔は少しだけ安堵したようにも見えた。





―――― 人界篇 完

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