第159話 転換の儀②
淕が出ていった部屋の中は、不自然な程、静かだった。誰も、一言も発しない。
壁を背に座り膝を抱えて顔を埋めたまま動かない汐、武器を回収され膝の上で拳を握りしめ俯いて椅子に座る亘。
俺もまた、ベッドの上で膝を抱え壁に頭を預けて座っていた。
どれほどそうしていたかは分からない。
「……ごめん。妖界には行かないなんて、汐に言っておいて……」
いろいろ思い出しているうちに、つい昨日、汐にそんな約束をしたことを思い出した。たった1日で反故にすることになるなんて思わなかった。
でも、汐は答えない。
「また、辛い役目をさせることになるよね……」
「……そう仰るなら……せめて……抵抗してください……」
汐は膝から顔をあげず、掠れるような声で言う。
「せめて、行きたくないと……なぜ行かなければならないのかと……他の道は無いのかと……抗ってください……この世界で生きる方法を、探してください……」
何も、言葉が出てこない。抗う、そんな道があったのだろうか。抗ったら何か変わっていただろうか。
「…………逃げましょう。」
不意に、亘が言った。
「逃げてどうするんだよ。どこに行くつもりだ。それに、外は、何重にも……」
「淕の言っていた場所だけなら、精々十名に満たないでしょう。」
亘は、顔を上げて、じっと俺を見据える。
「道を作れと命じてくだされば、作ります。」
「そんなの、無事で済むわけ無いだろ。扉の前だけじゃない。本家の中にどれだけの武官がいる? 本家から出られたとして、陽の気の使い手を差し出せと妖界に脅されている以上、里の皆が俺達を追う。きっと、西と北もだ。どうやって逃げ続けるんだよ。馬鹿なこと言うな。」
「馬鹿はどちらです。一人で勝手に諦めて我等に謝り、役目に抗わず粛々と柊士様の言いなりになって、自らの人生を捨てようなどと!」
「亘!」
亘が声を荒らげて立ち上がり、汐がそれを制止しようと咎める声を上げる。
「じゃあ、どうする? 俺か柊ちゃんが行かなきゃ、どうにもならないだろ。他に選択肢なんてない。」
「柊士様を送って御自分が当主になるなり、妖界を攻め滅ぼすくらいのこと、仰ったらどうです?」
「無茶苦茶なこと言うな。そんなことできるわけ無いだろ!」
「できないのではなく、やろうとなさらないだけです。命じればよいでしょう。全てがすんなり行かなくても、一矢報いるくらいはできます。」
亘の目は本気だ。きっと、そうしろと言えば直ぐにでも動く。それこそ、自分の命を賭してでも。
「……俺は、自分可愛さに、お前らを危険に晒したり、柊ちゃんを妖界に差し出したりはできない。」
「それは、七日後に御自分の人生が終わっても、ですか?」
「うん。」
「……貴方を失った後に、我らがどんなに苦しんでも、ですか?」
「…………うん。」
いつか、亘も俺に似たような事を言っていた。自らの命をかけても俺を守るのだと。結果的に俺が将来に後悔を背負うことになっても、俺の命を最優先にするのだと。亘自身が、失う後悔を背負わないために。
「……お前と一緒だよ。後悔しないように、未来の自分に後ろめたいことなんてないように、俺は、俺の未来のために、この道を選ぶんだよ。亘。」
不意に、トントン、と扉を二度、叩く音が部屋に響いた。食事の時間には早いだろうけど、一体何なんだろう、そう思いつつ返事をする。
入ってきたのは、淕と栞に案内された柊士だった。
外には那槻と葛がいて、扉を守るようにその背がこちらを向いているのが少しだけ見えた。
「那槻、葛、誰も近づけるな。」
「「承知しました。」」
パタリと扉が閉まると、亘が剣呑な雰囲気をだす。
「まだ、何か御用ですか?」
亘の様子に、淕がすぐに柊士を守れるように一歩前に出て構える。
柊士はそれを手で制したあと、おもむろに扉の前にあった椅子に手をかけ、ズズズッと引きずってベッドの上にいる俺の前に持ってきた。
「状況が整ったから、説明しに来た。」
「……説明なら、さっき聞いたけど。」
これ以上、柊士とあまり話していたくなくて眉を顰めると、柊士はゆっくり首を横に振る。
「あれが全部じゃない。まあ、聞け。」
そう言うと、柊士は体を少しだけ前に倒して、膝の上で両手を組む。どうやらじっくり腰を据えて話に来たらしい。
聞かないといけなさそうな雰囲気に視線を下げると、柊士は小さく息を吐いた。
「まず最初にさっきの件だが、実際には転換の儀は行わない。全て、湊を誘き出す為の偽装だ。白月も生きていると報告を受けてる。脅かして悪かった。」
「…………………………は?」
時がピタリと止まったようになる。言っていることが全く理解できない。
「里の奴らまとめて全員に奏太の転換の儀を信じ込ませるために、ああいう手をとった。ここに来れば外部との接点はなくなり、情報流出の可能性を抑えられる。だから、全て話しても問題ないと踏んだ。」
柊士の言っていることが
「先ほどまでのあれは、偽装のための芝居だったと?」
「まあ、そういうことだ。」
「…………俺、死ななくていいの?」
「ああ。怖がらせて悪かった。」
「……ハクも……生きてるの?」
「ああ」
柊士の言葉に、何だか一気に体中から力が抜けて、俺はバフっと布団の上に倒れ込んだ。
「奏太様!」
汐が目を見開いてこちらに駆け寄ろうとするのを、俺はうつ伏せの姿勢のまま手だけを上げてヒラヒラさせて見せる。
「大丈夫だよ、汐。何だか安心したら、力が抜けちゃって。」
そう言いながら、ふかふかの布団に顔を埋めた。
「……もう、父さんにも母さんにも二度と会えないかと思った。」
そう、俺はぽそりと呟く。
「……また、毎日嫌になるくらい会える。」
柊士から、いつもよりも少しだけ優しい声音で返事が戻ってきた。
「……友達にサヨナラも言えずに、全部終わるんだと思った」
「終わりじゃない。また会える。」
一人ひとり、サヨナラを告げたいと思っていた皆の顔が思い浮かぶ。
「あんなに心配して、俺のこと守ってくれてた巽や椿にも何も言えないまま居なくならなきゃいけないんだと思った……柾や、晦や朔達にも……」
「全てが落ち着けば、あいつらとも、変わらず今まで通りに会える。」
だんだん、胸がいっぱいになってきて、それと同時に喉に熱いものが込み上げてくる。
「……淕に、好きな物を用意するって、最期の晩餐みたいな事を言われて、母さんのご飯ももう食べれなくなるんだって思った……」
「……申し訳ありません。奏太様。」
柊士からの返答に混じって、淕からの返答も返ってきた。
「…………亘と汐に……また……結ちゃんの時みたいに辛い思いをさせることになるのかと思った……」
「そんなことは、もうさせない。」
目の周りに当たる布団が冷たくなっていく。
亘と汐に強がって見せながら、なんとか自分で自分を納得させようとしていたけど、自分で思っていた以上に、俺は追い詰められていたらしい。
涙を堪らえようとすればするほど、胸が痛み、喉の熱さが増していく。嗚咽が漏れないようにするとツンと鼻が痛んだ。
「……あんな風に……淡々と……転換の儀を受けろっていう柊ちゃんが……怖かった……」
「悪かったよ。」
「……………………ホント……全部ウソで良かった……」
安心したせいで何だか涙が止まらなくなり、俺はしばらくの間、ずっと布団に顔を埋めていた。
静かにじっと、用意された死へ一歩一歩向かっていくのは、突然鬼に襲われるのとは全く違う怖さがあった。
18年生きたこの世界で、出逢った者たちと別れなければならないことに、抑えきれないほど大きな喪失感が広がっていた
信頼していた従兄に死を宣告された衝撃はトラウマになるようなレベルだった。
命がけで俺を護り続けていた者たちの前で、人生を終わらせる選択をしたことへの罪悪感は、結局この先ずっと背負っていかなければならないのだろうと思っていた。
……まだ、この世界で生きていられる。
その幸福を、俺はぐっと噛み締めた。
皆は、ただ静かに黙って、布団の上に突っ伏したままの俺を待ってくれているようだった。
汐や亘、柊士の前で、泣き腫らしたひどい顔のまま起き上がる訳にはいかない。もう少しだけ、皆には待っていてもらおう。
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