第150話 水晶玉の魂③:side.白月

 気づいたら、ガラスの球体の中にいた。


 ここは、ひどく心地が良い。痛くも苦しくも辛くもない。暖かで、ガラスの中で守られているから誰にも触れられない。

 

 どうせなら、全部忘れて、ずっとここにいたい。ここから出たくない。

  

 里で鬼に襲われ、土の穴の中に閉じ込められ、体中、刀傷と噛み跡だらけになった。逃げるどころか、声を出して抗うことすらできなかった。最後は逃げまどい抵抗したけど、結局斬られて仮初の体すら失った。


 今、自分に動かせる体はない。見えるし聞こえる。でも、それだけ。

  

「……あのさ、もしかして、忠を通さなくても、こっちの声は中に聞こえるの?」


 ガラスの向こうで奏太が言う。

 

「はい。相手が理解できる言葉なら、こっちの声は全部聞こえてるみたいです。」

 

 忠の言う通り、全部聞こえてた。

 亘に斬られて虫の息だった私を、鬼の体から引き剥がし、よくわからない水晶玉に入れたことも聞こえてた。体が無いのは、魂だけになったからだという事も、奏太達の話で理解した。


 体を失うのは三度目。結と兎から白月。白月から玉雲という鬼。玉雲から今の状態。体が次々と入れ替わって、自分が何なのかが、もうよくわからない。人か、獣か、妖か、鬼か。今の状態はたぶんそれらですらない。何でこんな状態で未だ私は生きてるのだろう。

 本来ならば体を失った時点で死んでいるはずなのだ。人なら人として、獣なら獣として、妖なら妖として、鬼なら鬼として。

 痛い思いをして、辛く苦しい思いをして、それならいっそ死ねればいいのに、自分は未だにこうしてここに居る。自分の存在が、虫酸が走るほど気持ちが悪い。


「……ねえ、ハク、何がどうしてこうなったかわかる? あの土の穴の中で何があったのか……」


 そんなのわからない。わかりたくもない。

 

「……思い出したくない。」


 土の穴の中で目覚めたあとで、どんな目にあったかなんて、口にするのもおぞましい。 

 ただそれだけを答えると、忠が同じ言葉を繰り返して伝える。眉根を寄せた奏太の顔が、ガラス越しに歪んで見えた。

 

「思い出したくないって…………でも、真犯人を捕まえないと。あの狐の面をつけた奴だろ? あれは一体……」

「思い出したくないって、言ってるのに……」


 忠は言いにくそうに、もう一度、私の言葉を繰り返した。しかし奏太は諦める様子はなく、真剣な顔でこちらを覗き込んでくる。

 

「頼むよハク。もうこれ以上、被害を広げたくないんだ。せめて、あれが誰か教えて。」

 

 奏太の言葉に、ニヤっと笑ういやらしい顔が心の中に浮かび上がる。悲しそうな顔をして、同情するような目を向けて、それでも心底楽しそうにしていたあの顔を。

 声も出ない状態で、あまりの痛みに掠れた息だけの悲鳴をあげ、誰にも掴んでもらえない手をのばして助けを求め、流した涙さえ舐め取られて。

 それでもあいつは笑っていたのだ。満足そうに。


「ハク。」


 もう思い出したくない。放っておいてほしい。

 でも、答えなければ、ずっと尋ね続けられるのだろう。

 強く返答を求める奏太の呼びかけに、私は心のなかで小さく息を吐いた。

 

「……湊だよ。」

「……湊……? ……確かに言われてみれば、あの時のあの声…………でも、湊が何で……」


 奏太は顎に手を当てて眉を顰める。

 

 詳しいことまではわからない。正確には覚えていない。知っているのは湊に聞かされた話だけ。真正面からぶつけられた深い憎しみだけだ。

 

「恨まれてたの。私も、お父さんも、亘も。柊士のお母さんを殺したから……」 

「……は? ……柊ちゃんのお母さんを……殺した……?」


 奏太が唖然としてそう呟くと、近くから椿の声が聞こえてくる。

 

「……あの、それは事実と異なります。柊士様の御母上は、鬼に……」

「……椿は何か知ってるの? ハクと結ちゃんのお父さんと亘が、何で湊に恨まれているのか。」


 奏太の疑問に、椿は私と亘の方を順番に見たあと、少しだけ目を伏せ、言いにくそうに口を開いた。

 

「……亘さんはもともと、守り手様であり結様の御父上である誠悟せいご様の護衛役でした。そして湊様は、案内役の見習いのような形で柊士様の御母上である優梛ゆうな様についていらっしゃいました。今の巽や私の立場に近いと思います。」


 そう。湊はそう言っていた。昔話を語り聞かせるように、お前とお前の父親と亘のせいだと呪詛を吐くあの声が蘇る。

  

「随分前の話なのですが、結様と柊士様が学び舎の行事で西の里の近くへお出かけになられた事があったのです。しかし、お泊りになったその夜、結様が鬼にかどわかされ、柊士様の行方もわからなくなってしまい……

 まだ十になる前でしたが、守り手様となられる資質を持たれていた御二人を探すために誠悟様と優梛様はもちろん、その護衛役と複数の武官が向かいました。

 ただ、柊士様は直ぐに見つかったものの結様は鬼に捕らえられ鬼界に連れ込まれていて…………

 更に不運な事に、結様をお救いしようとしたところで巨大な鬼が綻びの向こう側に現れたのです。

 何とか亘さんが結様をお連れし戻ってくることは出来たのですが、代わりに優梛様が鬼界に引きずり込まれてしまって…………」


『お前が、お優しかった私の主を奪ったんだよ。お前のせいで、私の生活は暗闇に戻ったんだ。』


 あの土の穴の中で、湊は小刀を持ち、私の肌の上に刃を立ててゆっくりと引きながらそう言った。何度も、何度も。

 体なんてもう無いのに、あの痛みが蘇えり、心がザワリとする。

 

「え、でも、それじゃあ伯父さんと亘を恨む理由には……」


 奏太が言うと、椿はゆっくり首を横に振った。

  

「……優梛様が鬼界に引きずり込まれた直後、誠悟様の御判断で鬼界の綻びが閉じられたのです。亘さんは誠悟様の護衛役でしたから、結様と誠悟様をお護りする事を優先して……」 

「……まさか、伯母さんを鬼界に取り残したの……?」


『お前の父親は、お前可愛さに、実の姉を鬼界に置き去りにしたんだ。』


 そう猫撫で声を出した湊の表情には、深い怒りと憎しみが刻まれていた。

 刀の切っ先が、深く深く肌に突き刺さりツゥっと血が線になって流れる。凍りつくような湊の雰囲気と激痛に、息が出来ない程の恐怖が湧き上がった。

  

「その時、既に優梛様は瀕死の状態で救出するのは絶望的な状態でした。当時は妖界の温泉水もありませんでしたし、既に鬼が複数人界に入り込んで悪さをしている状態で……巨大な鬼が万が一こちらに入って来るような事があれば被害は更に甚大になっていたはずです。一刻も早く鬼界の綻びを閉じなくてはならず、致し方なかったのです……」


『……誠悟に、仕方がないって言われたんだよ。あの方が私の唯一の希望だったのに、諦めろと。お前に主を奪われた私の気持ちがわかる? 唯一の光を奪われて、私は暗闇に突き落とされたんだよ。』

 

 湊の瞳には言葉の通りに、吸い込まれてしまいそうな程の、底の見えない闇があった。

  

『お前の両親も、お前も、私が殺した。知らなかっただろ。それなのに、妖界で幸せになんてなるなよ。地獄を見ろよ。誠悟にも、亘にも、それが一番堪えるハズだ。』


 私の両親は自分が殺したのだと、結だった私を鬼に襲わせたのは自分だと、湊は薄く笑いながらそう言った。

 地獄に落ちろと唇を歪ませ、気が済むまで斬りつけられ、小瓶に次々と血を取られた。

 里の者や見知らぬ男が連れてこられ、体に残った血の跡も流した涙も全て舐め取られ、噛みつかれ、血を吸われた。


 ……怖くて……痛くて……気持ち悪くて……それでも、動くことも声を上げることもできなかった。


 耐えていられず気を失い、その度に無理やり起こされた。

 

『可哀想に。きっと血が足りないせいだね。肉をあげるよ。お前の血を飲んだこいつらの。』


 憐れむような声で言う湊が刀を振り上げ、先程まで自分に覆いかぶさっていた者達が次々と殺される。酷い吐き気がした。


 ……何で……こんなこと……


 頭痛と目眩がして意識が朦朧とする。


 ……お願い、もうやめて…………お願い……


 しかし、喉から出てくるのは掠れた息だけ。湊の耳どころか、自分の耳にすらその声は届いてこない。


 湊はこちらを見向きもせずに、殺した男の肌に刃を入れ肉を切り取り、いやらしい笑みを浮かべてこちらに向き直る。そしてそれをそのまま、無理やり私の口に……

  

『あぁ、誠悟の顔を見たかったよ。優梛様を見捨てて生き永らえさせた娘が、体を切り刻まれ、複数の男共から辱めを受けて血を吸われ、苦痛に耐える姿を。あの時殺してあげていたら、こんなことにはならなかったのにね。』

 

 …………もう……許して……お願い……


 どんなに声にならない声で懇願しても、湊はただただ私を見て笑うだけ。ゾッとするような憎悪と狂気を孕んだ顔で。


『ふふ、まだ足りない。次は奏太様を亘から奪ってやらなきゃ。あいつにも地獄を見せてやらないとね。』


 満足そうに私を見下ろしながら、湊はそう愉しそうに零した。

 

「……次は亘から奏太を奪う……?」


 そう言った湊の言葉を、私は知らず知らずのうちになぞるように呟いていた。

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