第30話 結の記憶③

 駅を離れしばらく歩くと、ポツンポツンと佇む街灯と、田畑や広い庭の間にある住宅から漏れる灯りだけが周囲を照らす。

 さっきのような奴らに絡まれる心配はないが、人気や車通りのなさに漠然とした不安が過ぎるのはいつものことだ。

 ただ、今日は、いつもと違う不安感がある。

 強さはおいておいたとしても、小さく華奢な貴人を守らなきゃという思いはやっぱりあるし、ハクに真実を伝えることへの不安感もある。

 ハクも、何かを感じているのか、だんだんと口数が少なくなり、街灯に照らされるその顔が強張ってきているように見えた。


 本家の門が見える角を曲がる。

 もう目と鼻の先だ。


「ハク、もうすぐだよ。」


 そう声をかけつつ、後ろを振り返ると、そこにはハクの姿も、ハクの背後を守るように着いてきていた潤也と聡の姿も無かった。

 首を傾げつつ曲がり角まで戻ると、ハクはそこでピタリと立ち止まり俯いていて、他の二人が戸惑うようにハクを見ていた。


「急にどうしたの、ハク。」


 潤也が躊躇いがちに声をかけると、ハクは掌で胸をおさえたまま、


「……ここ……知ってるの……」


と呟くように言う。


「知ってるって何を……」


 潤也は戸惑うように言うが、ハクは答えない。

 結だった頃の記憶を取り戻しつつあるのかもしれない。


「……大丈夫? 辛いならやっぱりやめたほうが……」


 俺がそう言いかけたとき、不意に頭上から、


「おや、奏太様。ご友人と御一緒とは。如何されました?」


という声が降ってきた。


 見上げると、人の姿に翼をはやした状態で亘が地面に降り立とうとしているのが目に入る。

 汐も、蝶の姿のまま亘の横でヒラヒラと舞っていた。


「ほう。これはこれは、おどろくほど可憐なお嬢様ですね。こちらも奏太様のご友人ですか?」


 亘は翼をしまいながら目ざとくハクに視線を止める。

 声をかけられたハクは、僅かに顔を上げた。

 そして亘と汐に目を向け、その瞳を大きく見開く。


「……亘……汐……?」

「はて。どちらかでお会いしたことが?」


 首を傾げる亘に応じることなく、ハクは二人の名前を口に出したところから胸元をグッと握りしめ、ハッハッと短く荒く息をし始める。


「なあハク、大丈夫か?」


 聡が気づかわしげに、後ろからハクの肩に手を置く。

 しかしハクには聞こえていないのか、それに答ええず、表情が苦痛に歪む。

 それから、苦しそうに大きく息を吸い込んだかと思うと、ふっと崩れるようにその場で兎の姿に変わり、脱げたジャージに埋まるようにぽとりと落ちた。


「ハク!?」


 慌てて駆け寄り抱き上げると、ぐったりとして意識がない。


「ハク!」

「何で急に!」


 潤也と聡も狼狽えるようにハクを見る。

 亘はそれを、目を見開き呆然とした様子で見つめていた。


「奏太様、その方は……」

「……白月という名の妖界の帝で……たぶん、結ちゃんだった人だ。」


 俺がそう言うと、亘は言葉をなくしたようにその場に立ち尽くした。

 汐もまた、亘の肩に止まりハクの方を向いたまま、ピクリとも動かなかった。



 兎の姿のままのハクを本家の一室に寝かせたあと、俺は伯父さんに呼ばれた。いつものように粟路も一緒だ。

 念の為に呼ばれた尾定がハクを見ていてくれている。

 聡と潤也はハクを気にして残りたがったが、事情は今度説明するからと説得し、一緒に送ってくれたお礼だけ言って帰ってもらった。

 ここから先は身内の問題だ。あんまり巻き込むべきことじゃないだろう。


「どういうことだ。説明しろ。」


 伯父さんは厳しい表情でこちらを見据える。でも、どういうことだと言われても、俺がしたことといえば、自分一人でも飛び出していきそうだったハクを、本家に案内したことだけだ。


「そもそも、人だった頃の記憶を無くしていたのに、牢に捕らえられて遼ちゃんがハクを結って呼んだ時から様子がおかしかったんだ。ずっとモヤモヤして気持ち悪いって言ってた。記憶が戻りかけて、それをスッキリさせたくて一人で抜け出して来たんだと思う。」


 妖界にあるハクの部屋から人界の入口を開けば、俺の学校に出ることはわかってた。探そうと思えば一人でだって俺の家くらいいずれ突き止められただろう。


「抜け出して来た?」

「ハクがそう言ったんだ。朝までに帰れば良いって。」


 伯父さんはハアと息を吐く。


「帝が突然居なくなったとあれば、大騒ぎになるだろう。さっさと送り返さなければ。問題はどうやって帰すかだが……」

「ちょ、ちょっと待ってよ。ハクに本当の事を教えてあげてよ。一人で人界にくるくらい思い詰めてるんだ。ここまで来たのに、結局何も知らされないまま帰されるなんて……」


 伯父さんは問答無用で向こうに送り返すつもりだろうが、それではハクの問題は一切解消しない。

 しかし、伯父さんはジロっと俺を睨む。


「知ってどうする? 知っていようが知らなかろうが、やるべきことは変わらない。妖界を守ることだけだ。下手に人界での事を思い出して、こちらに心残りができる方が問題だ。」

「それは、心残りがある状態で向こうに送ったって事?」


 俺が睨み返しながらそう言うと、伯父さんは忌々しそうな顔で奥歯を噛む。

 言い返せないような事をしたと思っているからだろう。

 この前聞いたときから、伯父さんのやり方には問題がありすぎると思っていたのだ。

 全部隠してハクにだけ……結にだけ、苦しみを背負わせるような事をしているようにしか思えない。


 そう思っていると、不意に、


「どなたかが背負わねばならぬ勤めなのです。」


と低くしゃがれた声が、伯父さんの隣から響いた。いつもは黙ったままの粟路だ。


「それが、彼の大君の血を引くということです。妖界の帝位を継ぐことも、帝位を継ぐ方を選び送り出すことも、大君の血を引く方の勤めです。この人界と妖界、二つの世の安定の為には避けて通れぬ御役目です。前者を結様、後者を当主と柊士様が担われた、ただそれだけのこと。」


 ……ただそれだけ……?


 心残りがあるまま、妖に姿を変えさせ帝位について来いと妖界に行かせる事が、ただそれだけ……?


 人界に残る側はそれでも別に良いのだろう。でも、結ちゃん本人は……?


「……言っていることが理解できない。したくもない。又聞きの俺からじゃなく、きちんと全部知ってる伯父さんから本当のことを伝えてもらったほうがいいと思って連れてきたけど、話すつもりがないなら、俺から伝える。もし心残りがあるならそれも含めて、今からでも結ちゃん自身が納得のいくようにするべきだ。」


 これ以上ここでこの人たちと話をしたって意味がない。俺はガタッと席を立つ。


「奏太。」


 伯父さんも俺を引き留めようと立ち上がる。

 しかし、止められる前に部屋の扉を乱暴に開けてバタンと閉めた。


「……奏太様。」


 扉を出ると廊下には、眉尻を下げ不安そうな表情の亘と汐が居た。


「二人も、結ちゃんを送り出した側だろ。本当の事を話すなって、止めるつもり?」

「……それは……」

「……あの方にとって、全てを思い出すことが幸せとは限りません。」


 汐が小さく、しかし毅然としたように言う。

 この二人もやっぱり、伯父さんや粟路と一緒なのだ。


「思い出すことが幸せと思えないような事をしたって言いたいの? 何れにせよ、ハクにだって選ぶ権利はあるはずだろ。」


 俺は二人を押しのけてハクが寝かされている部屋に向かう。

 途中、尾定が盥に水を汲み、ハクのいる部屋に向かっているのに遭遇した。


「尾定さん、ハクは?」

「いや、まだ目覚めていない。」


 尾定はゆっくり首を横に振る。


 しかし、部屋の扉を開けて静かに入ると、ハクは用意されていた浴衣を羽織り、人の姿に変わって布団の上に座っていた。


「……奏太……尾定さん……」


 ハクは入ってきた俺と尾定の顔を見ながらそう呟く。

 家の前で汐と亘を見たときも、説明していないのにハク自身から名前がこぼれていた。

 記憶が戻りつつあるのだろうか。


「お目覚めになりましたか、陛下。」


 尾定はハクのそばまで行くと、謙るように頭を下げ、脇に置いたバッグから聴診器を取り出した。


「……陛下……? 尾定さん、あの、私……」


 ハクは戸惑うような表情で尾定を見る。

 しかし、尾定はハクをじっと見据え、先を言わせないように首を小さく振った。


「妖界の帝たる貴方様に、侍医ではない私が御手を触れることをお許しください。」


 その言葉に、ハクは眉根を寄せ、尾定の顔をまじまじと見つめる。


「……あくまで、結としては接しないつもりですか?」

「……結という女性は亡くなりました。既に葬儀も済ませています。」

「尾定さん!」


 ハクはグッと奥歯を噛み締める。

 そしてその目には、みるみるうちに涙がいっぱいに溜まっていく。


 ……思い出したんだ。結としての記憶を。俺が教えるまでもなく……


 しかし、尾定はハクのその表情をじっと見たあと、何事もなかったかのように、淡々と準備をすすめる。


「診察をいたしましょう。陛下。」

「尾定さん!」


 ハクはもう一度尾定に呼びかける。

 しかし、尾定は態度を変える気はないようで、小さく頭を下げたあと、


「失礼します。」


とハクの方に手を伸ばした。


 ハクは目を細めて尾定を睨む。その瞳からポロッと涙がこぼれ落ちた。


「……触らないで。」


 ハクは尾定の手をパチンと弾く。

 それから、バッとその場で立ち上がった。


「触らないで。大丈夫だから。」


 涙を拭い、呻くように言うその様は、どう見たって大丈夫ではない。

 体ではなく、心が大きく揺れて安定していないのが傍目からでも分かる。


「……ハク、あの……」


 何と言っていいのかわからないまま、それでも二人のやり取りを見ていられずに声をかけると、ハクはちらっとこちらに視線を向けた。


「……奏太、ここまで連れてきてくれてありがとう。全部、思い出した……もう十分。」


 ハクはそう言うと、俺達の背後にある扉を確認し、回り込むようにして扉に向かう。


「……ねえ、どこに行くの?」

「……少し、一人で整理する時間がほしいの。大丈夫、整理がついたらちゃんと帰る。心配しないで。」


 扉に手をかけ、ハクは部屋から出ていこうとする。


 でも、このまま一人で行かせないほうが良い気がする。本当に妖界に帰るかどうかもわからないし、何かに巻き込まれる可能性だってある。

 俺がここに連れてきた以上、見失わないようにしたほうがいい。

 きちんと迎え入れる者の居る妖界に帰るのを、しっかり見届けないと。


 しかし、引き留めようと立ち上がったところで、ハクは開けた扉の向こうを見て目を見開き、ピタリとその動きを止めた。


「……伯父さん……」


 ハクがぽつりと呟く。


「御一人でどちらへ行かれるのです。陛下。」


 すべての感情を排したような伯父さんの声が無機質に響く。

 伯父さんの向こう側には、粟路と汐と亘の姿も見えた。


「……陛下、陛下って……もうやめてよ!」


 ハクは皆の顔をぐるりと見回したあと、そう声を張り上げると、掻き分けるようにその間を抜けようとする。


 しかし、


「亘、お止めしろ。」


という伯父さんの声に、ハクは目の前に立ちはだかる亘に腕を掴まれた。

 亘は、悲痛そうな表情を浮かべたまま、ハクを見下ろす。


「離して、亘。」


 ハクが見上げると、亘が返答する前に、伯父さんがハクの背中に向かって応える。


「大事な御身です。どちらへ行かれるおつもりかは分かりませんが、御一人で行かせるわけには参りません。」


 それはまるで、自分の姪っ子にではなく、全くの別人に話しかけるような態度だ。


「目的は果たしたの。もう、ここにいる理由がない。結は死んだと切り離すつもりなら、放っておいて。」

「そういうわけには参りません。」


 伯父さんが淡々と答えると、ハクはバッと振り返り、伯父さんやこの場にいる皆を睨みつける。


「伯父さん達の望み通り、死んで記憶を失っても、きちんと帝位についたでしょう! もう放っておいてよ!」


 悲痛の表情を浮かべてぐっと唇を噛むと、ハクは掌を僅かに光らせ、自分を押さえる亘の手首を握った。


 ウッという亘の呻く声が聞こえたかと思うと、ハクは廊下を逃げるように走っていく。


「結様!」


 亘はハクが握った手首を押さえながら、声を上げる。ちらっと見えたその箇所は、陽の気に焼かれたように赤く腫れ上がっていた。


「追いかけろ!」


 伯父さんが亘と汐に指示を出す。

 俺もそれに、咄嗟に駆けだした。


「あの状態で、本家の者が行ったって、余計に事態が悪化する気しかしない。俺が行く!」


 連れてきた責任があるし、本家の者や人界の妖には、ハクは足を止めてくれないだろう。

 この場にいて引き止められるのは、結ではなくハクとの関わりの方が濃い自分くらいしかいないと思う。


 バタバタと廊下を走り、家を飛び出すハクを追いかける。


 玄関をくぐり門を道を抜けると、向こう側から、何故か柊士が小さめのスーツケースを引き摺りながら歩いてくるのが見えた。

 何故居るのかはわからないが、知り合いが前方にいるのは好都合だ。


「柊ちゃん! その人止めて!」


 俺が叫ぶと、柊士は目を見開いて、咄嗟にハクの腕を掴む。


 ハクは、その顔をまじまじと見つめる。


「柊士……?」

「……君は?」


 柊士には、ハクが結であることがわからない。当たり前だ。髪も、顔も、声も、背丈も、年齢も、すべてが別人なのだから。


「柊ちゃん! その人、結ちゃん!」

「……結?」


 ハクは、俺の声に動揺したように手を緩める柊士を振り払うと、再び走り出す。


「居なくなったら困るんだ、協力して!」


 柊士に向かって叫びながら言うと、柊士は状況が読めないままに荷物を置き去りにして並走してくれた。

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