第2話 シスター・アンネローゼ
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魔術に必要なものは、魔力と呪文だ。
魔力を意識しながら呪文を唱えることで、それに対応した魔術が発動させられる。
例えば〈鎌鼬〉ならば『集え風よ、弾けて切り裂け』だ。
先生は呪文の意味をよく理解して、その情景を頭に思い描きながら唱えることが重要だ、とよく話していた記憶がある。
私も、田中恭一の記憶を思い出すまではずっとそうだと思い込んでいた。
しかし今にして思えば、呪文というのは要するにルーティンのようなもので、魔力に意識を向けなくても、呪文を唱えることで自動的に、反射的に魔力が動くようにするための仕組みなのではないだろうか。
ルーティンという技術は、前世でもよくスポーツ選手が使っていた。
これは、ある行動と心理状態を結びつけることで、その行動に連動して、自動的に、強制的にその心理状態にするための一種の暗示のようなものである。
呪文を唱えるという行為は、きっとこのルーティンに当たるのではないか、というのが私の見解だった。
幸い、私は同年代の子らよりも魔力が多い。
加えて、前世ではここよりも高等な教育を受けて、科学的な知識は群を抜いている。
これらを組み合わせれば、呪文無くして魔術を使ったり、あるいは新しい魔術を作ることもできるのではないだろうか。
「……試すか」
試すなら、火は火事になるからだめだ。
水も布団を濡らしてしまうし、風は目に見えないから効果がいまいち分かりにくい。
ならば、使うのはやはり土属性からになるだろう。
私が知っている呪文の中で、攻撃系ではない土属性の魔術は〈土壁〉だけだ。
確か呪文は──
「“聳え、守り給え”」
魔力を込めて唱える。
すると、ベッド脇の床の煉瓦がもりもりと盛り上がってきて、一枚の壁を形成していく。
その様子を観察しながら、私は体内の魔力の動きに注目していた。
自分から流れた魔力が、体から放出されて目的地へとたどり着く。
属性が変わって、魔力が目的の形へ変化していく。
そうして、床と同じ材質でできた、一枚の薄い壁が完成した。
「ふむ」
次は、同じことを呪文無しで挑戦してみる。
魔力をイメージしながら動かして、隣にもう一枚同じ壁を作る。
形は不恰好だが、呪文を詠唱しなくても魔術を発動させることは可能らしいことが判明した。
それから私は実験を繰り返した。
生成した壁を消したり、虚空に新しい素材で壁を作り出したり、それを魔力で浮かせたり。
そうやって幾度か実験を重ねるうちに、私は自分の仮説の正しさを知った。
魔術に必要なのは、魔力とイメージだ。
詠唱は補助の役割だけで、本来はな無くても問題はないものだということを。
考えてみれば、元から世界にある法則が、人間の作った言葉にしか反応しないというのはおかしいのである。
レレツィエッカの記憶を探ってみれば、どうやら魔術を使う動物もこの世界には存在するらしいし、彼らは人の言葉を話さないのに魔術が扱えるのである。
であれば、人の言葉は魔術の使用には不必要であることは、すぐにわかるはず……だった。
先入観ほど恐ろしいものはない。
先入観を使った人の騙し方なんてものが存在するくらいだ。
私は幸い、前世の記憶が戻ったから、この先入観を無くすことができたが、もしそうでなければ今頃、私は絶望していたに違いなかった。
「……」
不意に、窓の外から子供たちのはしゃぐ元気な声が聞こえて、視線を向けた。
わずかに開いた両開きの窓から微風が流れてきて、柔らかく私の髪を巻き上げ、目を細めた。
メガネ越しの世界に見える子供たちは元気だ。
粗末なボロボロの服を着て、庭でかけっこをしていて楽しそう。
私も、あんな風に無邪気に遊べた時代が確かにあった。
しかしそれは歳を経るごとに、恥ずかしいものだと思うようになった。
私はもう子供じゃない。
大人なのだから、しっかりしなくては。
……なんて。
なんて、羨ましいのだろうか。
そんなことを考えていると、一人の足音が聞こえてきて、私は視線を音の方に向けた。
やがて、衝立の向こうから一人のシスターが顔を出す。
この孤児院のある教会で、マザーと共に働いている……確か名前は──
「おはようございます、シスター・アンネローゼ」
ベッドの上で軽くカーテシーをしながら、シスターの名前を呼んだ。
癖毛の赤い髪を三つ編みにまとめた、緑の瞳とそばかすが特徴的な、西洋人風の獣人の女性。
普通の人間と違うのは、頬に髭のある少し猫っぽい顔つきと、その頭に生えた猫の耳と尻尾くらいだ。
背は高く、スラリとしていて、少し怖い雰囲気があるが、私は彼女がとても優しいことを知っていた。
「おはようございます、レレツィエッカ。
脚の具合はどうですか?」
「無いはずの脚が痒いです、シスター」
「痒い? 痛みは?」
「ありますが……もう、慣れてしまいました」
「ふむ……“鏡よ写せ、助言を与え、その真理を明かし給え”」
アンネローゼは呪文を唱えると、私の脚をジッと見つめ、観察した。
彼女が今使ったのは、〈鑑定〉という魔術だ。
使えば、その物の知りたい情報を教えてくれる便利なものだ。
例えば今回の場合、彼女は私の怪我の具合や体調について調べようとしている。
傷の治り具合、精神の動きによる魔力の波長の乱れ、脈拍、その他さまざまな情報が魔術を通してスキャンされ、その情報群を彼女の意識に知覚させるのだ。
「驚きました。
普通はもう少し動揺したりする物ですが……まさかとは思いますが、精神安定の魔術を使いましたか?」
精神安定の魔術は、精神操作の魔術に連なる系譜の禁術で、特定の資格を持っている魔術師にしか、使用を許されていない術である。
たしか、教会の図書室の資格勉強用の本に、そんなことが書いてあったのを見た記憶があったが、呪文まで詳しく覚えようとしたことはなかった。
「……いえ、呪文を知りませんので」
「……嘘は言っていないようですね」
嘘偽りなく答える私に、怪訝な顔をしながらも、その言葉を信用するアンネローゼ。
きっと、脈拍の情報から嘘をついているかどうかを調べたのだろう。
彼女は魔術を解くと、スッ、と作ったような笑みを浮かべて、私に布団を掛け直した。
「今日の授業の残りは全て免除します。
明日にはロロ・ラ・フォージュ先生が診察に参りますので、それまでは安静にしているように。
何かあれば、面倒はクラリスさんに見てもらいなさい」
クラリスとは、私と同じ孤児の女の子だ。
金髪の半竜人族で、私の隣のベッドを使っている。
社交的で元気が良く、いつも図書室で本を読んでいた自分とは正反対の人だったと、レレツィエッカは記憶していた。
「はい、シスター・アンネローゼ」
私の顔を見て、全く心配そうな素振りを見せずに颯爽とその場を後にする彼女の背中に、了承の返事を送る。
しばらくすると、医務室の扉を閉める、軋んだ音が鼓膜に届いた。
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