第5話


 「遥。」

 

 縁の細い眼鏡姿の清美ちゃんは、今日も凛々しい。

 堂々としていて、頭がよくて、なのに、優しい。


 清美ちゃんがいなかったら、

 わたしは今頃、両親に棄てられて餓死していただろう。

 

 「うん。」

 

 清美ちゃんはいつも、校門の前で待ってくれている。

 メッセージでお願いすれば、教室の前まで来てくれる。

 

 (「遥と早く帰るほうが大切だからな。」)

 

 清美ちゃんは、生徒会の業務を分割し、フレックスタイムにした。

 いまだとちょっと分かるけれど、

 聞かされた時は、わけもわからず頷いていた。


 フレックスタイムのせいで、昼休みは一緒にいてくれない。

 でも、フレックスタイムのおかげで、送り迎えをしてくれる。

 今日も、帰り道に、清美ちゃんが傍にいてくれる。

 すごく、すごくありがたい。

 

 「……今日もな、遥は。」

 

 「ん、なに?」

 

 「いや。

  うん、綺麗だぞ。」

 

 清美ちゃんは、いつも、わたしを、ごく自然に褒めてくれる。

 その言葉が、声が、嬉しくて。

 

 落ち込みそうになっても。

 学校で、街で、路上で、幾千もの厭らしい視線に晒されても。

 

 「いつもありがとね、清美ちゃん。」


 清美ちゃんが、いるなら。

 

 「気にするな。

  私がしたいだけだ。」

 

 どうしてこう、清美ちゃんはカッコいいのか。

  

 「……清美ちゃんが男ならよかったのにな。」

 

 すっと。

 正直に、出てきてしまって。

 

 「バカ言ってないで帰るぞ。」

 

 わたしの渾身の告白は、あっさりスルーされた。

 

 「うん。」

 

 苦笑いと一緒に、わたしは腰を浮かせた。


*


 また、告白された。

 

 廊下でされたら、

 廊下で断るしかないじゃないか。

 

 休み時間に告白されたら、

 その直後に、断るしかないじゃないか。

 期待を持たせちゃ、いけないから。

 

 どうして。

 わたしと、話したこともないのに。

 

 どうして。

 わたしのこと、なにも、知らないのに。

 

 怖いんだよ。

 男の人は、怖いんだよ。

 立ってるだけで、近くにいられるだけで、

 からだが、中から、震えるんだよ。


 目線が、四方八方から、突き刺してくる。

 いつものことなのに。

 肘が、膝が、がたがたと音をたてて震えてしまっている。

 

 だめだ。

 泣いちゃ、だめだ。

 こんなところで、泣くわけにはいかない。 


 どういう態度を取っても、恨まれるだけだから。

 付け込まれるわけにはいかないから。

 

 わたしは、歯を食いしばって、笑おうとした。

 でも、どうやっても、無表情にしかならない。


 悔しい。

 哀しい。

 寂しい。


 どうして、わたしは、

 清美ちゃんと、同じ学年じゃないんだろう。


 ……せめて、屋上とかにして欲しかった。

 人目につかないところなら、まだ。



 いや。

 屋上でされなくて、よかった。


*


 沢渡先輩の隣は、凪いでいた。

 

 風も吹かず、波も立たず。

 騒ぎ立てる声も、責める声も、

 怒鳴る声も、喚く声もない。

 

 くすんだ、崩れかけた、

 赤の原色をとどめられていないベンチで。


 ただ、静かに、

 時が、空気が、流れていく。


 心地よくて。

 あたたかくて。

 猫になったみたいで。


 「今日は静かだね、九重さんは。」

 

 まずい。

 キャラクターが、消えかけてる。

 

 「そーですかぁ?」

 

 「うん。

  まぁ、そのほうが綺麗だけど。」

 

 ぇ。

 

 「なんて、僕に言われても困るよね。」

 

 「…困りますよぉ。

  童貞の先輩なんかに言われてもぉ。」

 

 ぁ。

 そういう、つもりじゃないのに。

 

 しま、った。

 怒らせた。

 

 態度を、変えられる。

 暴力を、振るわれる。

 

 やめて。

 やめ

 

 「あはは、そうだね。」

 

 ぇ。

 

 「もっとカッコいい人に言われたいよね。」

 

 どうして、怒らないの。

 

 「…いやー、わたしがキレイなのは

  わたしがいっちばん、知ってますからねー。」

 

 知らない。

 清美ちゃんが、毎日、言ってくれなければ。

 

 「それだけ綺麗なら、その自信も生まれるか。

  羨ましいな。」

 

 自信なんて、ない。

 ひとっつも。

 

 「でっしょー?

  わたしがせんぱいなんかとお話してるって、

  ありえないと思って下さいねー?」

 

 違う。

 清美ちゃん以外と、誰とも、話したくない。

 

 「そうだねぇ。

  それはほんとにそう思う。」

 

 なんで。

 なんでこんな風に、穏やかに笑っていられるの。

 

 「だめですよーせんぱい。

  わたしを好きになっちゃぁ。」

 

 「あはは、それはないよ。」

 

 ない、んだ。

 

 「恐れ多い。ありえない。

  安心していいよ?」

 

 

 

 ぇ。

 

 わ、わたし、なにを。

 

 「ど、どうしたの?」

 

 「いやー、わたし、用事があったんでしたーっ。

  ぼっちの男をかまってるヒマなんてなかったんでしたっ。」

 

 薄皮一枚隔ててくれる不自然なキャラクターが、

 先輩を、わたしを、攻撃する。

 

 もっと自然にできる、

 もっと好かれるやつにすればよかったのに。

 

 好かれる。

 好かれるって、どうやって。

 

 「あはは、それは申し訳ない。

  どうぞ行って下さい。」

 

 そんな風に言われると、

 わたしが、いらないみたいじゃないか。

 

 いらない、か。

 いらないだろうな、わたしなんて。

 穢れてしまってる不器用なわたしなんて。

 

*

 

 「二組の椎名楓ちゃんってさー、

  すっごいらしいよ?」

 

 「なにが?」

 

 「だからさぁっ。」

 

 聞きたくない。

 たぶん、そんなの、嘘も入ってる。

 

 嘘かホントかなんて、関係ない。

 盛り上がれれば、いいだけ。

 どうして、こんなことを、わたしの近くで話してるのか。

 

 「ん、遥ちゃん、どったのー?」

 

 グループの和を、乱してはいけない。

 乱したら、外される。

 わたしはどうでもいいけど、

 また、清美ちゃんを困らせる。

 

 「ううん。」

 

 余所行きの笑顔を、貼り付ける。

 子どもの頃から、親に見せ続けた、完成度の高い虚像を。

 

 「うわー、

  清純派って感じだよねー。」

 

 どこが。

 もう、穢されてる。

 穢れきってる。

 

 「ほんと。

  あー。うらやましーよー。

  まじで顔面交換してくんない?」

 

 そんなこと、まったく思ってない癖に。

 その場のノリだけで言ってる。

 牽制しあって。顔色を窺って。


 この娘たちは、

 わたしが穢されてることが分かったら、掌を返すだろう。

 それはもう、鮮やかに。


 わたしは、奥歯をほんの少しだけ噛んで、

 十五年を共に過ごしたいつもの能面に、

 余所行きの笑みを貼り付けた。


*


 先輩の隣は、凪いでいた。


 くすんだ、崩れかけた、

 赤の原色をとどめられていないベンチで。

 ただ、静かに、時が流れていく。

 

 「せんぱいは童貞さんですよねっ?」

 

 「そうだねぇ。」


 何の躊躇いも、恥じらいもなく。

 

 「童貞さんってぇ、処女に憧れを持つじゃないですかぁ。

  やっぱり、せんぱいも、そうなんでしょー?

  処女じゃなきゃ許せないとかー、中古品は返却するとかー。」

 

 なんで、こんなことを、言っちゃたんだろう。

 たぶん、からかいたくて。

 穢されたわたしを、壊してほしくて。

 

 「うーん。

  ……うーん。」

 

 ぇ。

 なにか、考えてる。

 

 「それは、ないなぁ。」

 

 「ぇ。」

 

 「だって、統計的には、

  魅力がある人ほど、早く処女を無くすわけでしょ。

  だったら、処女は、魅力がない人ってことになる。」

 

 そ、そんな考え方する人、いるんだ。

 

 

 「それに、本人の意に沿わないで

  失っちゃった人とかもいるわけでしょ?」

 

 

 

 

 

 「そ、そ、そーですねー。」


 まずい。

 いま、のは。

 ほんとう、に。

 

 「だから、許せないってことはないよ。

  まぁ、僕なんか、誰も貰ってくれないけど。」

 

 「そういう考え方が童貞なんですよー。

  も、もらってくれるって、女の子みたいじゃないですかー。」


 声が、震える。

 視界が、ぐらぐら、揺らいでいる。

 

 「あー、それはそうかもしれない。

  ほんとうに一生童貞かもしれないね。」

 

 笑ってる先輩の、声が、優しい。

 どうして。どうしてなの。

 生意気な後輩に、小バカにされてるようなことしか、言われてないのに。

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