第8話 愛馬

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 早朝、エレーヌは息を弾ませながら王族専用庭園の小径を走っていた。

 蔓薔薇のアーチを抜けると、石造りの厩舎が現れる。厩に入ると、柵の向こうで月毛の馬が大人しく草を食んでいた。愛馬の健やかな様子に、エレーヌは笑み綻んだ。


「アレス、おはよう」


 エレーヌが柵をくぐって挨拶すると、アレスは耳をくるりと内側に向けて反応した。そして、甘えるように鼻面をエレーヌの胸に擦り付けてくる。


「今日はモントルイユまでいくの。あなたが生まれたところよ。嬉しい?」


 アレスの目がきらめく。エレーヌは出かける準備しようと振り向いて、絶句した。厩舎の入口に、紺色の乗馬服ルダンゴトに身を包んだマクシムが立っていたのである。


「あ、あ、あの……きゃっ」


 アレスが鼻を荒々しく鳴らし、むずがるようにエレーヌの背中に鼻先を擦り付ける。強い力ではなかったが、固まっていたエレーヌはたたらを踏んでしまった。咄嗟にマクシムが腕を伸ばして、エレーヌを支える。


「大丈夫?」

「は、はい。アレス、だめでしょう。どうしたの?」


 アレスはいつになく不満げだった。黒い瞳でマクシムをじいっと睨め付けている。


「エレーヌ、彼を紹介してくれる?」


 対するマクシムはおかしくて仕方がないと言った様子で笑いを堪えている。


「ええと、アレスです」

「はじめまして、アレス。俺はマクシムだよ。君がエレーヌの騎士だね」


 しかし、アレスはぷいっと顔を背けてしまう。エレーヌは慌てた。アレスは気性が大人しく行儀も良い馬で、こんなことは初めてだった。


「アレス、今日はへんよ。どこか悪いの?」

「やきもち妬いてるんだよ」

「や……」


 かっとエレーヌの頬が熱くなる。それを隠すためにエレーヌはアレスの首を抱いた。途端にアレスが機嫌を直す。マクシムがくすくす笑った。


「ほらね」

「からかわないでくださいっ。アレス、いい子にできないのなら、貴方を連れて行きません。お兄さまのお許しをいただいて、リリスと行きます」


 エレーヌは腰に手を当て、薄い胸を張った。兄から「きちんと躾けないとだめな馬になる」と言われているからだ。


「アレス」


 怒っているのだと伝わるように、声は低めに、きゅっと眉と唇をとんがらせてアレスを見つめる。するとアレスは悄然と首を落とした。そして、マクシムの差し出した手のひらに鼻面を押しつける。なんだか投げやりに見えるけれど、気のせいだろう。


「君の気持ちはわかるよ。エレーヌは怒っても可愛いよね」

「マクシムさまっ」

「アレスの馬具はどこかな。手伝うよ」


 厩から出る頃、アレスはマクシムの丁寧なブラッシングとお土産の人参のおかげですっかりご機嫌になった。エレーヌは釈然としない気持ちで外に出た。

 厩舎の外に一頭の黒馬を見つけて、エレーヌは目を見開く。漆黒の毛並は艶やかで、すらりとした足はいかにも駿馬らしかった。額に星のような白い斑が三つあり、それがまるで宝石のように輝いて見えた。


「ユディト」


 とマクシムが呼ぶと、ゆったりと黒馬――ユディトが頭を上げる。気高い眼差しがエレーヌに向けられ、どきりとする。


「エレーヌとアレスだよ。今日一緒に駆ける仲間だ」


 と、マクシムがエレーヌとアレスを紹介するが、ユディトは見据えるような視線を向けたまま、黙っている。

 ユディトの眼差しが厳しいのは気のせいだ。怖気付いてはいけない、とエレーヌは自分に言い聞かせた。


「はじめまして、ユディト。貴女はとても美しいわね」


 ユディトは気高い様子で黙っている。鼻を鳴らしたり、二の足を踏むようなこともしないし、きちんと躾けられているのが分かった。


「彼女とは一緒に戦地をかけたこともあるんだ。あまり重量はかけられないけれど、スピードは誰にも負けない」


 マクシムの眼差しにはユディトに対する深い愛情と信頼があった。エレーヌはちくんと針で胸を突かれたような心地になる。

 ユディトとマクシムの間には、侵しがたい絆がある。ユディトもそれを分かっているようで、エレーヌのような小娘が現れても動じないのだ。

 なんだか複雑な気持ちになりながら、エレーヌは気を取り直した。


「今日はよろしくね。さ、アレスもご挨拶して」


 アレスは自身より一回り大きな牝馬に萎縮していた。彼女の持つ女王のような風格に圧倒されてしまったのだろう。

 ユディトはアレスを一瞥すると、小さく鼻で笑った。完全に格下を見る眼差しだった。


「アレスを気に入ったみたいだね」

「……」


 もしかしたら、マクシムは乙女心には疎いのかもしれない。エレーヌはそう思ったが、黙っていた。

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