4-7 Escape From Today

 一頻り泣き叫んだ澪は漸く落ち着いたのか、息を切らしたまま言った。

「流雫がいたから……、あたし、生きてる……。……ありがと……流雫……。……また、連絡するね……」

流雫の返事を待たず通話を切ったのは、特殊武装隊の隊員が目の前に立ったからだ。澪は、今から自分はどうなるのか、何をすべきなのかはよく判っている……と思っている。

 結奈と彩花から離れて体を起こした澪は

「……ありがと、結奈……彩花……」

とい残し、2人に背を向けた。

 隊員の同行で、大きな警察署まで行くことになった澪は、近くに駐められていた警察車両の後部座席に乗せられる。福岡県警のテロ対策本部が、其処に設置されているらしい。

 ……修学旅行に来て、1日で2回も事情聴取とは。ただ、理由はどうあれ銃を撃った以上は仕方ない。……泣いていたからか、目が少し痛い。

 サイレンを鳴らしながら車が動き出すと同時に、澪のスマートフォンが鳴る。父、常願からだった。

 「ニュースを見たが、まさか暴動に遭っていないだろうな?」

今まで悉く事件に遭遇してきた娘のことだ、また遭遇したに違いない……そう思った父の第一声に、娘は溜め息をつきながら

 「遭ったわ。狙われて撃っちゃった。今、県警のテロ対策本部に連行されてる」

と答える。父は溜め息をつきながら問うた。

「またか。……怪我は?」

「無いわ。結奈や彩花も無事。……流雫の助けが無ければ、どうなってたか……」

と澪が答えると、父は再度問う。

 「流雫くんが?」

「ネットのニュースを見て連絡してきて、それから一部始終通話してて。あたしが見えない場所の情報を、随時……」

その娘の答えに

「そうか。今度礼をせねばな」

と言った父は、本題に入る。

 「ところで、俺は今からその対策本部に行く」

「え!?今から福岡に?」

澪は目を丸くする。昼間、何も言っていなかったのに……?

 「今日のテロの絡みでな」

とベテラン刑事が答える。その2文字が何を意味しているか、澪はすぐに察した。

 「……昼間、あたしが空港で見たの、やっぱり……?」

その言葉に、ナビシートに座っていた特殊武装隊員が澪に目を向ける。父は、澪の問いには答えず言った。

「……22時頃に着くだろう。多分今日は会わないとは思うが。……俺は今から中央空港に向かう」

今から東京中央国際空港へ……最終便に乗るのだろう。

 「……気を付けてね」

と澪が答えると、通話は切れた。特殊武装隊員は怪訝な表情を浮かべた、謎の少女に問う。

 「昼間、空港だと……!?」

「……昼間の空港の自爆テロ……、あたし目撃していて、取り調べも受けていまして……」

澪が言うと、隊員だけでなく運転席でステアリングを握る警察官も目を丸くした。

「その件で父が……、今から福岡入りすると……」

「……何をやっている人なんだ?」

警察官は恐る恐る問う。

「刑事です。警視庁のテロ専従で……」

澪は淡々と答える。2人は唖然とした。

 ……まさか、刑事の娘が暴徒を撃ったとは。ただ、或る意味話が早い。


 流雫は通話が切れると、ブルートゥースイヤフォンを外した。机のアナログ時計は18時過ぎを示している。

 ……タワーにいた澪のスマートフォンを最初に鳴らして、それから未だ40分ぐらいしか経っていない。しかし、1時間を優に超えているように思えたのは、それだけ慌ただしかったと云う証左だ。

 澪や彼女の同級生は無事だったものの、未だ暴動は続いているのがSNSとニュース速報で判る。今はとにかく、このまま鎮静化するのを願うしかない。

 流雫はスマートフォンを握り、ダイニングへと向かった。そろそろディナータイムの最終準備の時間だ。


 繁華街近くの警察署に着くと、そのまま取調室に通され、すぐに取り調べが始まった。

 海浜タワーからホテルまでの間に自分が見たこと、その全てを話すよう言われ、澪は先刻泣き叫んでいたとは思えないほど、淡々と答えた。

 流雫と話していたことや、昼間の空港での一件も話すことになるが、警察にとっては多少なり思わぬ収穫も有ったらしい。

 銃を握ったことに関しても、正当防衛で処理されることがその場で決まった。ダウンジャケットの男が、隣にいた結奈を射殺しようとしていたのは明白で、澪が彼女を押し倒すのが一瞬遅れていれば、結奈は頭を撃たれていた。そして、その隣にいた澪も殺される危険性が有ったことが、その根拠だった。

 「修学旅行に来て1日に二度も遭遇するとは、君も災難だ」

と、昼間の調書を読みながら警察官は言ったが、しかし本当に災難だったのはあたしじゃない……、と澪は思っていた。

 取り調べそのものは1時間半程度で終わった。澪はそのままホテルへ送られた。車から降ろされると、特殊武装隊が短距離ながらボディガードに付いてきた。

 閉鎖された入口の代わりにホテルの従業員用の出入口から通され、セミロングヘアの少女はフロント前のロビーへ辿り着く。漸く平和が戻ってきた……ように思えた。

 「澪!」

セーラー服を着たままの彩花が、フロント前で出迎えた。警察署を出る時に一言メッセージを入れていたが、それから待っていたのか。……それより、気になることが有る。

 「……結奈は?」

「今シャワーに……、……じゃないか。……自分が殺されそうになったことで……かなり参ってる。ディナーのビュッフェもなかなか手を付けられなくて。事情を話して、部屋まで持って行って2人で……」

澪の問いにそう答えた三つ編みの少女も、2人が撃たれそうになっていたのを目の当たりにしたからか、表情に何時もの明るさは見えない。

 彩花の彼枠のボーイッシュな少女は、秋葉原の青酸ガステロの時でもそうだったが切り替えが早い。ただ、それも流石に限度は有る。露骨に自分の命が狙われていたのだから、それも当然か。

 「そう云えば、早く行かないとビュッフェ、終わっちゃうよ?」

と彩花は言ったが、澪は

「……いいよ。それより結奈が……」

と腹部を軽く押さえながら断った。

 朝、家を出る前にトーストを囓って以降、半日近く固形物を口に入れていない。確かに空腹ではあったが、それよりも気になることが有る。

「ダメ。澪は昼も無かったんでしょ?……自分を大事にしなきゃ」

そう軽く諭すように言った彩花は澪の手を引っ張り、1つ上のフロアへと連れて行った。

 ビュッフェの時間は交代制で、澪たちのクラスは最後だったが、それも10分後に終わる。

「時間も無いし、パックに詰めるけど、適当でいい?」

とプラスチック容器を手に問うた彩花に

「……パンとスープだけでいいよ……」

とだけ答えた澪は、俯いたまま紙コップにベジタブルジュースを注ぐ。その間、彼女以外に澪に話し掛ける生徒はいなかったし、誰もが距離を置いていた。

 彩花はその様子に溜め息をつき、クロワッサン2つとポテトサラダをパックに詰め、クラウチャウダーを別の容器に注ぐ、澪と並んでビュッフェを後にした。

 エレベーターで自分たちのフロア……最上階の12階に着くと、彩花は澪を部屋に通す。

 持ってきていた淡いレモンイエローのルームウェアに着替え、ベッドに座って俯く結奈がいた。音量は小さめながらも、スマートフォンのスピーカーで好きなアーティストの音楽を流しているのは、外で続く暴動の喧噪をシャットアウトしたいからだろうか。

 「澪……?」

結奈は1時間半ぶりに再会した同級生に振り向き、弱々しい声で名を呼ぶ。

「結奈……?」

と名を呼び返し、彼女の隣に座る澪は、タワーに2人を残していればよかった、と思っていた。そうすれば、結奈に銃口が向くことは無かった。

 他の生徒が気になったから、ホテルに戻ろうとした。それが仇になった。自分が引き金を引いたことは、この際どうでもよくて、結奈が狙われたことは完全に自分の過ち……そう思っていた。

 「何が何だか……」

と呟いた結奈に、澪は

「あたし……」

と言い掛けたが、結奈は遮って

「……でも、澪は……ボクたちを助けた」

と続けた。

 ……澪が悪いワケじゃない。悪いのは、澪の制止を聞かず行くと決めたボクだ。結奈はそう思っていた。

 「……ちょっと、シャワーに行ってくるね」

と彩花は言い、澪と結奈を2人きりにする。

 ……彩花も、どうしていいのか判らなかった。

 天狗平の顔に耳を当てたのは、6秒間での呼吸数で、トリアージのカテゴリーが変わる場合が有るからだった。当然、トリアージの資格は持っていないが、あの時も呼吸が有ることで少しだけ安堵できた。

 運動系は苦手な彩花は、その代わりにもしもの時に備え、そうした知識を少しずつ得ていた。情報と知識は少なからず武器になる、そのことを誰より知っていた。

 知らなければ何もできないが、知っていれば何ができるか、多少なり選択肢が広がる。それで少しでも、結奈や澪、それに誰かの役に立てるなら。

 ただ、それでも己の力不足を痛感させられた。

 シャワーを浴びると言いながら、結奈はバスタブに湯を張っていた。ならば、この靄を湯に溶かして全て流したい。

 彩花はセーラー服の首元に手を掛けた。


 十数分の沈黙。互いに何を話してよいのか判らず、ただ隣同士で座っているだけだった。外の暴動は、幾分下火になったが未だに続いている。

 ふと、結奈は澪を抱き寄せて言った。

「他の生徒が心配だからって……、戻らなきゃよかった……」

「結奈?」

澪は同級生の言葉に怪訝な表情を浮かべる。

「彩花も怖い思いをしなくて済んだし、澪に撃たせることすら無かったのに……」

と、結奈は呟くように言った。自分が撃たれそうになったことより、そのことで参っている……、澪にはそう思えた。

 「だから澪が、煙たがられてる……」

その言葉に、澪は怪訝な表情を浮かべた。

 「1組の室堂が人を撃った」

と云う話が、澪が特殊武装隊に保護された直後から学年中に広まっていた。その経緯など、第三者にとってはどうだってよく、単に刑事の娘が人を撃った事実だけが取り沙汰されていた。

 「初っ端にテロに遭遇して、このすぐ近くで暴動も起きてて……。澪が災難を連れてきた……、なんて思われてないといいけど」

そう言った結奈の言葉は、しかし残念ながら当たっている、と澪は思った。

 だから、先刻のビュッフェでも誰も近寄ろうとしなかった。それなら合点がいく。彩花がついた溜め息は、その同級生たちの態度に辟易していたからに違いない。

「……はぁ……っ……」

澪は溜め息をついた。

 他の同級生の心配をするだけ損した、と澪は思った。しかし、2日前に秋葉原で流雫に洩らした修学旅行への不安は、完全に予想外の方向で的中した。

「澪がいなきゃ、今頃……」

と結奈は呟く。

 澪が押し倒していなければ、一瞬でも遅れていれば……。文字通り一瞬が生死を分ける事態に直面し、ただの女子高生が平静でいられるワケがない。それは、普段から少し姉御肌みたいな部分が有り、頼もしい結奈だって例外ではない。

 「……彩花も澪も、ボクも……みんな生きてる……。だから安心した……」

そう言って結奈は、少しだけ口角を上げる。

「結奈……」

と澪が囁いた瞬間、バスルームのドアが開いた。

 「あ!澪ズルい!結奈は私のものだよ?」

と恋人のスキャンダルに彩花は声を上げた。ピンクのルームウェアに袖を通し、トレードマークの三つ編みを解き、黒いストレートのロングヘアを揺らしている。

 「だって隣にいたんだし、たまには澪に浮気したいよ」

「結奈も結奈で……!知らない!」

結奈の罪悪感ゼロの答えに、彩花は笑いながら不貞腐れた。……そうやって2人の茶番が始まる。どうにか、何時もの2人が戻ってきたように見える。

 ……2人を見ているのは楽しい、しかし澪は今の自分が場違いだと思った。

「……結奈も彩花も、無事でよかった。あたし、シャワー浴びてくるね」

と微笑みながら言い残した澪は、結奈から離れて立ち上がると2人に背を向け、微笑を消し、ドアを開けた。

 2人部屋のドアが閉まると同時に、隣の部屋にカードキーを翳した澪は、真っ暗の1人部屋に入る。カードキーを入口のソケットに挿すと、スーツケースだけが置き去りにされた部屋の照明が点く。しかし、すぐに全て消した。

 外の騒乱は未だ止まない。カーテンの端から漏れた赤い回転灯の光が、部屋を規則的に照らしている。

 デニムのジャケットすら脱がないまま椅子に座った少女は

「ルナ……」

とだけ打った。


 ディナータイムの片付けが早く終わった。ようやく自分の時間が訪れた流雫が階段を上がっていると、スマートフォンが鳴った。

「ルナ……」

とだけ送られてきた、澪からのメッセージ。流雫は部屋に入ると同時に

「ミオ?」

とだけ返そうとしたが、開いたままのタブレットPCに映し出されるSNSで、福岡の暴動は先刻より多少の落ち着きを見せたものの、未だ鎮静化されていないことが判る。……それなら。流雫は迷わず通話ボタンを押した。


 スマートフォンの画面に通話ボタンが浮かび、着信音が流れる。澪は一呼吸置いて押し、端末を耳に当てた。

「メッセージでよかったのに」

その第一声に返してきた、流雫の

「声……聞きたかったから」

の一言は、澪を安心させた。……話すことが、外の騒音から逃れるのに最適なことだと思っていたからか。流雫ならやりかねない。

 ……シャワーを浴びると言って2人の部屋を出たが、本当は2人の顔を見ていられなかったからだ。2人の戯れる様子は、しかし今の澪には重く突き刺さる。2人の微笑を消したのは、あたしと一緒だったからだ、と。

 溜め息をついて、澪は言った。

「……2人を……タワーに残せばよかった……。そうすれば、2人はあんな目に遭わなくて済んだのに……」

 澪は結奈を止めようとしたが、押し切ったのは彼女だった。……止められなかったのは、あたしが弱いから。喧嘩してでも、止めればよかった。そう、今になって思う。……否、そもそも他の同級生が気になったことが全ての元凶で、つまりはあたしの正義感が招いた、と……。

 結奈が殺されなかったのも、一瞬だけ澪が動くのが早かったからに過ぎない。澪は机に肘を突き、スマートフォンを持たない手で、綺麗なセミロングヘアを鷲掴みにした。

「……あたしが悪いんだ。だから、結奈も彩花も……周囲から煙たがられてる……」

その声色が少しずつ変わっていくことに、流雫は気付く。

「澪?」

「あたしと一緒にいるから……とばっちりを受けてる……。あたしと一緒だったばっかりに……っ!!」

澪は嗚咽混じりに叫んだ。

 ……結奈は、澪が煙たがられていると心配していた。……本当はそう見られているのは最後にホテルに辿り着いた自分たち3人まとめてで、でも彼女は銃を撃った少女を気に懸けていた。そして、恐らくは彩花もそうだった。

 思えば、結奈と彩花がテロや暴動に遭遇したのは、決まって澪といる時だった。5月の池袋の時は偶然だと思っていたが、8月に秋葉原で青酸ガステロ事件に遭遇した時に、偶然ではないと薄々気付いていた。ただ、その現実から目を背けていたかった。

 それでも顔色一つ変えず、何時ものように接してくる2人に頭が上がらない。だからこそ、彼女たちが受ける疎外感の元凶が自分であることに、澪は罪悪感を抱えていた。

 「澪は……。……僕だって澪を……止めればよかった……」

そう言いながら立ちっぱなしだった流雫は、タブレットPCの電源を落としてベッドに座り、続ける。

「そうすれば、澪だって撃たなくて……泣かなくて済んだのに……」

「……っ……!……流雫は……!」

そう言い掛けた澪は、言葉に詰まる。……最愛の少年に何を言わせているのか。

 慟哭で途切れ途切れになりながらも、澪は俯き、叫ぶような声を上げた。

「流雫はっ……!悪くないっ……!だって、先刻だって……っ……!……あたしのためにっ……!!」

 ……流雫はアプリの通話をつなげたまま、30分以上も澪に付きっきりだった。名前を呼ぶだけでも、それだけで心強かったし、タブレットPCの前に張り付いていたのだろう、あの場にいるだけでは判らない情報も得られた。流雫の存在が、3人が無事ホテルまで逃げ切った最大の要因だった。

 流雫は寧ろ、あたしに褒められ讃えられるべきだ……、そう澪は思っていた。

「……澪だって、2人のために戦って、みんな無事だったんだ。それだけで……」

と言った流雫の声を、澪は遮る。

「そう云う問題じゃ……!」

「澪は悪くない。悪いのなら、僕だって同罪だよ」

「流雫……」

澪は、自分の叫びに優しく言葉を被せてきた恋人の名を呟くだけだった。流雫が……あたしと同罪なんてやだ……。流雫は何も悪くないのに……。

 「僕は澪を誇りに思ってる。……こんなに人のために泣けるんだから。でも、泣いてほしくない。僕が耐えられないんだ」

そこまで言って、少しだけ言葉に詰まる。小さな溜め息を吐いて、流雫は続けた。

「だから、笑いなよ……澪」

 その言葉に、澪の心臓が早く鳴った。


 「……笑いなよ。自慢しなよ。流雫の恋人は澪だけなんだから」

何時か見た、澪の深層心理が生み出した美桜とのデートの夢。笑えない澪にそう言った美桜は、微笑んでいた。まるで、流雫をあたしに託したかのように。

 流雫が失ったかつての恋人とリンクする彼の言葉に、澪は美桜の面影を見た気がした。

「美桜さん……」

澪が思わず呟いたその名前を、流雫は逃さなかった。

「……澪?」

澪は、美桜の名を知っていた。初対面の日に、流雫から聞いていた。そして、彼女に何が有ったのかも。ただ、澪の口から聞いたのは、初めてだった。

 「……美桜さんも、今のあたしを見たのなら……、流雫と同じこと、言ったのかな……」

と澪は言った。

 ……流雫には、あの日見た夢のことを話していない。だから、そうやってはぐらかした。ただ、……答えなんて判りきっていた。

 「……ファンタジーみたいなこと、言うけど……」

と前置きして、彼は目を閉じて続けた。

 「もし、美桜が澪に僕を託してるのなら、言ってると思う。僕は美桜に、何もしてやれなかったってのに……」

流雫の悲しい声に、澪はそう言わせたことに少しばかりの罪悪感を抱えた。

「……だから、澪には笑ってほしいんだ……この世界の誰よりも」

泣かないようにと、精一杯微笑んでみたような流雫の声が、澪に突き刺さる。

 「流雫……」

今日だけで、何度その名を呼んだだろう?こう云う時に、最愛の人が隣にいないことが、どれほど心細いのか……、それが澪を縛り付ける。

 ……会いたい。慰めてほしい。抱きしめてほしい。叶わないことだと判ってはいた。それでも。

「ありがと……流雫……。……でも、笑えない……今日だけは……」

澪は頭を抱えたまま、呟くように言った。

 ……でも、明日は笑えるようになりたい。だから早く、今日が終わってほしかった。今日と云う日から、逃げ出したかった。


 流雫は立ち上がり、部屋の照明を消して窓を開けた。エアコンが効いた部屋は途端に肌寒くなる。

 厚い雲に遮られたままの夜空に、ブレスレットを着けたままの右手を伸ばしてみる。

 ……台場で、星無き夜に手を伸ばしたあの日、澪は流雫に

「……笑って?あたしがついてるから」

と言った。でも、笑えないのは澪だって同じだった。

 だから、いっしょに笑いたい。渋谷で澪の恋人になった夜、河月で天の川を見た夜、そしてSNSで出逢って1年を迎えた日の夜のように。世界中の幸せを全て掻っ攫い、掻き集め、僕と澪を見下ろす空に降り注がせたかった。

 「笑えなくても、澪には僕がついてる……」

流雫が囁くと、澪は目を閉じた。……頬が乾く気配は無い。

「……うん……ありがと……流雫……」

その囁くような声に流雫は、澪に微かな微笑が戻った気がした。

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