4-6 Riot Girl

 トリコロールのヘルメットを被り、ネイビーのロードバイクのハンドルに手を掛けた流雫は家路を急ぐ。帰り着いてすぐ、バスルーム清掃か料理か……どっちにしろ、自分が遭遇したワケではないが昼間に襲ってきた靄を、日課のペンションの手伝いに没頭して晴らしたい。それでバイト代が得られるから一石二鳥だ。

 ユノディエールの看板が立つペンションに帰り着くと、バスルーム清掃は未だだった。流雫は乗り気では半袖とショートパンツのルームウェアに着替えると、スマートフォンを防水パックに入れた。ラジオ代わりにと動画サイトでニュースを流すためだ。

 スポンジと洗剤を手にした流雫の耳に、先に手を付けたシャワールームに反響する動画の音声が飛び込む。

 ……ニュースの話題は、やはり福岡での空港自爆テロが中心だった。8月まで東京や山梨で起きていた一連のテロ事件……澪がTGと隠語にしたトーキョーゲート……との関連性については捜査中だと報じられている。

 そして、それに伴ってか福岡市内には、難民排斥を掲げるプラカードを持った集団が現れたと云うニュースも流れた。流雫は思わず手を止め、端末のディスプレイを見る。

 ……ドーム状の屋根の大きな建物を背後に、十数人が集結している。それが後々、シュプレヒコールを上げながら何処か練り歩くのだろうか。

 「はぁ……」

流雫は溜め息をつき、シャワールームの洗剤を一気に洗い流した。

 ……テロを受けて、有志による抗議デモが突発で開かれる。一見それだけのことだったが、流雫にとっては不気味でしかない。

 そもそも、犯人像も判っていないのに難民の仕業だとして行動に移している。それも、事件から4時間ほどしか経っていないのに、だ。……その手口は、普段からヘイトスピーチを好んでいる連中ならではだ、と流雫は思っていた。

 敢えて連中の味方をするなら、突然の連絡に、澪は少しだけ不穏な予感がした。トーキョーアタックも実行犯は難民だった。ただ、それも黒幕の政治家や難民支援団体OFAによってマッチポンプのマッチ、簡単に言えば使い捨ての駒にされた、と云う事実にも、同時に目を向ける必要が有るが。

 だが、あの場所は……?

 隣のバスルームに手を付けていた流雫は、スポンジをバスタブの縁に置くと、スマートフォンを防水パックから取り出し、マップのアプリを開いた。


 もう少し夜景を堪能するのもよかったが、澪は休息を選んだ。体はどうってことないのだが、頭が疲れていた。理由は、言わずもがな。

 その少女のスマートフォンが鳴ったのは、エレベーターに乗る直前だった。結奈と彩花は先に乗ったが、そのタイミングで満員だったらしく、次のエレベーターを待っていて、ようやくそれが着いたところだった。

 流雫からの突然の連絡に、澪は少しだけ不穏な予感がした。だから少女は踵を返して通話ボタンを押した。

 「いきなりだけど、今いい?」

流雫の第一声に、澪は怪訝な表情で問うた。

「いいけど……、……何か有ったの?」

「今……何処?」

流雫は問い返す。

「福岡海浜タワーってとこ。景色よかったから、後で写真送るね」

澪の答えに

「サンキュ」

と返した流雫は、しかしその居場所が引っ掛かった。海浜タワー……?確かその近くに円形の建物が有るハズで、名前にもドームが入っている。……まさか。

 流雫は、数秒だけ間を置いて本題を切り出した。

「……それより、その近くに半円形の大きな建物って有る?」

「……有るよ?ドーム球場」

流雫が問うた特徴の建物を見下ろしながら、澪は答えた。思わず、流雫は声を上げた。

「!……くっそ……!」

その苛立った声に澪は、スマートフォンが鳴った時点で襲ってきた不穏な予感に、覚悟を求められた気がした。澪は一呼吸置いて、問うた。

 「……流雫?どうしたの?」

「……今ニュースでやってる。そのドームで、抗議デモをやってるっぽい」

「……え?」

恋人の言葉に反射的に問う澪の声には、戸惑いが滲んでいた。

 「空港の自爆テロに対す……」

あくまでも冷静を装い、そう言い掛けた流雫のスマートフォンに、通知が割り込んできた。バイブレーションのパターンから、ニュース速報だと判る。

 「ちょっと待って……?」

流雫は言い、端末を顔から離してポップアップ通知からニュースを開く。

 「福岡で暴動発生」

との見出しの下に

「九州ドーム前で、デモ隊同士の衝突から暴動が発生した模様」

とだけ書かれてあった。

 流雫は大きな溜め息をついて、恋人に告げる。

 「……澪?……デモが暴動になった」

その一言に、澪は目を見開き、思わず大きな声を上げた。

「ぼっ……それっ……!帰れない……!?」

その声に、周囲の生徒たちが少女に目を向けた。

 「澪?」

と問うた流雫に、澪は

「ホテル……ドームの隣……」

と冷静を装いながら告げた。だが、流雫を更に困惑させただけでなく、澪自身にも残酷な現実を直視させる。

 ……隣と云うだけならまだマシだが、ドームの前を通らなければいけない。先刻も通ったが、デモなどは見えなかった。タワーに上がっている間に何処からか集結したのか……?

「……数分後、掛け直していい?」

「……待ってる……」

流雫の問いに澪が答えると、通話は切れた。それと同時に、エレベーターのドアが開く。澪は頭の整理がつかないまま、最初に乗った。

 外には目を向けず、流雫との通話中に届いた通知から、彼が見ていたのと同じ記事に目を通す。

 九州ドーム。九州唯一のプロ野球チームが本拠地を置くドーム球場で、時々コンサートなども開かれる。今は稼働していないが開閉式の屋根を持つのが特徴で、福岡海浜タワーと並ぶ福岡のシンボルだ。

 今年の福岡でのプロ野球の予定は半月前に終わっていて、今日は何の予定も無く、本来ならば散策する人ぐらいしかいない……ハズだった。それが、まさかこう云う事件の舞台になるとは……。

 エレベーターに乗っていたのは1分ほどだったが、澪には数分にも感じられた。

 何が起きているのか、何故暴動になったのか、どうやってホテルへ戻るか。……しかも1人じゃない。結奈や彩花もいる。どうして、彼女たちがいる時に限って……。

 

 流雫はスマートフォンを防水パックに戻し、少し熱めに設定したシャワーのハンドルを一気に回した。排水口に勢いよく流されていく洗剤のように、何もかも流せればいいのに……。そう思いながら、目を閉じて溜め息をついた。

 バスタブの清掃が終わると、流雫は湯を張り始める。と云っても給湯ボタンを押すだけで、後は自動的に止まるため特に何もしなくてよかった。

 流雫は親戚に断りを入れ、自分の部屋に入るとスマートフォンに充電ケーブルを挿す。そして、コード付ブルートゥースイヤフォンを接続し、改めてサバトラ柄の猫のアイコンに触れ、通話ボタンを押した。


 エレベーターのドアが開くと、結奈と彩花が待っていた。

「上で何か有ったの?」

と彩花が問う。次のエレベーターで下りてくるハズが、更にもう1本後で下りてきたからだ。

 「……ちょっと来て」

と澪は2人に言った。少し間を開けたのは、どう切り出すか迷いながら、それでも黙っているワケにはいかなかったからだ。

 「どうしたの?」

「ちょっとね……」

彩花の問いに思わせ振りの答えを出した澪は、しかし先に行ったらしい他の生徒が気になっていた。結奈はその様子に、何かよくないことが起きている予感がした。

 その時、澪のスマートフォンが再び鳴った。流雫からだ。澪は通話ボタンを押した。

「遅くなった」

流雫の言葉に、澪は

「……どうしよう……」

と言いながら、流雫とお揃いのコード付ブルートゥースイヤフォンを接続し、片耳だけ填めた。これで、流雫の声も結奈や彩花の声も、両方拾える。

「今は戻るな……そうとしか……」

と流雫は言う。それが最も無難だと、澪だって判っている。だが。

「あたしたちはいいけど、他の生徒が……先に戻り始めてる」

と澪は言った。普段から一緒に遊ぶトリオの中心人物が今見せている表情と声色に、結奈と彩花は互いを見ながら戦慄の表情を露わにした。

 「……流雫……、このままで……つながっていたい……」

と澪は言った。それだけで、何が起きても生き延びる……そう思うだけの強さを手に入れられる。

「……うん。……澪には、僕がついてるから……」

と流雫は答える。

 何度も、覚えていないほど言った。しかし、その言葉が澪にとって何よりの力になることを彼は知っていた。逆も然りだった。

「ありがと、流雫」

澪は言い、少しだけ俯いた顔を上げた。

 「澪?」

「今度は何が?」

結奈と彩花が続けて問うてくる。澪は一呼吸置いて言った。

「ドームで暴動が起きてるらしいの。今、流雫から聞いた」

「……暴動……!?」

「どうして、こんなことに……」

と続いた2人は動揺する。

 澪は一瞬、言わなければよかったと思った。ただ、言わなければ2人をこの場所に留まらせられない。澪は冷静を装って2人に告げる。

「あの空港テロに対するデモ隊が衝突したって……」

「じゃあ、あの生徒たちは……!」

と声を上げた彩花は血相を変える。澪は制するように言った。

 「彩花は此処にいて。結奈も」

その言葉に結奈は、澪が何を思っているのか判った。

「澪、まさか……」

「修学旅行にまで銃を持ってくるなんて、あたししかいないわよ」

澪は吹っ切れたように、しかし自分自身を嘲笑うかのように言った。そのダークブラウンの瞳に潜む悲壮感を、2人が逃すハズは無かった。

「澪!」

「……正気なの……?」

結奈が彼女の名を呼び、それに続いた彩花の一言に、トートバッグからブレスレットを出した澪は答える。

「……正気よ」

 ……その遣り取りを聞いていた流雫は、彩花と同じ言葉を澪に言われたことを思い出した。初対面のアフロディーテキャッスルと、ジャンボメッセで。その時も彼女と同じように答えた。それは、銃を持たない澪の同級生2人には判らないだろうし、判ってほしくなかった。判らないに越したことはないのだ。

「……まさか、澪……」

流雫も思わず恋人の名を呼ぶ。澪の声だけが聞こえてくるが、それだけで彼女が福岡で、同級生2人と何を話しているのか、何となく想像はつく。

「ダメだよ、危険過ぎる!」

と言った流雫の声が刺さる。それは判っている。だけど、やはり。

 澪は右手を握り締め、胸に当てる。その手首は、今着けたばかりのブレスレットが目立つ。

 オレンジ色のティアドロップのチャームがアクセントになった、流雫からの誕生日プレゼント。イヤフォン越しの声とブレスレットが、誰よりも愛する存在が、離れていても自分の隣にいることを感じさせた。

 ……そう、あたしには流雫がいる。だから、あたしは。

「あたしには、流雫がついてるから。死なない、殺されない」

 今更ながらワンパターンに思える覚悟の決め方は、しかし澪にはそれしかできなかった。……両親譲りの先走る正義感を、今更止められるワケが無かった。

 

 「……ボクも行く」

結奈は言った。それに彩花が続く。

「私も」

その声に澪は被せる。

「ダメだよ。だって、2人は銃を……!」

何が起きているのか判らないのに、銃を持たないのに行くのはあまりにも危険過ぎる。

「だからって、こんなとこで待ってるだけってのも癪なんだ」

と結奈は澪の目を見つめて言った。……結奈も正義感が強いことを、澪は忘れていた。

「でも……!」

澪は声を上げる。しかし、その隣から

「……澪が行くなら、私たちも行く」

と彩花は言った。……行かない選択肢は有る。そうすれば、2人も無事だ。しかし……。

「行こう」

と結奈は言って澪に背を向けた。彩花もそれに続く。澪には、その背中を追う以外の選択肢は、最早残されていなかった。

 「……行くの?」

流雫は問うた。澪は

「……行くしかないわ」

と言った。……流雫も覚悟を決めるしかなかった。小さなスタンドに掛けてあったブレスレットに手を伸ばす。

 ルビーの三日月がチャームになったブレスレット。元はレディースだが、澪との誕生日プレゼント交換で彼女と合わせた。

 ……微かな重みに、澪を感じる。そうやって、少し自分にプレッシャーを掛けた。澪が死なないように、最後まで戦うだけだ。


 流雫はスマートフォンで通話を続けながら、机の前に立ったまま、タブレットPCでニュースサイトとマップサイト、そしてSNSをマルチウィンドウで開いていた。

 ニュースサイトは速報性にやや劣るが詳細が比較的出やすい、マップサイトは澪たちの動線を確かめるため、そしてSNSは2日前の秋葉原のようなヤジ馬連中がアップする速報に強い。

 先刻、バスルームでタワーやドーム周辺の地図を表示させていた流雫は、何故抗議デモがわざわざ街の中心部から外れたこの界隈で開かれるのか、答えが見つかった気がしていた。それが、PCの大きい画面で改めて見ると、当たっていると云う確信に変わった。

「そっか……」

流雫の呟きに、小走りの澪が反応する。

「どうしたの?」

流雫はそれに答える。

「……ドームの近くに、極東各国の領事館が有る」

 「領事館?」

澪の問いに、流雫はスタイラスで画面を突きながら答える。

「ロードビューワーで見ると判るけど、交番も有るし警官が張り付いてる」

……領事館の近く、空港の自爆テロ、デモ隊の衝突……。それらが線として結び付く。流雫には、暴動の原因が見えた気がした。

 「それとデモが……?」

と澪が問うと、流雫は答えた。

「……恐らく、在日外国人へのヘイトと難民排斥が結び付いたデモ、その動きを察知したカウンターデモが妨害に出た……」

 「え……?デモ隊同士の……衝突って、……抗議デモと、カウンターデモが……?」

澪は信号に引っ掛かり足を止めると、軽く息を切らせて言った。流雫はそれに答える。

「僕はそう見てる。デモ隊同士の衝突で暴動に至るなんて、種類は限られてて、それしか浮かばないんだ」

 ……僕はそう見てる。ただそれだけで、全ては妄想であってほしい。その願望には悉く裏切られてきたが、今度ばかりはそうであってほしかった。一度ぐらい叶ったっていいだろう?

 そう思った少年は、唇を噛む。

 「機動隊は?特殊武装隊は?」

「ニュースの更新は未だ……」

澪からの更なる問いに、流雫が答えると、漸く信号が青になった。

 信号待ちで澪が追いつけなかった結奈や彩花は、信号の反対側で待っていた。ドームの界隈とタワーの界隈を隔てる川、その橋の上で合流すると、ドームの方向を見た。


 九州ドームの観客用エントランスはペデストリアンデッキの上に有り、ホテルへ向かうにも一度其処を上り下りする必要が有る。手前の高級ホテルならドームへ行かなくてよかったが、修学旅行に贅沢は言えない。

 そして暴動に発展した衝突は、そのペデストリアンデッキへの長い階段の下でも、小競り合いが新たに起きている。ドームの前には大きな商業施設が有るが、その動線は避難する人で混んでいる。しかも、一体型として建設された居住区画の住人の動線を確保するために、通行制限が敷かれていた。

 地上フロアの駐車場への動線は閉鎖され、侵入すれば遠回りだが辛うじて……とはならない。侵入もただ通るだけだし、事態が事態だけに、大目に見られる……とは一瞬思った。だが、其処でも既に衝突が起きていたことが問題だった。

 上と下、どっちにしろ暴動のすぐ脇を通って行かなければならないことを意味していた。それは何らかの弾みでとばっちりを受ける危険が有ることを、3人に突き付ける。

 ……ただのデモ隊同士の衝突、その範疇を既に超えている……。……この少し離れた場所からでも、2日前の秋葉原ハロウィンテロより大きな騒乱になっているのが判る。

 「な、何よこれ……!」

と声を上げた彩花が、眼鏡越しに目を見開き震える。結奈も

「どうなってるんだ……」

と眉間に皺を寄せて声に出し、呆然とする。

「流雫……逃げる動線が無い。最悪、他の生徒は群集に……」

澪は、今思いつく限り最悪の可能性を、河月にいる恋人に洩らした。


 「流雫……逃げる動線が無い。最悪、他の生徒は群集に……」

澪の言葉に、流雫は頭を抱える。見るだけ、昔の言葉で言えばROM専になっているSNSには、今の様子の写真や動画が次々に投稿されていた。

 ……8月に秋葉原で起きた、デモからの対警察の暴動に発展したケースとは異なる、デモ隊同士の衝突からの暴動。構図はそうと見て間違いないが、それは8月の時よりもSNSを軸に拡散されていた。

 そして……社会や特定の事柄に対する義憤に駆られた連中と、その光景を目の当たりにした挙げ句箍が外れた連中とが入り乱れる様相を呈している。混沌と云う言葉は、この瞬間のために存在している、とすら思える。

 トピックが秒単位で更新される。色々な信条や立場の人が投稿するだけに、情報自体は錯綜するものの、速報としては役立つ。それだけに、今澪がどんな思いをしているのかも、判ってくる。流雫はイヤフォンから聞こえてくる澪の吐息に、目を細めた。

 「……流雫、もう突っ切るしかないと思うの」

少しの間を置いて、そう言った澪の表情は、流雫には容易に想像がつく。もし2人が入れ替わっていても、同じ表情で同じ事を言ったハズだからだ。

「……澪」

と最愛の人の名を呟く少年に、澪は

「あたしには、こうして流雫がついてる。だから……」

と言った。流雫は、悲壮感を滲ませるその声に目を閉じる。……何時かの自分を見ているような気がした。


 「澪……」

結奈が名を呼ぶと、澪は彼女に顔を向ける。

「行くしかないわ……。ヒロインに休みなんて無いのかな」

そう言って悲しい微笑を浮かべた澪は、一瞬後には凜々しい目付きになり、2人に向ける。

「結奈、彩花。……無理しちゃダメよ?」

「澪がね」

彩花は笑いながら言う。場違いだと思いながらも、それが恐怖と緊張を和らげるために、彼女が思いつく唯一のことだった。


 走り始めた3人の先で、警察のバスが止まる。ドアが開くと、テロや凶悪犯罪への対策として再編成された、特殊武装隊の隊員が降りてくる。アメリカ映画に出てくるようなグレーのジャケットとズボン、それにヘルメットを被っている。その手前では機動隊も到着し、任務の準備に着手した。

 ……流雫の読みが正しければ、デモ隊の衝突は正反対の政治信条が生み出した惨劇。しかし、それは暴動に発展したことよって、最早信条同士の戦争ではなく、理性も知性も失った暴走する群衆と警察の争いに変化しつつあった。

 衝突こそ起きていたが、侵入すれば行けそうに思えた駐車場が、突然爆発音と共に赤く光るそれと同時に火災警報器が鳴り響き、スプリンクラーから水が噴き出した。誰かが駐められていた車に火を放ったのか。

 しかしそれが文字通り暴動に水を差すことは無く、ただ混乱に拍車を掛けるだけだった。

 隣の商業施設は二次被害防止のために即時閉店を決め、全ての出入口がシャッターで閉められた。店内の従業員や来客者は密閉された施設の広場のような場所に集められ、周囲の安全が確認出来るまで店内で過ごすことになった。一方の外では、中に入ろうとシャッターを叩く人も少なくない。

 ……やはり、動線は1本しか無く、同級生もそっちへ行ったハズだ。

 止まったエスカレーターを駆け上がる3人。彩花を2人で挟み、その先頭を走る澪は最上段を超えると、途端に足が竦んだ。


 ……エントランスの窓ガラスは悉く粉砕され、ビラが散乱し、破壊されたプラカードが捨てられ、それに火が放たれている。

 テレビで見たことが有る海外の暴動が、目の前で起きている。そして、物と云う物が燃やされていた。これが、暴動の果て……。澪の瞳の奥に、怒りが滲む。

 重い銃声が2回、騒乱を掻き分けて聞こえ、奥で誰かが蹲る。

「うおおおおお!!」

と低い歓声が沸き起こる。

 ……秋葉原で見た光景と同じだった。澪の背筋が瞬間的に凍てつき、首から上が痺れる。その直後、更に銃声と歓声が何度も起きる。最初の2発が、銃撃戦と云う最悪の事態の狼煙だった。


 正当防衛が正当防衛を呼ぶ銃撃戦。澪はあの台風の日、空港で経験した。

 元政治家、伊万里の威嚇射撃が引き起こした、流雫の正当防衛としての射撃。しかし、それに対して正当防衛を唱えた伊万里は、流雫とその隣にいる澪に銃口を向けた。そして、流雫は弾切れで撃てなかったが、同時に殺されると思った澪が引き金を引き、決着を付けた。

 しかし、正当防衛の応酬は澪にとっても、そして流雫にとっても全くの予想外で、空港署での事情聴取でもその恐怖を洩らしていた。

 「……流雫……」

イヤフォン越しに彼に聞こえないように呟いた後、澪は彼に言った。

 「流雫!銃撃戦が……!」

「っ!!澪!?」

流雫の声が上擦ったのは、彼にとっても銃撃戦が全くの想定外だったことを意味していた。それと同時に、人が撃たれたと云う一報がSNSに飛び込んでくる、それも何通も。

 結奈と彩花は、秋葉原で遭遇した2件のテロを超える恐怖に、互いに抱き合うように澪を見ていた。

「……結奈と彩花もいるのに……」

澪は言いながら、自分のセミロングヘアを掻き乱す。自分だけならどうにでもなる、しかし無防備な2人を守らないと。しかし、どうやって……?

 その取り乱しようは、2人も見たことが無かった。

 そして、結奈は結奈で行こうと言った自分自身に苛立ち始めていた。暴動とは聞いたが、こんなことになっているとは思わなかった。彩花も持ち前の冷静さを発揮して止めればよかったと思っている。

 ただ、今は何を言っても遅過ぎる。とにかく、此処に立ち止まっていても危険なだけ、しかしどうすれば……。

 軽く混乱する澪は、その前の白いLEDの街灯の下で倒れている人を見つけた。ダークグレーのスーツ……その服に見覚えが有る。人違いの気もするが、まさか。

 澪は倒れた人に駆け寄り、

「あのっ……!」

と声を掛けながら、うつ伏せになった身体を反転させる。

「なっ……!!」

思わず声を上げた澪の顔は、引き攣っていた。それが、担任教師の天狗平だった。手と白いワイシャツの腹部を赤く染めている。澪の声に反応した結奈が

「澪!?」

と少女の名を呼びながら走ってくる。

「来てはダメ!」

澪は叫んだ。それに反応した流雫の

「どうした!?澪!!」

と呼ぶ声が澪のイヤフォン越しに響く。同時に、澪の言葉に背いて隣に寄った結奈と彩花が、倒れる担任教師を同時に見た。

「うっ!」

彩花は口を押さえて眉間に皺を寄せ、結奈は

「……ちょっ……救急車!」

と焦り気味に叫んだ。彩花は咄嗟にスマートフォンをバッグから取り出し、緊急通報ボタンを押しながら、天狗平の口元に耳を数秒近付け、小さな腕時計を見つめた。

 「澪!?」

と流雫はもう一度恋人の名を呼ぶ。……スピーカー越しに救急車と聞こえた。何が起きているのか。流雫は焦っていた。

 「流雫……担任が……撃たれてる……」

絶望に満ちた口調で流雫に告げる澪の前で、彩花が苛立ち混じりの溜め息をつく。

 「ダメ、呼べない……!」

「え……?」

天狗平の口元から耳を離した恋人の声に、結奈の顔から血の気が引く。

「救急車、全部出払ってるって……!」

と声を上げた彩花は、冷静さを欠いていた。彼女としては珍しいが、今はそうなるのも当然だった。

 この界隈に、市内の全ての救急車が集結しているのか……。そう思った澪は言った。

「でも、トリアージが行われるなら……。それまで保つかだけど」

 5月のジャンボメッセのテロ事件で、遺体に黒いタグが取り付けられているのを見た澪は、それが何なのか調べた。そして、此処でもそれが行われれば、真っ先に搬送される可能性が高い。搬送までの時間がネックだとしても、それに希望を託すしか、恐らく方法は無い。

「でも呼吸だけはしっかり……それがせめてもの救いよ」

と彩花は言った。ただ、他の生徒は……どうなってる……?


 担任が撃たれた、と云う澪の話と、彼女のイヤフォンが捉えた同級生の救急車の話で、流雫はニュースサイトとSNSの表示を数十秒ごとに更新しつつ、地図サイトのウィンドウに触れる。そしてSNSに表示されたとある一文の速報とドーム周辺の地図表示に、思わず

「……助かる」

と呟いた流雫は、恋人の名を呼ぶ。

「澪!」

「!?どうしたの?」

澪は恋人の声に反応する。それに流雫は答える。

「助かるよ!」

 しかし、澪は思わず

「え?」

と問い返し、続ける。

「でも救急車が来ない……」

救急車が出払っているのに、どうやって?

 「DMATが出動した。それに、ドームの向かい側の病院が、DMATの基幹施設!」

と流雫は答えた。

 ……災害派遣医療チーム、通称DMAT。大規模災害で救急医療を行うために編成され、その出動案件には事件や事故も含まれる。事実、トーキョーアタックやジャンボメッセのテロ事件でも出動実績が有る。そして、福岡の災害拠点病院の基幹施設が、ドーム前の道路の反対側に建っていた。

 ……勝手な期待をすれば、すぐに搬送される。助かる。

「じゃあ……!」

思わず上げた澪の声に、失いかけた希望が戻った気がした。それだけで、流雫自身も冷静を取り戻せる。

 「……すぐ助かる!」

澪の言葉に、苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せたまま俯いていた結奈と彩花は、漸く少し口角を上げた。

 それと同時に、後ろから拡声器で投降を呼び掛ける声が響く。ついに特殊武装隊と機動隊が動き出した。しかし、それに対して暴徒が大人しくなるハズはなく、誰かが撒いたオイルに火が放たれた。同時に、銃声が数発響く。

「なっ!!」

「澪!!何が!?」

流雫の声に焦りが見える。澪のイヤフォンのマイクが拾った銃声が、少年の耳にイヤフォンを経由して突き刺さっていた。

「暴徒と特殊武装隊が衝突して、火が!」

そう答えた澪の声には、数十秒前まで宿っていた希望は感じられない。

 「っ……!!」

流雫は苛立っていた。

 ……オンラインである以上、動画にしたって寸分のタイムラグさえも無く何が起きているか知ることはできないし、だからと澪の代わりに何かできることは無い。こう云う……大袈裟に言えば一種の後方支援と云う形でしか、彼女を助けられないのはもどかしく、仕方ないとは云え自分に苛立つ。


 希望を失いかけていた澪は、しかし自分の頬を引っ叩いた。……ダメ、あたしが戦わなきゃ。2人を護る、あたしも生き延びる。

「……行こう!」

澪は言った。しかし

「でも……!」

と結奈は躊躇った。……担任教師を置いていくことに抵抗が有る。それは澪だって判る。しかし。

 「……絶対助かる。だから次は、あたしたちが生き延びないと……!」

と澪は言った。他の生徒は周囲には見えない。恐らく、東都学園の生徒で残されているのは自分たち3人だけだ。

「……結奈と彩花は、あたしが護る」

そう言って、澪はついにトートバッグから銃を出す。シルバーの銃身が、白いLEDの街灯を反射して鈍く光った。

 ……この重さやグリップの冷たさは、人の命の重さや、命を簡単に奪える冷酷さを現しているかのように思えて、今も握ることに抵抗は有る。ただ、自分が死なないために、何より流雫を、今は結奈や彩花を殺されないために、握るしかない。一度しか引き金を引いたことは無く、その身で語るのは身の程知らずなのかもしれないが。

 「あたしは死なない、殺されない」

そう言って澪は立ち上がった。それに呼応するように、結奈と彩花は天狗平から手を放して立ち上がる。

「ボクはいけるよ」

「……私も」

その2人の言葉に澪は頷き、イヤフォン越しの恋人に

「流雫、行くよ」

と囁くと、スライドを引いた。それは、もう後には戻れないと云う覚悟を意味していた。澪は地面を蹴った。


 ……澪の覚悟。それは、彼女が引き金を引くと云う「手を汚す」ことになる。綺麗事だと判っているが、やれるものなら今の瞬間だけでも、僕が澪になりたい……何度そう思っただろうか。

 ……ただ、今は澪を支援するだけだ。それしか無い。

 流雫はタブレットPCの地図ウィンドウをスクロールさせ、

「澪、裏に回れば行けるかも」

流雫は言った。

 ……上がって来た方とは反対側に、先刻と同じような長さの階段が有る。其処を駆け下りて横断歩道を越えれば、目指すホテルが有る。しかし、正面側は皮肉にも火の手の影響で明るいが、暴動が激化していて危険だ。比較的暗いが、デッキを裏側から回る必要が有る。

 その下にも道路が有ったが、抗議デモの集団が乗ってきたと思しき街宣車が道を塞ぐ様子が暴動発生の直前、SNSに投稿されていた。……しかし、それももし暴徒の標的になり、襲撃されるとすれば安全ではなく、消去法でデッキを回るしかなかった。

 思想や信条を持たない、ただ暴れたいだけの暴徒は何を、誰を標的にするか判らない。抗議デモだろうがカウンターデモだろうが、襲えるものはとにかく襲う。よくも悪く……悪過ぎるが……もノーボーダーの連中だ。最早、警察以外にこの事態を収拾できる存在は無かった。


 結奈は彩花と並び、澪は1人分の間隔を開け、不測の事態に立ち向かえるようにした。

 ドームの海側を回る3人は、フラットだがタイルの僅かな段差に躓かないよう走る。

 ……銃を撃つのは自分の命を護るための正当防衛に限る。ただ、8月の空港の時のように、犯人が隣にいる別の人と自分、どっちを狙っているかが判別できない場合、自分が撃たれることが予想できる場合は、正当防衛が成り立つ。今も、その解釈で挑むしかない。

 しかし、唯一銃を持っていることは、その標的になりやすいことを意味する。だから澪は、銃を手に持ちながらもバッグの陰に隠していた。最小最軽量の銃身が、こう云う形で奏功するとは。

 暗がりのドーム外周を小走りで走り通した3人は、辛うじて暴徒に気付かれなかった。軽く息を切らしているだけだ。安堵の溜め息を小さくついた澪は、しかし此処からが本当の試練だと、一瞬緩めた気を張り直した。

 ドームの隣には、別の商業施設も有ったが、それも急遽閉館していた。下ろされていたシャッターを激しく叩く音が聞こえる。それらも、幸い3人には気付いていない。

 それから離れて走る3人が、漸く目的の階段に近付くと、自分たちと同じ制服を着た生徒の背中が見えた。誰もが必死に逃げようとしている。

 LEDの街灯が並ぶ、とは云え暗い階段は怖く、手摺りに掌を擦らせて1段ずつ下りていく。その下のバスプールではタクシーが3台、炎に包まれていた。

 しかも、ホテルとドームを隔てる道路では、別の車が横転させられ、道が塞がれていた。そして襲撃を怖れた連中が、逃げようと車を放置していた。

「何てことを……!」

と、澪が苛立ちを露わにする。流雫はSNSで拾った投稿を伝えた。

「澪、下でタクシーが燃えてる」

「見えてる!どうしてこんな……!」

澪は声を上げた。

 ……流雫に苛立ちをぶつけたところで、どうにもならないことは判っている。しかし、昼間隠語としてTGと略した、トーキョーゲートの幻影がちらついている。

 「……やっぱりトーキョ……、……TGなのかな……」

と澪は言った。言い直したのは結奈や彩花もいるからだが、如何せん流雫相手だと、自分で決めていながら略すのを忘れがちになる。

 「……だと思ってる」

と、流雫は一言だけ言った。……それ以外、流雫にも思いつかない。

 妄想であってほしい、外れてほしいと思い続けた読みは、今度も当たっているのか……?


 階段を下りた瞬間、1人の男がセーラー服を着た3人に気付いた。

「おい!」

と声を上げ、背後の数人に新たな標的に注目させる。それと一瞬目が合った彩花は思わず、

「澪?」

と先頭を行く少女の名を呼ぶ。彼女は同級生人に、振り向きながら言った。

「……結奈、彩花、走って!」

 「澪は……!」

と言った彩花に

「走って!!」

と澪は叫ぶ。それに呼応した結奈が

「彩花!走れ!」

と言い、恋人をホテルへ走らせる。幸い、その動線に暴徒はいなかったことはラッキーとしか言いようが無い。

 ボーイッシュな少女は、ふとエスカレーター付近に転がっていた真っ赤な消火器に気付き、手にした。……黄色の安全ピンは無く、誰かの使い掛けなのが判るが、その重さからほぼ未使用に思えた。

 「結奈!?逃げて!」

その様子に目が止まった澪は、焦り気味に声を上げた。

「澪1人じゃ……!」

と結奈が言った瞬間、男3人が走り寄ってくるのが判った。手にはそれぞれ銃を持っている。多くて18発……しかしそれでも多過ぎる。

 「でも……!!」

「いっけぇぇぇっ!!」

突然、澪の声を遮るように叫んだ結奈は、消火器のハンドルを一気に握った。

粉末の消火剤が勢いよく噴き出した。

「何しやがる!」

「このっ!!」

と声を上げる男たちは目を開けられず、その場で千鳥足になるだけだった。その様子に、更に3人がやってくる。

 「行くよ!」

と結奈は言い、消火器を背後に向けたまま走り出す。まさかの結奈の反撃に目を見開いた澪もそれに続くが、その瞬間に粉が切れた。

「くっ!」

結奈は何度もハンドルを握るが、やはり出ない。その途端に、男3人と女子高生2人の距離が一気に縮まる。

 横断歩道が無い道路の真ん中で追い付かれた結奈は、

「はぁっ!!」

と声を上げ、消火器を振り回した。それが1人の脇腹を直撃し、

「おごっ……!!」

と上げた低い呻き声と同時に、その場に膝から崩れる。

 「彩花は!?」

澪はふと、先に行かせた少女に目を向ける。左右の大きな三つ編みを揺らす同級生は、ホテルのエントランスの自動ドアが1人分の幅だけ開くと、屋内へと飛び込む。

 それと同時に、澪と結奈に迫る男の後ろから

「大人しくしろ!」

と怒鳴る声が聞こえる。特殊武装隊の3人が駆けつけてきた。

 遠目では、燃えるタクシーの近くにいた男たちが、全身グレーの集団に立ち向かい、しかし敢えなく拘束されているのが見える。

「これで……」

澪は呟く。一瞬、助かると思った。しかし、まだ終わっていない。

 2人が銃を構え、カーキ色のブルゾンを着た1人は特殊武装隊員に向く。ブラウンのダウンジャケットを着た1人は結奈に体を向け、銃口を見せ付ける。

「みっ……あぁっ!」

澪と犯人に気を取られていた結奈はアスファルトとタイルの僅かな段差で背中から転ぶ。

「いった……っ!」

 「結奈!」

澪は彼女の名を呼び、膝立ちすると上半身だけ起こした同級生の前に銃を持ったまま右腕を出した。……対峙する2人の距離は1メートルほど。既に、引き金に指が掛かっているのが判る。その指が僅かに動く……。

 「っ!!」

澪は咄嗟に、腕で結奈の胸を後ろに突き飛ばし、彼女を押し倒す。大きい銃声と同時に、ライトブラウンのセミロングヘアのすぐ上を銃弾が飛び、それがエントランスの自動ドアの下端にヒビを入れた。

「澪!!」

マイクが拾った銃声に反応したのか、流雫の声が耳に響く。それが引き金だった。


 澪は両手でグリップを握る。構えた銃身は股関節に向いた。何処でもいい、当たれば。男の動きさえ止められれば。

 結奈を狙い、しかし外した男の銃口が、ダークブラウンのセミロングヘアの少女に向かって動き始めた瞬間、澪は細い指を引き金に掛けた。ブレスレットの微かな重みに、流雫の存在を感じた。

 「澪!結奈!」

エントランスの自動ドアが開き、彩花の声が響いた。男の動きが一瞬止まった。

 澪は目を閉じる。……行け!!


 3回爆ぜる火薬の音、規則的に地面を跳ねる薬莢の音が、やけにスローモーションに聞こえる。

「ごあ……あ……!!」

ダウンジャケットの男が目を見開き、その鍛えられた体が前屈みになり、股関節を銃ごと手で押さえるが、一瞬で赤黒く染まっていく。

 「結奈!」

澪が叫ぶと自分は左へ、結奈は右へと転がるように避ける。それと同時に、男は2人がいた場所に倒れ、その後ろから特殊武装隊が押さえ付けて左手に手錠を掛けた。その武装隊が対峙した男は、撃つことなく投降して逮捕された。

 銃声と同時に口元を押さえた彩花は外に飛び出て、上半身だけ起こしたままの結奈に駆け寄る。

 「結奈!」

「彩花!」

互いの名を呼ぶ2人は、数十秒ぶりに再会した。しかし、数十秒がこれほど長く感じたことは無かった。

 飛び散った消火器の粉で少し白くなった結奈のスカートを叩きながら、彩花は地面に尻と手を突いて仰け反る澪を見つめる。結奈もその視線を追った。


 「澪!!」

流雫の叫ぶ声がイヤフォンから聞こえてくる。

「る……流雫……、みんな……、……無事……」

息を整えながら答える澪。

 ……自分がいない河月で、流雫が独りきりで、どんな思いを抱えて引き金を引いていたのか、身を以て思い知らされた。そして今、結奈も彩花も……澪自身も無事だったことで、緊張が解けたからか全身に痺れが走り、目に冷たさを感じた。

 「怖かった……、……流雫……、……流雫ぁぁぁ……っ!!」

澪は、厚い雲に覆われた夜空を仰ぎながら泣き叫ぶ。結奈と彩花は立ち上がり、澪の元に駆け寄る。

「やっぱり……怖いよ……こんなの……流雫……」

ストレートのセミロングヘアを鷲掴みしながら、イヤフォン越しに最愛の少年に慰めを求める澪。言葉にしたいのに、言葉にならない。

 その身体を支えながら2人は、彼女たちのヒロインがどんな思いを抱えながら銃を撃ったのか、思い知らされた。

 ……初めて、澪が人を撃つのを見た。これがアニメならカッコよく決まるのだろうが、現実は正反対だった。撃たれる、殺されると云う恐怖との戦い。それは残酷なほどに生々しく、後味も悪く。

 銃を持つと云うのは、理由はどうあれそれだけの覚悟が求められると云うこと。銃を持たない2人は、たとえ持っていたとしても自分には絶対できないこと、そして澪だからできることなのだと思った。


 「澪……」

泣き叫ぶ澪の声に、流雫はただ名前を呼ぶことしかできなかった。

「やっぱり……怖いよ……こんなの……流雫……」

その途切れ途切れの言葉が、流雫に突き刺さる。

 ……ついに、澪は自分がいないところで引き金を引いた。直前に銃声が聞こえたから、外れはしたが撃たれて、撃ち返したことだけは判る。そして、一瞬のために押し殺した恐怖に、撃った反動で襲われていることは、誰よりも痛いほどに判る。

 イヤフォンとマイクだけで慰められるほど、僕は器用でもない。僕の名を呼ぶ少女を、強く抱きしめたい。どうして今、澪の隣にいないのか、いてやれないのか……。

 溜め息をつきながら頭を抱える流雫。

「……会いたい……」

そう呟いた声は、泣き叫ぶ最愛の少女には届かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る