3-5 Feel Your Melancholy
「……恋愛ドラマはそこまでだ」
ドアが開くなり、そう言った常願が入ってくる。確かにその舞台は取調室で、あくまでも流雫は取調中、澪はそれに同行しているだけだ。
とは云え、もう少しだけ2人きりでもよかったのに、先刻は弥陀ヶ原に、今度は父親に邪魔された……。澪は頬を拭きながら、半分本気で邪魔者を見る目で父を睨む。
「……さて、何処まで話したか……」
娘を軽く遇うように常願が言うと同時に、取調室のドアが勢いよく開いた。それと同時に弥陀ヶ原が
「室堂さん!県警が伊万里雅治の任意同行に成功しました!」
と一報を伝える。先輩刑事は
「県警が!?よくやった!」
と、後輩刑事の声に反応した。
「OFA山梨支部から出発しようとしたところに接触しました、今は河月署に連行しているところです。白水大和も一緒です」
弥陀ヶ原は言う。今或る意味最もホットな2人を同時に事情聴取、それは警察にとって最も好都合だった。常願は言った。
「……今から慌ただしくなるな。何を語り出すのかが気になるところだ。と云うワケで……流雫くんに頼みが有る」
その言葉に流雫は
「頼み……?」
と繰り返す。澪の父は答えた。
「君がいるペンションに空き部屋が有るなら、今日泊まりたいのだが」
流雫は鐘釣夫妻に連絡する。流雫が居候するペンション、ユノディエールは河月湖の畔のペンションでも高い人気を誇る。チェックアウト日が月曜となるためか空室が目立つハズの日曜でも満室のことが多いが、この日ちょうど1部屋だけ空いていた。ユノディエールは子連れを除いて基本は1部屋2人までだから、刑事2人だけなら問題は無い。
流雫が常願にスマートフォンを渡すと、幾分の会話の後で室堂常願と弥陀ヶ原陽介、2人の名前がユノディエールの宿泊リストに並び、今日は満室になった。
「伊万里と白水の事情聴取が長引くだろうからな。近くのビジネスホテルでもよかったが、どうせ泊まるなら……な。助かったよ」
流雫にスマートフォンを返しながら常願は言い、口角を上げる。弥陀ヶ原も戯けるような表情で、それに反応した。
ユノディエールに限らず、湖畔のペンションは河月駅前のビジネスホテルよりも高いが、そこは必要経費と云うオトナの事情でクリアするものなのだろう。
表情を戻した常願は、流雫に目を向けて言った。
「……そして悪いが、流雫くんも明日は学校を休んでほしい。もっと話を聞きたいからな。正当防衛の立証も有る」
その言葉に流雫は
「……はい」
と頷いた。一瞬、大町の死に際が頭に蘇るが、表情は変えなかった。だが。
「あたしも明日、学校に行かない。流雫といる」
突然、少年の隣で澪が声を出す。
「澪?」
その言葉には、流雫も少しばかり驚いていた。
流雫から見ても強引だったが、澪は流雫が気懸かりだった。それに、澪自身も同級生の死に感情を揺さ振られていた。
どんなにいけ好かなくても、やはり同級生が……、それも事情が事情だし、よりによってテロの犠牲と云うのは、引っ掛からない方が不思議とさえ思える。とは云え……。
「感心せんな」
と苦言を呈した父を、娘は思わず睨んだ。
「しなくていいわ。流雫は絶対無実だけど、その結末をただ東京から祈ってろって云うの!?」
娘の反撃に
「澪!」
と、常願は娘に対しての苛立ちを露わにした。しかし澪は一歩も引かず、
「流雫は好き……じゃないの、愛してるの。なのに、愛しい人が犯罪者呼ばわりされても、離れた地から黙って祈ってろって……。当然、あたしは流雫を信じてる。だけど、あまりにも残酷じゃないの!」
と、先刻に劣らない剣幕で父に迫る。
……あのアフロディーテキャッスルでの一幕を、流雫に思い出させた。あの時は正体不明の武装集団相手だったが、それと勢いは然程変わらない。
ただ、流雫を犯罪者扱いすることが十中八九判っている敵がいて、更には彼の正当防衛も未だ立証されていない。或る意味苦境に立たされている恋人の力になりたい。そのためなら形振り構っていられない……。その信念だけは伝わってくる。
「ただ、部屋が無いだろう」
と、常願は溜め息混じりに言った。尤もだった。
先刻の鐘釣夫妻との通話で、1部屋だけなら空いていると言われていたから、既に満室なのはこの刑事も知っている。冷静になってみれば、澪は詰んだ。
……しかし、1部屋だけ残っている。
「澪は大人しく帰……」
「……僕の部屋なら」
と、流雫は恋人の父に被せた。この件だけは中立と云うか傍観者のハズだった少年が、一瞬で澪の強力な味方に回る。
「流雫……!」
無意識に、希望を見出したような声を出す澪に、流雫は更なる援護射撃をした。
「今の僕には、澪の存在は心強いから……。明日の取調も上手く回るハズ……」
その一言に、常願は呆れた。
父親としては、娘に対して普段通り学校に行くよう説得する義務が有る。しかし予想外の抵抗と、恋人と云う思わぬ伏兵の出現、そして取調を盾にされては、今回ばかりは白旗を揚げざるを得ないと思った。
「……ったく、お前らは……」
と常願は大きく溜め息をついて、言った。
「今回だけだからな」
「判ってるわ」
その180度変わった声の主は、微笑みながら流雫を見てウインクする。その様子は、澪の父親への勝利宣言だった。流雫も、ようやく微笑みを取り戻す。
「……俺らはあの2人の事情聴取に回ってくる。2人は今から自由だが、早いうちにペンションに戻れ。判っていると思うが、これは遊びじゃないからな?」
常願が刺してきたクギに、2人は頷いた。
河月署を後にした2人は、河月湖方面へ向かうバスに乗るべく、河月駅へと向かう。その間にペンションに連絡を入れる。
鐘釣夫妻からの返事は、事情が事情だし流雫の部屋に泊まるなら、特別に宿泊代は不要でいい、だった。相粋な計らいだったが、流雫はそれに報いるためにも、今日の手伝いに力を入れなければと思った。
河月駅の駅ビルで歯磨きセットと、ちょっとよさげなシュークリームを手土産にと入手した澪と流雫は、ちょうどやってきたバスに乗る。夕方だからからそれほど混んでいなかった。
ペンションに着くと、流雫は夫妻に軽く事情を話し、澪はシュークリームを渡しながら頭を下げる。急なことだったが、夫妻は歓迎していた。どのような形であろうと、流雫が同級生を連れて来たことは初めてだったからか。
流雫は澪を自分の部屋に通すと、先にバスルームとシャワールームの掃除を始め、その途中で先にシャワーを浴び、宿泊客の為に準備を再開する。
それが終わると、一度流雫は部屋に戻る。澪はスマートフォンで、地上波のテレビと同時配信のネットニュースを見ていた。
「モールのこと、何か出てるかなって……」
澪は言う。最初の話題は、各地で8月の選挙を見据えた各党の遊説についてだった。モールのニュースはこの後だろうか。
「やっぱり気になるか……」
と言った流雫に、澪は
「流雫だって同じでしょ?」
と言った。確かにそうだ、寧ろ気にならないワケが無い。
それと同時に始まったのは、モールの自爆テロの件だった。
アナウンサーが原稿を読み上げるが、今からその瞬間の映像を流すと言った。視聴者から送られてきたものだが、相当ショッキングなもののため注意するよう呼び掛けがされ、そして画面が切り替わった。
「っ!これ……!」
澪が声を上げる。流雫は澪のスマートフォンを覗き込むと、顔を顰めた。
それは、先刻河月署で弥陀ヶ原が見せてきたものと全く同じだった。SNSに投稿されたものをカットすることなく流している。
よくテレビで流せたものだ、と感心した流雫は、同時にこれが何を意味しているか、想像できた。
「……これ、伊万里サイドにはかなりの打撃かな……」
と流雫は呟く。
あのヘイトスピーチ反対を掲げていた左派集団が録画したものだが、ニュースでは視聴者が提供したものと説明していた。ただ、流雫と澪以外の市民にとって、誰が提供したものかはどうだってよい。ただ映像に映っているものが全てだった。
そして、中身が中身だけに、予め注意したものの地上波で流すべきではない、とテレビ局へ批判が殺到するだろう。それでも、これであの惨状を間接的ながら目にした者は格段に増えた。
伊万里サイドだけが一方的に逃げ始めたことが、見れば見るほど不自然に映る。……テレビで目にした人には悪いが、大町は実行犯とグルの犯人なんかではなく、ただ何者かの罠に嵌められてただけだと、知らしめることができる。
……それだけでも、あの動画がニュースで流された意味は有った、と流雫は思っていた。
ディナータイムに備え、流雫はキッチンへと下りていく。澪はその直前に流雫からルーズリーフを受け取ると、バッグから手帳用に使っているシルバーのボールペンを取り出して、その上に置く。
……澪なりに思うことを整理するのに、流雫の真似をして書き出してみようと思った。実際、書き出して紐付けて行く方が、後々整理しやすいのは、何となく判っていた。
ニュース動画を閉じて、エアコンの音だけが響く部屋で、澪は流雫が用意した紅茶を飲みながらボールペンを握り、思いつくがままに書き始めた。
……折角、事情はどうあれ河月までやって来た。それならのんびり羽を伸ばしたいところだが、父親から釘を刺されたように目的は遊びではない。ただ、流雫といられる時間は長い。それだけで澪は満足していた。
……数十分後、澪は
「ふぅ……」
と溜め息をついて、ボールペンを机に置いた。
何も見ず、彼女なりに思うことだけを書いてみたが、やはり流雫とほぼ同じ意見だった。ただ、彼から送られたルーズリーフの写真で見たものより、少しだけ踏み込んでいたのは、あの後に起きたビジネスジェット着陸失敗事故と、今日のショッピングモール自爆テロの件も含めていたからだ。
……深追いすればするほど、胸焼けを起こしそうになる。深追いすると決めたのは自分だが、これほどだとは思っていなかった。
ティーポットが空になった。そのタイミングで、流雫が部屋に入ってくる。ディナータイムだと伝えられると、澪は広めのダイニングへ下りた。
父の常願と弥陀ヶ原はたった今ペンションに着いたらしく、用意された部屋に入ると上着をハンガーに掛けるだけで、戻ってくる。
鐘釣家のペンションでは1泊あたり2食になっていて、毎日夫妻の手料理が振る舞われる。見た目は簡単に料理できそうだと云っても、河月産の野菜や河月湖の淡水魚を使うと云う拘りが有る。
鐘釣夫妻もテーブルに着くが、流雫は1人混ざらず、給仕として動いていた。澪は手伝いたいと思ったが、経緯はどうあれ周囲……特に他の客から見れば自分は客だ。自分が席を離れれば、客が勝手に手伝おうとしているようにしか見えないし、流雫もいい顔はしないだろう。
しかし、彼がエプロンを着けて動く様を見ているだけしかできない。澪にはそれが、少しもどかしく思えた。
南部に集中するハイテク産業群、そのうちの1社に勤めている2人は、同じ部署の先輩と後輩。今朝、急に東京本社から工場への派遣を命じられて、先刻河月に着いたばかり。
明日から、工場とそれに隣接する宿舎を往復するだけの日々が数ヶ月続く、だから今夜ぐらいは、河月湖の畔に泊まってリラックスしたい。
……東京からの2人の刑事は、別の客からの問いにそう説明していた。ビジネスホテルならまだしも、こう云う共用スペースが多い場所では、周囲に警察関係者だと知られると、他の宿泊客の居心地に影響するらしい。そこで、この河月と云う都市を調べて、当たり障り無い理由を用意していた。
流雫も澪も、自分とは全く無関係の2人組……として接することにした。この4人が明日、警察署の取調室に集合し、この町で起きたテロについて話すとは、鐘釣夫妻を除いて誰も知らない。
ディナーが終わると、流雫は片付けに入る。澪は誰も使っていないシャワールームに行った。ダークブラウンのセミロングヘアを洗っていると、8月半ば頃には美容院に行きたいと思った。
……8月下旬、特別な場に出席する。フォーマルウェアは持っていないため、学校のセーラー服で賄うことに決めているが、それ以外はその場らしく整えたかった。
澪は明後日あたりにでも、行きつけの安い美容院に予約を入れようと思いながら、シャワーヘッドをスタンドに掛けた。
……特別な場。本来は自分には無関係なハズだが、今は最早無関係ではない、と澪は思っていた。
端から見て、出しゃばっているだけにしか見えない、とは自分でも思っている。しかし、やはり無意識に美桜と云う少女を意識していた。彼女の存在は、流雫といっしょにいる上で忘れてはいけないのだから。
ただ、今は彼女に向き合えない。流雫を愛していると云っても、彼と喧嘩別れしたワケでもない彼女の前で、今自分が流雫の恋人であることを自慢できるのか……。自問自答の答えは、否だった。
澪は湯の温度を少し上げて、もう一度ハンドルを回した。勢いよく身体に叩き付けるシャワーの湯で、不意に襲ってきた靄を少しだけ紛らわせたかった。
今日の日課を全て終えた流雫が部屋に戻ろうとすると、自分と相部屋になった来客と廊下前で鉢合わせした。今シャワーを浴びて戻ってきたばかりだ。流雫は部屋に少女を通した。
初めて2人で過ごす夜。とは云っても、隣の部屋には澪の父がいるから少し緊張する。ただ、そもそも遊びで来ているワケではないのだから、大人しくするのが一応の筋と云うものだろう。
ローテーブルの上にはルーズリーフが何枚も並べられている。それは全て、明日のためだった。
「……まさか、こんなことになるとはね……」
ベッドに座った澪は、呟くように言う。それしか、言葉が出ない。
「何か、色々有り過ぎて……。大変だの何だのと、そう云うのすら感じる間も無かったかな」
椅子に座る流雫は言い、己の左手を見つめながら続けた。
「……また銃を出すなんて、思ってなかった……」
引き金を引いた時の反動は、簡単に思い出せる。3ヶ月半忘れていた……そしてそのまま忘れていたかった感覚が、今否応なしに蘇る。
この穢れた手を失わない限り、また思い出すのだろうか。二度と銃を持たなくて済む日々が、また戻ってきたとしても。
「流雫」
澪は彼の名を呼ぶと、その手にそっと触れる。そして囁くように言った。
「でも、だから流雫は助かった。……それに、あの日あたしも助けられた。だからあたしは、流雫の手……穢れてるとは思わないよ?」
流雫が自分の手を見つめる目は、穢れたものを見るようだった。澪はその目が苦手だった。
流雫が銃を撃つのは、犯罪を犯すためではなく、生き延びるため。そして自分の身を護ることが、同時に澪を護っていることになる。だから、穢れているなんて思ってほしくなかった。
「……澪」
流雫は穢れた手に触れる少女の名を呟き、唇を噛む。
澪が献身的だから、正気を失わず、勝機を何処かに見つけようとしていられる。やはり、澪には頭が上がらない。何時も助けられてばかりだ。だから、もっと強くならないと……。
手を離した澪は言った。今の流雫にはこの話から意識を逸らし、気を紛らわせることが必要だった。
「……続けよう?早く終わらせて、ゆっくりしたいな。折角の泊まりだから」
澪の綺麗な字が連なるルーズリーフを手にした流雫は、新しい紙に手を伸ばし、2人が書いていたことを上手くまとめていく。思うことは有るが、一度スイッチが入れば終わるまで止まらない。
……2人がそれぞれ辿り着いたことは、外していないとは思っているし、それは日増しに強まっている。しかし確証が有るワケでもない。2人して違っている可能性も有るが、未だ……いや、だからこそ何処かでそうであることを期待していた。
それが真実なら、WW2の戦後どころか近代以降の日本で最大の政治スキャンダルに発展するのは目に見えていた。しかし、それ自体は流雫たちには無関係だし、どうでもいいと思っている。
ただ、何故テロでなければいけないのか、何故美桜が犠牲にならなければならなかったのか、その理由を知りたいだけだった。流雫の悲しみと怒りを宥めるに値する理由を。
流雫は溜め息をついて、サインペンをローテーブルに転がす。22時前だった。少し目が、そして脳が疲れた。今日1日だけで、色々なことが起き過ぎた。それは何度も思う。
「こんなものかな……」
と流雫は言い、ルーズリーフをバインダーに綴じ、澪に見せる。
「……これが、流雫とあたしが見て、思ったこと全て……」
澪が言うと、サインペンにキャップを嵌めながら流雫は頷き、
「結論ありきで書いたような感じだけどね」
と言った。全てはあの伊万里のマッチポンプ説だと云う前提だったが、やはり掠る程度ながらも当たっている……としか思えなかった。
「明日、何も無いといいけど……」
そう言った澪の耳に、雨音が聞こえた。
「雨……?」
と呟いた流雫は、カーテンを開けて窓の外を見る。昼間は晴れていたのに、何時しか空は雲に覆われ、少し強い雨が降り始めていた。
雨は空が泣いている証だと、何かで読んだ覚えが有る。日本らしい言い方だと思うが、だとすると何に泣いているのか……。そう思った流雫の隣に立った澪は少し沈んだ声で言った。
「折角、天の川を拝めると思ったのにな……」
澪に言われるまで、流雫は今日が七夕なのを忘れていた。
思えば、今日のショッピングモールでも七夕イベントをやっていた。しかしそれどころでは無かったし、そもそも無関係なイベントだと思って気にも留めなかった。
「河月湖の近くは星が綺麗に見えると聞いたから、少しだけ期待したんだけどな……」
そう言った澪は溜め息をついた。
流雫は、この町で星を見た記憶が殆ど無い。夜空を意識して見上げること自体殆ど無く、特にこの1年ぐらいは、それだけのゆとりさえ無かった。
「雨じゃ仕方無いよ」
とだけ言った流雫は、しかしスマートフォンで天気予報を見ると、日付が変わる前までには止む可能性が有ることに気付く。
……もしかすると、一瞬だけなら……?
「……でも、諦めがつかないなら、賭けてみる?この後晴れるか」
と流雫は誘う。
今日、楽しいことは何も無かった。これぐらい賭けをしてもいい。外れても、何がどうなるワケでもない。
澪は微笑みながら答えた。
「……晴れるわ」
流雫が新しく用意したティーポットから紅茶を注ぎながら、澪は言った。
「流雫は、やっぱり強いよ」
「強い……?」
流雫は澪の顔を見つめながら問う。澪は答えた。
「だって、あんなに辛いことに遭っても、決して光を見失わないんだから」
自分は運が尽きていない、それだけだと流雫は思っている。そうでなければ、何度もテロに遭遇しながら、銃口を向けられながらも生きていると云う説明がつかない。
「……強くないよ。ただ、手探りで必死で、それでどうにかなってるってだけだから。……僕を引き上げようと手を伸ばす澪が、僕にとっての光の正体……、……なんてね」
「っ……バカっ……」
流雫の言葉に、少し頬を赤くして反応した澪は、やはり流雫に敵わないと思い口角を上げた。
ただ、それは澪自身が期待していたことでもあった。戯けていられるのは、そう言えるだけ脳に余力が有る証左だからだ。下品でないユーモアは、意外と頭を使うものだ。
「……もう1年になるんだよな、あの日から」
流雫は遠い目をして言うと、溜め息をついた。
「月日が経つのは、早いのか遅いのか……。やっぱり僕には判らないけど、でもそれでも世界は止まらない」
と続けた彼に澪は問う。
「トーキョーアタックさえも、何時かは風化するのかな?」
「……すると思ってる」
と流雫は答える。澪にはそれが、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
「過去に縋るのもどうかと思ったりするけど、でも犠牲になった人を弔うことは、止めてはいけないと思ってる。それとこれとは話は別だ」
「僕は一生忘れないと思う。だけど、何時かは何かしらの決着を、つけないといけないんだろうな……」
そう続けた流雫は俯き、ティーカップに残った紅茶を飲み干す。その様子を見つめる澪は、しかし何も言えなかった。
流雫はその視線に目を向けると、軽く微笑んでみせる。ただ、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳は、何処か寂しげだった。
「……とは云え、未だ先の話だろうけどね」
と流雫は言う。取り繕っている……澪にはどうしても、そう見えた。
……2人で明かそうとする初めての夜は、眠れない……と澪は思っていた。原因は今日1日で何杯も飲んだ紅茶のカフェインではなく、明日の取調に対する緊張感……でもなく、流雫の憂愁に触れたことだった。
外の雨は弱くならず、強く降り続いている。もし、空が誰かの代わりに泣いているのだとすれば、それはきっと流雫の代わり……そう思える。
2人はローテーブルを囲んでいたが、交わす言葉は無い。
澪は何か言いたい、でも何を言っても泥沼に嵌まりそうで、でも何も言えない自分に苛立って、ただアイボリーホワイトの天井を仰ぎながら唇を噛み、頭を抱えることしかできない。
流雫は流雫で、澪の90度左で膝を抱え、明日河月署に持って行くネイビーのバインダーの表紙に、目線を落としている。
……流雫のかつての恋人と、澪の同級生。この2人の死が見せる、たった一つの現実に辿り着こうとしている。でも、立ち向かうには、流雫も澪も未だ弱過ぎる。
その無力感を払拭する、今だけでも紛らわせられる、たった一つの奇跡を願った。
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