3-6 Magic Under The Stars

 静寂が支配する部屋の外から、雨音と云うBGMが消えたことに澪は気付いた。

「あれ……?」

と呟いた少女は顔を上げる。

「止んでる……?」

と呟いた流雫は立ち上がり、カーテンを開ける。雨は止んでいるが、雲は空一面に残っている。ただ、風が強いのか流れは速い。

 スマートフォンの時計が示す時間は、日付が変わるまで残り30分を切っていた。……どうせ見るなら、7月7日のうちに。

 そう思った流雫は、隣の少女が今もブラウスとスカートのままでいることに気付く。そもそも、着の身着のまま泊まることになったから、ルームウェアなども無い。ならば、すぐに出られる。

 「……行こう」

流雫は言った。

「行くって、何処へ?」

澪は問う。流雫は答えた。

「ビジターセンター。見たいなら、多分彼処が一番だから」


 澪が部屋から出た後で、流雫は簡単に着替える。白地にネイビーと赤がアクセントに入る、トリコロール調のシャツとネイビーのカラーデニム。

 流雫はなるべく音を立てないように、慎重にエントランスのドアを開ける。

 アスファルトには雨が残っていた。昼間より気温は低くても湿度は高く、数時間前にシャワーを浴びた体から、やがて汗が滲んでくる。

 河月湖畔は歓楽街としての光景を排しているために、夜は静かで過ごしやすいのが特徴だが、逆にその人や車の少なさが不安にさせる。観光客が多いためか、歩道を照らす白いLEDの街灯が整備されて明るいのは幸いだった。

 流雫が住んでいるペンションも湖畔に建つが、木々が多く裏庭の湖畔からの見晴らしはよいとは言えない。その意味では、ビジターセンターは開かれていた。

 駐車場の入口には鎖が張られているが、歩道からは普通に入れる。店舗やレストラン、トイレのドアには鍵が掛けられていて入れないが、建物の脇からその背後に伸びる木製の小さな桟橋までは、歩いて行けた。

 薄いながらも上空を覆う雲は、風に流されていく。街灯は建物の前で終わったことで、スマートフォンのライトを頼りに、桟橋の前に辿り着いた流雫は、木々に少しだけ邪魔される空を見上げる。時間は日付が変わるまで、残り15分も無い。……5分、いや1分だけでもいい、今日のうちに見えれば。

 普段から、そして特にあの日から奇跡など全く信じていないが、澪がこの地方都市で天の川を見ることができるのなら、一度ぐらいは信じても悪くない。流雫がそう思うと、隣に澪が来た。

 湖面は風で揺れ、木々が騒ぎ、鎖骨のあたりで切り揃えられた澪のセミロングヘアを揺らす。やがて、薄い雲の切れ間から僅かに星が零れる。

 2人は桟橋の木の板に靴音を立てた。

 月の光が無い方が、天の川は見やすいらしいのだが、昨日が新月だった。月は三日月より細く、光が強いワケではない。後は、この雲が完全に途切れれば……。

 真上の夜空を見上げる澪は、不意に

「……あっ……」

と声を出した。


 雲が完全に消えた。幾多の星が浮かぶ漆黒の空、斜めに一筋の星の帯。

「見えた……」

澪は声色を弾ませて呟く。……奇跡が叶った。澪は声を上げる。

「流雫……見えたよ。天の川、見えた……!」

「……こんなに、綺麗なんだ……」

流雫は一言だけ言い、ただ夜空を見上げている。……あの雨足からすれば、奇跡としか言いようが無い。

 澪はふと、流雫に顔を向ける。彼にとっても、それは特別なもののように、少女には見えた。

 ……あの時、流雫は

「諦めがつかないなら、賭けてみる?」

と澪に問うた。

 既に完全に諦めていたが、澪はその言葉に乗った。賭けると云っても、自然に委ねるしか無かった。それでも、晴れると信じた。それだけで、今日大変だったことが吹っ切れると思った。

 そして、晴れた。星空を忘れた不夜城……東京では味わえない光景が、今目の前に広がる。一言で言えば、魔法がもたらした奇跡のように。

 もう7月7日が終わっていたとしても、どうでもよかった。

「綺麗……」

澪は手を伸ばす。あの日、渋谷の展望台で流雫がそうしたように。冗談でもなく、あの星々に指が触れ、この手に掴めそうな気がした。

 ……この瞬間が、止まればいいのに。そう思った澪は、あの日渋谷の展望台で頭に浮かんだ言葉を思い出した。

「時よ止まれ、汝はいかにも美しい」

 ……流雫が悪魔だとしても、澪は彼を抱きしめることを望んでいた。彼が抱える苦悩や絶望さえも、全て引っくるめて。世界平和や泣かなくてよくなる日々が来なくても、彼の全てをこの手に掴めるならどうでもよかった。

 その彼が……流雫が隣にいて、同じ場所でこうして星空を見上げている。この夜を、澪は忘れないだろう。

 いや、忘れるワケがない。この魔法のような数分間の奇跡も、澪と流雫がこの世界でこの瞬間を生きた、そして澪が流雫を愛した証だから。


 「澪」

流雫は手を星空に向けて伸ばした少女の名を呼ぶと、その華奢な手の甲に自分の掌を重ね、左右で異なる色の瞳に星の帯を映しながら言った。

「……このまま、澪といられますように。……それだけは叶えたい」

「……あたしも、このまま流雫といられますように。……叶えられるよ、あたしたちなら」

彼に呼応するように澪は言い、流雫に顔を向けた。

 「叶えられる。僕には澪がいるんだから」

流雫は澪の手を放し、体を向けて言った。僕には澪がいるんだから……何度でも言いたかった。澪が流雫の中心に在ることを、ひたすら感じていたかった。

 星空に伸ばしていた澪の手は、流雫の頬に触れる。少しだけあったかい。流雫は右手を肩に回し、左手は澪の右手と指を絡めた。額同士が触れ、2人は目を閉じる。吐息が重なるほどに近く、触れた肌からほのかな熱が伝わる。

「……流雫」

「澪」

この世界で誰より愛しい人の名を囁くように呼ぶ2人。

 夜が何時かは明けるものなら、せめて今だけは時が止まってほしかった。風に揺れる木々の音だけが聞こえる湖の畔に立ち、魔法が掛かったように夜空を彩る無数の星の下で、互いの手に掴んだ愛を、感じていたかったから。

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