2-10 Virtue Of Honor

 次の日、澪は何時もより30分以上早く起きた。アラームは普段の時間通りにセットしていたが、その前に目が覚める。ただ、二度寝しようにも眠気が戻ってこない。5分ほど目を閉じて足掻いた澪は、しかし諦めてベッドから下りると通学の準備を始めた。

 半袖のセーラー服に袖を通し、鞄を持ってリビングへ下りる澪に、母の美雪が

「今日は早いわね」

と声を掛ける。

「何か、目が覚めちゃって。二度寝できなかった」

と言った澪は、ドリップで淹れられたコーヒーを受け取り、バターを多めに塗った厚切りトーストとプレーンヨーグルトのモーニングに手を付ける。

「昨日の事件、どうにか解決したようね。夜中に連絡が来てたわ」

と言った母に、娘は

「怪我したりは?」

と問う。

「何も?無事だと言ってたわ」

その母の言葉に父が無事だと知ると、澪は安堵の溜め息をついた。

 父から澪への連絡は無かったが、恐らく母に一報が入った頃、澪は流雫とメッセージを交わしていた。

 あの後、2人して寝落ちしていたらしく、起きると画面は既読が付いたまま放置された会話履歴を表示していた。そして充電ケーブルを挿していなかったため、今自分の部屋で慌てて充電している。

 母の美雪が点けていたテレビでは、早朝の情報番組が流れていたが、ちょうど昨日の秋葉原の事件を扱っていた。

 画面に映る6階建てのビルは、それ1棟まるごとNPO法人OFA……ワンフォーオール……の事務所だった。平成初期に建設されたらしい、少し古さを感じさせるその外観には、壁にも窓ガラスにも無数の弾痕が見えた。

 その銃撃をきっかけに、8時間以上に及ぶ籠城が始まり、そして犯人の全員死亡と云う結末を迎えた。更に、その番組で人質の犠牲者は全部で5人だったことを知る。最後にニュース速報を見た夜の時点から、2人が更に死亡したことになる。

 「……行ってくる」

暫し呆然とした表情でテレビを見ていた澪は、ふと我に返るとそれだけ言って鞄を手にした。後はスマートフォンを自室から持ってくるだけだ。

「澪」

と母が呼び止め、

「……澪は優しい子だから」

と続けた。澪は微笑みながら言い返す。

「何を言いたいか判ってる。……でも、あたしなら心配ないわ。誰の娘だと思ってるの?」

しかしそれは、自分への戒めだった。

 

 現職刑事の父と、元警察官の母の間に生まれ育った一人娘は、テロに遭遇したことで、人の生き死にに対してナーバスになっている。そして、テロの背景が垣間見え、それに憤りを覚えるようになった。

 己の理念を知らしめるために、平気で無差別に人を殺す。とあるカルト教では、それが殺された人の魂の救済であり最上級の功徳になるとされた。だから、地下鉄に神経ガスを散布すると云う無差別テロを東京で起こした。

 そして一部の宗教では、今でも自爆テロの実行犯として死ぬことを厭わないための、謳い文句として顕在している。自爆テロを起こすことで、無数の人の魂を救済し、それによって天国に召されることになるなら、死ぬのは怖くないのだ、と。

 それが根底に有るかは定かではないが、渋谷やジャンボメッセで自爆テロが起きた。自爆でなくても、アフロディーテキャッスルのように機銃で射殺しようとした。

 そう云うテロに、あたしと自分自身が殺されないようにと、死に物狂いに戦っている少年、流雫の力になりたかった。


 学校に着くと、真っ先に結奈と彩花が寄ってくる。昨日の夜会って話したことが、今日最初の話題だったのは或る意味当然のことだった。

 「どうにか、解決したっぽいね。少しほっとした、かな」

と彩花は言い、それに結奈が続いた。

「だね。後味は悪いけど……一先ずはって感じなのかな?」

 他人事の事件ながら当事者であるかのように言う2人。それだけ、気になることが多かったのだろう。その一方で

「……でも、何か気が晴れない……」

と澪は言った。

 ……恐らく、担任教師からも昨日の事件についての話が有るだろう。そして澪は、下手に何が起きているか知っている。それもそれで不都合だ。

 澪は大きく溜め息をつく。溜め息をつくと幸せが逃げると言われるが、溜め息をつかないとやっていられない。それほど、周囲に問題が溢れ過ぎていた。

 やがて、担任の天狗平が入ってくる。あの男子生徒は、やはり今日も来ていない。治療が終わっていないのか、父親の件で来ることができないのか。教室中がその話題で少し騒がしい。

 澪は、その両方だと思った。掠った程度なら未だしも、仮に銃弾が埋まっているとなると摘出しなければならず、術後の経過観察も有るだろうし、すぐに退院できるワケではない。

 挨拶の後で、担任から昨日の件についての説明が始まった。教室中が騒然となるが、それは自然のことだった。同級生の身内の不幸、その原因が銃撃事件の犠牲なのだから。

 ……去年の2学期最初の日、流雫はどんな思いと表情で担任の話を聞いていたのだろう……、と澪は一瞬思った。身内ではないが、大事な人の死を改めて思い知らされて……。

 話は1時限目の半分まで使って続けられた。その間、澪は話を上の空で聞いていた。気になるのは、やはり昨日の銃撃のことだった。


 何時もと同じように始まった1週間。昨日の頭の疲労が未だに残っているように思いながら、流雫は月曜日の授業を乗り切った。もう少しすると、期末試験に向けて周囲が軽く殺伐としてくるが、流雫はそうならない。元々成績は上位で、もっと机に向かう時間を増やせば、学年首位も夢じゃないと思われている。

 ただ、数日間の短期決戦のためだけに血眼になるのは、性に合わない。何より、それより気になることが有った。

 ……昼休み、流雫はサンドイッチ片手に関連するニュースを片っ端から読み耽ったが、それで判ったことは少なくない。

「犯人死亡……」

流雫は呟いた。

 

 犯人は全部で3人。8時間に及ぶ膠着状態の末、警視庁の特殊武装隊が突入したが、犯人は無抵抗だったと云う。

 そして、銃を下ろして投降しようと云う姿勢が見られたが、突然取り出したガラス製アンプルの首を机に叩き付けて折り、入っていた液体を飲み、数分以内に悶絶しながら絶命した。検死の結果、シアン化物……具体的には青酸カリウムによるシアン化物中毒だった。

 シアン化物は法令で毒物に指定され、購入時の身元確認から保管量などの記録まで厳重な管理が必要となる。入手経路を警察が突き止めれば、真相究明は一気に進展するだろうか。

 ただ、どっちにせよ服毒自殺と云う結末は、誰も予想していなかった。そして身元を調査しているが、入国管理記録への登録が無く、他の各種データベースへの登録も無いため、国籍不明の不法難民である可能性が有る。

 難民の仕業……としては、流雫にとっては不自然だった。

 OFAは難民支援のNPO法人であり、犯人が本当に難民なら、自分たちを保護し支援するハズの団体だ。それなのに何故襲撃したのか。

 仮に、求めた保護と支援を拒否されたのなら、逆恨みが原因だったとしても不思議ではない。しかし、そもそも銃火器や毒を何処で入手したのか、など疑問は尽きない。


 ……首を突っ込んだところで、どうしようもない。それは流雫だって判っている。しかし、それでもシルバーヘアの少年は首を突っ込みたかった。独り善がりと言われようと、美桜の死の原因に迫れるのなら。

 そうしても、別に美桜が生き返るワケでもない。ただ、彼女の死に目に会えなかった、別れの一言も言えなかったことを贖えるのなら。それは、今でも思っている。不可抗力で割り切ることなど、できるハズもない。

 何時か、この世を離れた後でまた会った時に、少しは顔を向けられるように。そのためには、今を生き延びなければいけないし、澪を死なせるワケにもいかない。今のままじゃ、顔向けなどできない、と思っていた。

 ……宗教に起因したのかは判らないが、名誉の功徳のために美桜が殺された。渋谷の自爆テロで、爆薬を搭載したアドトラックを運転していた実行犯が自分の犯行をそう認識しているのなら、これほど理不尽なことは無い。

 ……流雫はふと、或る言葉が頭に浮かぶ。それは、もしその通りだとすると、昨日の秋葉原での事件も、トーキョーアタックを起点に1本の線で繋がる気がした。……だが、その可能性は有るのか?

 流雫はペンションまでの帰り道、信号に引っ掛かって止まる度に頭の整理をしていた。


 流雫はペンションに帰ると、すぐにその手伝いを始める。今日も客室は満員で、ディナーの準備が慌ただしい。その片付けまで済ませると、ようやく自分の時間が始まる。

 普段は最初にシャワーを浴びるが、今日はそのまま部屋に閉じ籠もることにした。シャワーなら明日の朝でも十分だし、最悪1日ぐらい浴びなくてもどうなるワケでもない。その時間を削ってでも、やりたい……やらなければならないと思うことが有った。

 流雫は、この日宿題が何も出ていないのをよいことに、白紙のルーズリーフのリフィルを数枚机に並べる。そして、ペンケースに入った4色のミリペンと呼ばれる細書きサインペンに手を伸ばした。軽い力で書け、大量にノートに書く授業でも重宝する。

 ……トーキョーアタックこと東京同時多発テロ、河月教会爆破テロ、河月ホールセールストア襲撃、アフロディーテキャッスル襲撃テロ、そして東京ジャンボメッセ襲撃テロ。自分が今まで遭遇してきた事件について、文字と図をひたすら書いていく。

 1時間後、4枚のルーズリーフが裏表埋まった。……流雫が思った通りだった。恐らく、警察もその線には辿り着いているだろう。ただ、外れてほしい。

 ……何に追われ、何に必死になっているのか、と自分に苦言を呈したい。しかしそれでも、全てが解決するのをただ待っているだけなのは性に合わない。それよりは遙かにマシだと思っていた。何しろ、遭遇したと云う意味では当事者で、単なる目撃者ではないのだから。

 流雫はカメラアプリを起動させ、ドキュメントキャプチャでルーズリーフを撮影する。机の上で紙を撮影すると、机の部分を切り取って形を補正し、紙だけを綺麗に撮影したようにする機能で、スキャナ代わりになるスグレモノだ。

 そうして画像をルーズリーフのページ分だけ用意した流雫は、メッセンジャーアプリを開き、澪のアイコンを選ぶとメッセージを送った。

「ミオ、今いい?」


 宿題を終え、ホットココアでも飲もうと思った澪は、キッチンへ向かった。電気ケトルで沸かした湯を猫柄のマグカップに注ぎ、シルバーのスプーンで粉末ココアを溶かし、部屋に戻る。

 数分だけ机の上に置き去りにした、スマートフォンの通知ランプが光っていた。流雫からのメッセージだった。

「……ミオ、今いい?」

その一言は、重苦しい話になることを示唆している。しかし、目を逸らすワケにはいかない。

「どうしたの?」

と澪は返す。

 2分ほど経って、彼とのファイル共有スペースに数枚の写真がアップロードされた。ルーズリーフを撮影した画像には、何やら字と図が記されている。

 「……昨日の話を思い出しながら、少し気になることを書いてみたんだけど」

流雫はそう前置きを送り、数回分の呼吸を置いて、メッセージにぶつける。学校からの帰り掛けに頭に思い浮かんだ言葉を、ルーズリーフに書き連ねて確信した言葉を。

「全てが、マッチポンプだとすれば……」


 マッチポンプ。火を点けるマッチと、水を汲み上げるポンプを語源とする和製英語だ。

 自分でマッチで放火した後、被害者が困っているところに消火用の水を汲むポンプを持って現れ、消火に協力する見返りを求めると云うのが由来だとされる。簡単に言えば、トラブルメーカーとトラブルを解決するヒーローが同一人物と云うものだ。

 秋葉原の銃撃事件だけを見ると、それが報道で見たように難民の仕業だと云うなら、本来自分たちを支援するハズの団体を狙う理由が、流雫には思いつかない。

 ただ、難民云々を一旦脇に置いて、改めて捉えてみると、支援団体が狙われるのは支援に反対する……つまり難民排斥を唱える連中の標的になったからだ、と言える。そこに、再度難民の仕業を当て嵌めてみると、難民が自分たちを排斥したい……簡単に言えば虐げたい連中のために、行動を起こしたと言えるだろうか。

 自分たちが排斥、排除されると云う本来不都合なことを受け容れ、本来自分たちを支援する側を襲う……その一見不可解な謎は、裏でそうさせる……そう仕向けるだけの何か大きな、絶対的な力が働いている、としか思えない。

 ジャンボメッセの件は秋葉原の事件とは別物だとしても、しかし自爆した犯人グループの演説から、あの国会議員の演説に影響を受けている感じがする。推理どころか妄想の域を出ないが、この犯人を裏で操っていた黒幕がいる……?

 そして、難民の排斥をベースに外国と外国人の干渉を拒絶し、日本人の日本人による日本人のための偉大なる日本を再建する、その思想を流雫が知る限りで最も露骨に見せているのが、国会議員の伊万里雅治だった。


 「全てが、マッチポンプだとすれば……」

流雫からのメッセージに、澪は目を見開く。マッチポンプと云う6文字の片仮名に、彼女は脳が痺れるような震えと悪寒を覚える。

「……マッチポンプ……」

澪はその言葉を無意識に呟く。そして

「全ては、誰かの陰謀が形を変えながら、色々なテロを引き起こしたって云うの……?」

と流雫に恐る恐る送りながら、同じ事を声に出した。

 「推理と云うより、妄想の域を出ないけど、僕の頭じゃそうとしか思えなくて」

流雫の返事は、しかし僅かながら真実に触れている気がした。少女は頭を抱えながら、彼からの画像を見返している。

 ……全てはマッチポンプ。それは彼女自身、一瞬も頭を過ったことは無く、完全に予想外だった。

「……まさか……」

澪は言葉を失った。

 しかし、流雫が寄越したルーズリーフの写真に細かく書かれてあることが真実だとすれば、誰が黒幕なのか。その答えは、澪には容易に想像できた。澪は打った。

「……マッチポンプって、その黒幕が……あの国会議員だと……思ってるの……?」


 澪から送られてきたメッセージを見た流雫は、流石は刑事の娘だと思った。同時に、彼女を敵に回すと厄介なのだろうと思った。その鋭さには多分勝てない。

 「今までにテレビなんかで見てきた議員で、ここまで露骨だったのは他にいないから、他には思い浮かばなかったから。だけど……」

と打った流雫は、ペットボトル入りのサイダーを飲みながら続ける。

「アメリカの映画なら有り得る話ではあるけど、事実は小説より奇なりと言うなら、それが現実に起きたって不思議じゃない」

 「でもどうして……」

澪は問う。

「難民の仕業に見せ掛け、難民を危険な集団として、日本から排除する機運を高めたいから」

「どうやって人を集めたのかは知らないけど、何かの事件を待つよりは意図的に事件を起こして世論を動かした方が早い」

流雫は文章を分けて連投した。


 月曜の夜に2人が交わすメッセージは、大凡高校生の男女のそれではない。しかし、テロが引き寄せた異常な恋人同士だから仕方ない。流雫は、そう思いながら苦笑を浮かべる。

 「問題は、どこから実行犯を調達するか、だけど」

流雫は打つ。

 調達……人を物扱いしている不適切な言葉だが、黒幕にとっては適切な言葉だった。特に自爆テロの場合は、誤解を招く言い方をすれば捨て駒、「使い捨ての武器」程度の認識に過ぎないのだろう。ただ人間か無機物か、の違いだけか。

 「……自爆で死ぬことを厭わない人々……」

澪は打ちながら、しかし少しだけ答えが見えている気がした。そして送られてきた流雫の返事は、澪と同じだった。

「……難民、なのかな」


 流雫の故郷、フランスでここ数年、毎年のように起きているテロは、その原因を辿れば宗教に行き着く。

 名誉の功徳のため、信仰する神のために、自爆テロすら厭わないほどの信心を強く持っている連中が、勇んで実行犯に名乗り出る。その信心の深さを、活用しないテはない。

 それから宗教を省いたのが、最近の……謂わば日本版自爆テロだ。何らかの方法で不法入国させた難民を保護……実態は監禁……して、洗脳と云っても差し支え無さそうな「教育」を施して、実行犯に仕立て上げる。それが最も手っ取り早い。特定の宗教を絡めているかは判らないが。

 または、日本で生活できるだけの報酬をエサに釣って、仕立て上げることだってできるだろう。どちらにせよ、入国記録が無ければ、何処の誰かも特定できない、と思っているのか。

 そうやって、正体不明のテロ犯を生み出し、惜しむことなく投入する……。そうすれば、自分は直接手を汚すことなく、難民排斥への気運を高めることができる。

 ……数分経って届いた澪からのメッセージは、今流雫が思っていることを上手くまとめていた。


 「難民を捕まえて実行犯に仕立て上げて、操ってテロを起こさせる。そうすれば、難民の仕業だと堂々と言えるってこと……?」

澪は思ったことをメッセージにぶつけた。

 有り触れた言葉で言えば、人の命を何だと思っているのか。ただ、そうでもなければ、こう云うのはまず思いつかないだろう。

「自爆は別として、秋葉原の服毒自殺は単なる自分の口封じだったと思う。もし自分の難民としての経歴や、入国後の足取りがバレると、黒幕にとっては不都合過ぎる。だから逮捕される直前にこいつを飲め、とでも指示されたんだろう……」

 「……そう云う、非道な連中にあたしたちは……殺されそうになったの……?」

澪は呟く。

 殺されそうになっただけじゃない、何百人も殺されている。そして、助けを求めてやってきた日本で捨て駒として使われ、不本意な死に方をした犯人も。

 犯人の肩を持ちたいワケではないが、拒否できない立場なのをいいことに上手く操られただけなら、少しは同情したいと思っても不思議ではない。

 「……そんな、理不尽過ぎるじゃない……」

澪は流雫へのメッセージを打ちながら、同じことを声に出す。それは流雫の方が思い知らされているが、澪は声にした。

「理不尽なんだ、何もかも……何もかも……」

そう送られてきた流雫のメッセージを目にした澪は、思わず流雫のアイコンをタップし、現れた通話ボタンをタップした。


 自分が送ったメッセージに既読アイコンが付いた直後、澪のアイコンが大きく表示され、着信音が鳴る。

「澪……?」

流雫は呟き、通話ボタンをタップした。

 「澪……?」

「流雫……」

自分の名前を呼ぶ彼に、澪は少しだけ弱々しい声で名を呼び返す。流雫は問うた。

「どうしたの?」

「流雫が、泣いてるんじゃないかって……」

澪は答える。その澪の方が、泣きそうなのが流雫には判る。

 「だって、理不尽過ぎるじゃない……。流雫は、何度も殺されそうな目に遭って……」

「美桜を殺されて……?」

流雫は言った。彼からその一言が出るとは思っていなかった澪は、一瞬息が止まる。少し言葉を詰まらせそうになった。

「……それが全て、マッチポンプのためだなんて……」

「……妄想だと思いたい。……ただそれが、少なからず真実に触れてる気がする……」

声を詰まらせる澪に被せるように、流雫は言った。


 澪は怖がっていた。自分が死ぬこと、それ以上に流雫を殺されることを。

 それは流雫も同じだった。死ぬことは怖いが、何より澪を失うことが辛い。

 もし、これがメッセンジャーアプリ越しではなく、昨日のように澪の隣で話しているのなら、流雫は無意識に澪を抱いただろう。

「っ……流雫……痛……ぃっ……」

と彼女が声を上げるほど、強く。放してと言われても無視して。

 ……澪は何度も、流雫を抱いた。テロから逃げ切って、緊張の糸が切れた彼を支えるように。その度に流雫は、澪が生きていることを何よりも感じては、救われていた。そして、何度も感じたかった。

 

 「流雫が泣いてなくて、安心した」

澪は言う。流雫は言い返す。

「……澪だって」

「……あたしは、別に。ただ、何か……」

そう言い掛けた澪は黙る。……理不尽過ぎることばかりで、怒りの吐き捨て場を失っていた。

 「……理不尽だし、僕だって思うことは色々有るよ。でも、もうこの流れは誰にも止められないんだと思う。今更、平和裏に決着を見るとは思ってない」

「だから、僕はまた何かの拍子にテロに遭うんだろう。そして、殺されないように犯人を撃つことになる……その覚悟はしてる」

と吹っ切れたように言う流雫の声は、澪を心配させるだけの悲壮感を滲ませていた。恐怖を押し殺そうと必死に足掻いているのが澪には判る。

 「……流雫がテロに遭わなきゃいけない理由なんて……」

そう言った澪に流雫は

「何故ここまで遭遇するのか、神がいるなら問い詰めてみたいよ」

と被せた。無理に微笑んでみせたような声は、しかし澪を安心させることはできなかった。


 今まで話した事があまりに重かったから、最後ぐらい少しは明るい話題にしたかった。その前に澪は問うた。

「先刻のルーズリーフ、父に見せてもいい?」

「いいけど……あくまで僕の推理と云うか妄想だからね?」

と言った流雫に、澪は

「判ってるわ」

と言い、話題を変えた。

 「……今月は、月末ぐらいしか会えそうにないかも。期末試験だし、何処に行くにも梅雨時期は……」

「仕方ないよ、元々僕が都内じゃないし。でも7月……夏休みは東京に行きたい、8月は必ず渋谷に行くけど」

と流雫は言う。澪は問うた。

 「渋谷?8月に?」

「うん、8月……27日。渋谷で、トーキョーアタックの1周年の追悼行事が有るらしくて」

そう答える流雫が、そのことを知ったのは今日の夕方、SNSのニュースだった。

 トーキョーアタック……東京同時多発テロ事件は、2023年8月27日、東京中央国際空港と渋谷駅前で起きた。そして、最初に発生したのは空港だったが、被害が甚大だったのは渋谷だった。そのため、渋谷の慰霊碑前を会場として執り行う、とされていた。

 流雫は、その告知を見るや否や、カレンダーアプリにその日程を入力した。

 ……美桜の死からちょうど1年。4月、2週間のフランスへの帰郷を終えて日本に帰国した日に、渋谷に行って美桜と「話した」。

 それから5ヶ月近く。この節目に合わせて、少年は再度行こうと決めた。

「……あたしもいい?」

澪は問う。流雫は即答した。

「いいよ」

 それは、澪が美桜にもう一度会いたいからだと、流雫は思った。澪が彼女に何を言いたいのか、何を思っているのかは判らなかったが。


 流雫に同行する形で、渋谷に行くことは思ったより簡単に叶った。幾ら何でも、流雫はあまりよい顔をしないのでは、と澪は思っていたが、無用な心配だったらしい。

 ……流雫がパリに着いた日、澪は雨が降る中、1人渋谷へ向かった。しかし、慰霊碑の前に立ち尽くしたまま何も言えず、滲んでフォーカスを失った瞳で、春の冷たい雨に打たれ続けるレリーフを見つめていた。傘で泣き顔が隠せることを、好都合だと思いながら。

 ……それから2ヶ月。澪と流雫は一線を越え、かつて彼女がいた位置に澪は立っている。自分が彼女に掛けてやれる言葉は無い、としても澪は顔を向けたかった。今度は泣かない、しっかり慰霊碑に正対して。

 ……まだ2ヶ月半以上先の話だ、その時はできる。澪はそう信じたかった。


 2人はそれから少しだけ、通話でする必要も無さそうな話をして、

「おやすみ」

と言い合って通話を終える。

 時計は22時半を回っていた。机に向かい始めて2時間、澪に最初にメッセージを送って1時間近くが経っていたことになる。

 流雫はスマートフォンにUSBケーブルを挿して充電を始めると、ルーズリーフを束ね、1冊だけ余っていた未使用のバインダーに綴じる。

「……しかし、よく書いたな……」

流雫は呟く。

 ……警察でも探偵でもないのに、こんなことをしても独り善がり、ただの暇潰しにしかならない。そう思われるのは判っていた。

 しかし、どうも引っ掛かっていた。だから書き出して整理してみないと気が済まなかった。

 そこに、真実に迫っているような確度は求めていなかったが、しかし少しは掠っている……。澪と話していても、流雫はその根拠無き自信が有った。


 澪は流雫と共有されたルーズリーフの写真を見返し、ダウンロードしながらリビングに下りる。父の常願と母の美雪が、肉の燻製を肴にシャンパンを飲みながら海外のドキュメント番組を見ていた。薄型テレビには、エッフェル塔が映っている。澪は、フランスと云うと流雫を思い浮かべるクセができていた。

 「澪、どうしたの?」

母は問う。飲み始めたばかりなのか、2人は微酔いにすらなっていない。話すなら今だと思った。

「ちょっと、これ見て?」

澪は言い、自分のスマートフォンを出して父に見せようとする。

 ディスプレイには、ルーズリーフの写真のサムネイルが並んでいる。4色のインクで色々書かれていた。

 「これは?」

「流雫から送られてきたんだけど」

母の問いに答える澪は、父にスマートフォンを手渡す。ベテラン刑事は娘の端末をに触れ、写真を開いて拡大する。

 「お前、これ……」

と声を上げた父は、回り始めそうだった酔いが一瞬で覚めるのを感じた。

「彼なりに、ここ最近のテロの疑問を書き出したらしいの。あくまで妄想だとは言ってるけど」

と説明した娘に、父は問う。

 「しかし、このマッチポンプの黒幕とは、誰のことを言っていた?」

「……国会議員、伊万里雅治だって」

一呼吸置いて発した娘の一言に、室堂家のリビングが瞬間的に凍り付く。

 「……妄想にしたって、これは酷い」

父は溜め息をつき、問う。

「もしこれが真実なら、とんでもない政治スキャンダルだぞ?」

「だから、流雫も妄想だと言ってるの。事実は小説より奇なりだけど、あれだけ露骨に難民批判をしているのは、他には思い浮かばない、と言ってたわ」

そう答えた澪は、一度立ち上がった。

 数十秒後、少女は冷蔵庫から取り出したジンジャーエールのペットボトルを手に戻ってくる。そしてフタを開けて渇いた喉に炭酸を流すと、続けた。

 「でも少なからず、真実に触れてるとは思う。……根拠は無いし、あたしは流雫の全肯定ボットじゃない。それでも、何度もテロに遭遇してる流雫が、あれだけ必死に生き延びてきた流雫が、遊び半分でこんなのを書くとは思えない」

その言葉に、母は問う。

「澪は、流雫くん云々を差し引いて、どう思うの?」

 「……この写真に書いてるようなこと、全く思ってなかった。ただ、演説なんかの中身が似ていて、それも誰かの影響を受けただけなのかな……、とか思ってたぐらい」

澪は答える。

「……一見遊び半分、単なる推理の真似事にしか見えないが、しかしそうとは言い切れない。何しろ、全ての事件で犯行声明が全く出ていないからな、仮にコレが本当でも不思議じゃない」

と父は言いながら、スマートフォンを持ち主に返すと続けた。

 「今、テレビでフランスのテロ問題が出ていたが、あっちは宗教絡みのテロが多いらしい。アメリカ同時多発テロの時もそうだったが、指導者なりが犯行声明を出している、それは動機が奴らにとっての正義だからだ」

だから先刻エッフェル塔が映っていたのか、と澪は思った。そのテレビは、今は夜のニュース番組を映している。

 父は一度立ち上がり、コップに水を注ぎ、戻ってくると一気に飲みして言った。

「しかし、トーキョーアタックと云い今年多発しているテロと云い、それが全く無い。ジャンボメッセのアレは、犯人があの場で言っていただけで、声明に入れてよいのか微妙なところだが」

「……単なる愉快犯の単発が重なったか、動機を出しては困る事情でも有るのか。困るとすれば、表立つ連中と裏に潜む輩の関係が明るみになるからだろう」

そう言って腕を組む父に、澪は問うた。

 「……もし流雫のコレが真実なら、その関与が明るみになると政治スキャンダルになるから、何が何でも隠し通したい……?」

「だから酷い話なんだ。尤も、政治スキャンダルで済む程度なら、まだマシだがな……」

そう答えた父は、改めて日本酒をコップに注ぎながら言う。

「……その写真、俺にも送れ。立場上、頭の片隅に入れてやることしかできないが、何かの参考にはなるだろう」

「今送るわ」

そう言って画面に向かう澪に、母は問う。

 「しかし、流雫くんって何者なの?」

「……ただの高校生よ。だけど、空港でトーキョーアタックに遭遇して、テロだとか人の生き死にには、かなりナーバスになってる」

と澪は答え、ジンジャーエールを口にしながら続けた。

「……あれが起きなければ、あたしと知り合うことは無かっただろうけど、でも絶望に沈むようなことなんて無くて、平和に暮らせてたんだろうな……」

それは時々、ふとしたことで思い出す。

 「それが、原動力ってワケか」

父は言う。澪は答えた。

「あたしはそう思う」


 澪が自分の部屋に戻ると、あと30分で日付が変わろうとしていた。少し早いが寝ようとベッドに身を投げた澪は、しかし今日眠れるか不安になった。頭が疲れている感覚はするが、しかし整理が追いついていない。

 澪は溜め息をついて、目を閉じる。何時しか降り出した雨は、眠気を誘うBGMにはならず、覚醒を止めることを知らない脳に新たな刺激を刻んでいた。

 明日、休めるものなら休んで1日寝ていたい。澪はそう思いながら、意識を手放すまで目を閉じたまま、心を無にした。

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