2-9 Contract With The Devil

 美桜の死は、一生背負うべき十字架。そう流雫は思っている。空港で狂ったように泣き叫んだ彼に突き刺さった残酷な現実が、やがて情報の海で彼と澪を引き寄せ、そして今この瞬間を迎えている。

 澪だけは、死なせるワケにはいかない。そのために、美桜が僕を生かしているのだ……とさえ思えた。

「……でも、これで少しは前に進むといいね」

澪は言う。流雫は頷く。

 ……銃を持つ、持たない。その選択は個々の自由だった。しかし流雫も澪も、前者を選んだ。そうでなければ、今2人は……特に流雫は生きていなかっただろう。

 日本国民の2人に1人が、銃を持っている。しかし、大多数が幸いなことに使ったことが無い。残りの、ほんの一握りは不幸なことに使わざるを得なかった。そして、流雫は既に3度も、引き金を引いている。世界中の不幸が降り注ぐ……そう感じる時も有る。

 それでも、自分と澪が生き延びるためなら、躊躇わない。今殺されては、澪を失っては、あっちの世界で美桜に合わせる顔が無い。

 ……ダメだ。澪がいながら、何を思っているのか……。

「……澪がいるのに、美桜を思い出す……。ダメだと判っているハズなのに」

自分を嘲笑うように言った流雫の顔を見つめた澪は言い返す。

「……ダメじゃないよ」

「澪?」

彼女の名を呼ぶ少年に澪は言った。

「彼女はそうやって、流雫の記憶で確かに生きてる。多分、あたしでも敵わないと思ってる。だって彼女は、あたしより先に、流雫の愛を掴んだから……」

……澪は妙に落ち着いた声をしていた。彼女に敵わない、その悲壮感混じりの言葉とは裏腹に、その表情に曇りは無い。

 「……彼女のこと、何も知らないあたしが言うのって、何か違うとは思ってる。でも、あたしも彼女が生きたかった今をこうして生きてて、彼女が好きだった流雫を愛してて。その意味で、あたしは彼女に生かされてる……」

そう言った澪は、優しい微笑を見せた。


 フランス人の血を引く流雫にとって隣国となるドイツで有名な戯曲は、ゲーテの代表作と言われるファウスト。その作中で或る意味キーパーソンになるのが、グレートヒェンと云う少女だった。

 作中、彼女はファウストと恋に落ちたが、婚前交渉とその末に産んだ赤子を、キリスト教徒としての敬虔さ故に殺した罪で、斬首刑に処される。

 魑魅魍魎の饗宴ヴァルプルギスの夜で、首に赤い筋を付けたグレートヒェンの幻影を見たファウストは、彼女の処刑前日に投獄されている牢獄へ向かう。しかし、悪魔メフィストフェレスの影が潜むファウストの意に反して脱獄を拒絶し、処刑を受け容れ、贖罪と救済を神に求めた。

 その後処刑されたグレートヒェンは、ファウストの死後、彼の魂を天国へ救済するために祈りを捧げ、彼は彼女によって救済される。

 恋に焦がれた末に犯した過ちで処された彼女は、しかし彼の魂を救済しようとする。そう大雑把に切り取れば、グレートヒェンは聖母そのものではないのか、と思えてくる。

 ……そして、流雫には澪がグレートヒェンなのではないかと思えた。

 流雫とデートしたが故に、テロに遭遇し死の恐怖に晒された。それも二度も。普通なら、愛想を尽かされて捨てられても、何の文句も言えない。

 しかし、澪はそうしなかった。流雫を抱いて、慰めていた。そして、僕の力になる、とまで言った。それが聖母でなければ何なのか。

 澪は、彼女への言葉を見つけられない流雫に言った。

「だから、彼女のためにも思い出してあげなきゃ……」


 正直に言えば

「澪に僕の何が判る!?」

と言われても文句を言えないことを言っている、その自覚は澪にも有った。そして、それしか言えない自分にも、彼女は無力さを感じていた。

「……美桜のため、か……」

流雫は呟く。

 美桜と云う少女の死は、どう足掻いても避けられなかった。語弊を恐れず云えば、不可抗力だった。

 だが、澪が地下鉄で爆発物テロに遭った時、流雫は自分がフランスにいることを嘆いた。あの少女が渋谷で命を落とした時、フランス帰りで東京の空港にいたことを嘆いたように。

 ……そう思えばキリが無い。ただ自分を苛んでいるだけだ、としか見えない。しかし、彼を嘲笑うことはできない。澪が同じ立場なら、間違いなく同じことをしただろうから。

 トーキョーアタックの悲劇が、流雫にとって重い十字架になっているのは、誰が見ても明らかだった。しかし同時に、自分と澪が生き延びるために引き金を引く、と云うテロにも臆さない、屈しない原動力になっていた。

 ……流雫は脆い。だからあたしは、彼の力になりたかった。そして何時しか、それがあの少女にできる、唯一の弔いだと思っていた。


 弱まることを知らない雨音だけが響く流雫の部屋で、2人を包む静寂を破ったのは、澪のスマートフォンから流れる着信音だった。澪はショルダーバッグに手を入れて端末を取り出し、通話ボタンをタップする。

「どうしたの?」

澪は相手に問う。その言い方から、親しい仲か。やがて、彼女の表情が険しくなるのが流雫には判った。

「……じゃあ、なるべく遅くならないうちに帰るね」

「……流雫にも、そう伝えるわ。……気を付けてね」

と 澪は続けて言い、机にスマートフォンを置くと流雫に顔を向ける。

「父から。……今から東京の現場に急行するから、あたしを連れて帰れないっぽい。だから列車で帰らないと。あと、流雫によろしく、と言ってた。帰りの列車、後でチェックしないと……」

その言葉に流雫は

「刑事って大変なんだな……休む間もなく蜻蛉返りか……」

と言った。

 「トーキョーアタックの時なんて、数日も帰って来なかったぐらいだから。でも、あたしが住んでる東京の治安は、そうやって父が守ってる。母も昔は警察官だったし。……大変なのに文句一つ言わないんだから、尊敬してるわ」

と澪は言った。だから彼女は正義感が強いのだろうか。自分には足りない部分だ、と流雫は思った。

 「しかし、河月から東京まで、高速でも2時間近く……それでも駆け付けるってことは……」

「大きな事件でも有ったのかな?」

流雫の言葉に澪が続く、と同時に、流雫はスマートフォンを手にし、SNSを開いた。澪との遣り取りにメッセンジャーアプリを使うようになったことで、最近はニュースをトレンドから探すぐらいしか使っていない。

 6インチのディスプレイをスクロールする流雫の指が止まる。

「東京銃撃」

その4文字をタップすると、関連するつぶやきがディスプレイを埋め尽くす。情報が錯綜しているのが判る。

「東京、銃撃……?」

思わず流雫は呟く。

「銃撃?何処で!?」

裏返った澪の声に、スマートフォンのニュース速報の通知が重なる。

「……秋葉原らしい」

流雫は答えた。ニュース速報のポップアップも

「秋葉原で銃撃、3人死亡」

と表示されていた。

 「秋葉原……?」

澪は言った。

 4月、流雫が2週間の帰郷を終えて日本に帰国した日に、2人で行ったカフェが有ったことを、2人は同時に思い出す。

 秋葉原は日本最大の電気街であり、またサブカルチャーの聖地として栄えている。一方で、その界隈の中心となる秋葉原駅の反対側は、鉄道の乗換の利便性が非常に高いことを武器とした、ビジネス街としての顔も有る。

 澪のスマートフォンにもニュース速報の通知が入った。少女は無意識に開いた記事を読む。

 「……NPOの難民支援団体、OFAの本部ビル前で銃撃。3人が死亡、犯人は立て篭もり中」


 OFA。ワンフォーオールの略で、正式名称はニッポンサポートワンフォーオール。4年前に誕生した日本発の難民支援団体で、特に不法難民への支援に強い。東京の秋葉原近辺に本部を置き、地方の拠点は山梨だけだが全国各地に協力者がいる。ニュースサイトのホットキーワード解説のページには、そう書いてあった。

 4年前と言えば、世界各地でパンデミックによる渡航制限が相次いだ頃だ。この時、日本は対策が後手後手に回った結果、海外からの入国規制が出遅れた。同時に、そのタイミングを狙った難民が押し寄せた。

 日本は難民認定が遅く、また対応も悪いと言われている。しかし、数百キロ単位で離れた地から船でやってくる密入国の難民も、後を絶たない。

 その受け皿と云う目的で設立されたNPOやNGOの支援団体は幾つか有るが、OFAはその中でも最大規模を誇る。

 

 「これに行ったのかな……。……とんでもないことになったわね……」

と澪は言った。流雫は何も言わなかったが、自分を見つめる表情で判る。的確な言葉が見つからないのだ、と。

 ……先刻、澪の父とその後輩刑事も交えた4人で話していた時も、トーキョーアタックが難民とその支援組織が起こしたものだと云う国会議員の演説の話が出ていた。

 もしその演説が、澪が聞き流そうとした理由の、単なる陰謀論で印象操作目的でしかないのなら、その話を真に受けた連中の、正義の鉄槌と称した仕業か。逆に、仮にそれが本当のことだとすると、反難民支援を掲げる連中の仕業か。

 どちらにせよ、これが解決しても単発で終わる話だとは思っていない。

「……どっちに転んでも、事は大きく動く予感がする」

流雫はようやく口を開いた。だからと云って、彼には……そして澪にも、何もできない。ただ、その行方を見守るだけだ。


 灰色の空は、少しだけ黒を帯びる。遅くならないように、と思っていても、流雫と少しでも長くいたかった。

「……送るよ?」

流雫は言う。澪は頷く。

 雨は未だ降っているし、送ると言っても車を持っているワケではない。ただ、バスに乗って河月駅に送るだけでも、少しでも長くいられるなら、それだけでよかった。


 Tシャツの上から、薄手のUVカットパーカーを羽織った流雫は、ネイビーの傘を差して澪と出る。近くのバス停から乗ったバスで河月駅に着くと、澪はICカードをパスケースから出した。

 流雫が発車案内を見ると、10分後に特急が来るらしいが、窓口の案内板のディスプレイは全席指定席の列車に空席が有ることを示していた。快速より速く、座席の質もよく乗り心地は桁違い。特に今日のように、遊び以外で疲れた日の帰りに乗らないテは無い。

 流雫は券売機で特急券を購入し、澪に手渡す。

 「目的が目的とは云え、わざわざこんな遠くまで来たんだから」

流雫は微笑む。

「……わざわざ、ありがと」

澪も微笑む。数時間ぶりに、互いに微笑を見た。

 「……次は、遊びたいね」

流雫はふと寂しさを滲ませる。

「そうね。こんなことになるなんて思ってなかったから。……そろそろ、行かないと」

と澪が言うと、流雫は軽く微笑み、言った。

「……ああ、気を付けてね」

「うん。流雫……またね」

澪は微笑み返すと、背を向けて改札へと消える。

 ……そこに少しの寂しさを滲ませていたことは、流雫も知っていた。……このまま、東京に行きたかった。澪の隣にいたかった。改札に背を向ける流雫は、今の2人にはどうしようもない、少しのリグレットを抱えていた。


 流雫から渡された特急券で乗った特急列車は、空席が目立っていて隣には誰もいなかった。それも有ってか、澪にとって初めての、山梨からの特急は快適そのものだった。

 その車窓は、次第にコンクリートの建物が増えていく。何時しか雨は弱くなっていたことが、窓に流れる雨粒で判る。

 河月駅を出て40分近く、澪はブルートゥースイヤフォンで音楽を聴きながら、車窓を眺め続けていた。新宿には20分後に着くが、それから乗換が有る。

 突然、スマートフォンが音楽を遮り短い音を鳴らす。結奈からの通知だった。

「今どこにいる?」

「今?国分寺。特急に乗ってる」

澪は返事を打つ。通過するプラットホームの屋根から吊り下げられた駅名標を見ると、国分寺と書かれていた。

「電話できる?」

「ちょっと待って」

澪は打ち返す。

 平行に敷かれたレールの繋ぎ目を車輪踏む度に響く、鉄道特有の規則的な音を打ち消す音楽を止めた澪は、イヤフォンを耳から外して座席を立つ。念のために財布をもう片方の手に握り、デッキへ移動して通話ボタンを押した。

 数秒もしないうちに結奈につながると、澪は問うた。

「どうしたの?」

「今いいの?」

「デッキだからいいよ?それで、どうしたの?」

と澪は問い返す。一呼吸、いや二呼吸置いて結奈は言った。

「……大町が撃たれた」

「……えっ……?」

と澪は声を上げ、同時に目を見開く。

 結奈が何を言っているのか、澪には判らない。しかし、いくら疎ましい相手だとしても、笑えない冗談を言う彼女ではない。

「……どう云うこと……!?」

そう問う澪に、結奈はあくまでも冷静に言った。

「秋葉原で、銃撃戦に遭って……」

「秋葉原って……まさか」

澪は言う。体中に悪寒が走る少女は、しかし一言だけ続けた。

「……まさか、NPOを狙った……」

「……そう……」

結奈は一言だけ答える。

 先刻のニュースで見たあの事件で?しかし、何故……。

「国分寺……ってことは中央線?ボク、今池袋なんだ。もし会えるなら話したい。彩花もいるよ」

と結奈が言うと、澪は答えた。

「……判ったわ。じゃあ、30分後ぐらいになるけど」

「いいよ」

結奈が言うと、澪は

「じゃあ、後でね」

とだけ言い、通話終了ボタンを押した。

 ……何が、どうなっているの?澪は軽い混乱に陥りそうになりながら、母美雪に帰りが遅くなるとメッセージを入れた。


 新宿での乗換を急ぐ澪は、1秒でも早く結奈と彩花に会いたかった。あの同級生は個人的にどうでもよいが、ただ何が起きているのか知りたい。

 山手線に乗り換え、池袋に着く直前にもうすぐ着く、と結奈にメッセージを入れる。

 列車を降りて改札を通ると、靴跡の形に濡れるタイルを滑らないように踏みながら、大型連休に街宣車が狙撃された東口へ急ぐ。……いた。

 「遅くなった……!」

と言いながら、澪は2人に駆け寄る。2人はようやく来たヒロインに、安堵の表情を浮かべた。

「澪!」

「おかえり!」

2人が続けて声に出すと、澪は

「ちょっと、流雫のとこに行ってて……」

と言う。

「今日もデート?」

彩花は問い、澪はそれに被せる。

「それならよかったけど……。でも何が起きてるの?」

「……何処か入ろう」

結奈は言い、賑やかなハンバーガーショップを選んだ。


 駅前の道路を渡ってすぐの店は、何時も人が多いイメージが有る。賑やかな店内は3人の声が他に聞こえにくく、好都合だった。フライドポテトとジンジャーエールだけをオーダーし、端のテーブル席を陣取った何時もの3人、その中心人物が2人に問う。

 「……一体何が?」

「……秋葉原に遊びに出てたんだ。休憩でカフェにいると、いきなり銃声が聞こえて、外を見ると向かい側のビルの窓に穴が開いてた」

「……あの時みたいに?」

結奈の話に被せるように、澪は問う。それが連休の一件を指していたのは、3人全員が判っていた。

 結奈は頷き、話を続ける。

「ただ、そこからちょっとした銃撃戦になって……」

 その隣で彩花は、スマートフォンの画面をスクロールさせていた。

「……立て篭もり、まだ続いてる……」

そう言って、眼鏡を掛けた少女は2人にディスプレイを見せる。2分前に更新された記事では、事件は続いているどころか、銃撃の表記が立て篭もりに変わっていた。

「もう3時間ぐらい経つんじゃ……?」

澪は言う。……その現場に、十中八九父がいる。勤務地は臨海署だが、今はテロ関連の捜査に携わっている。

 長期化に突入した事件に、澪は父の無事を願うしかなかった。そして、何より彼女たちに問いたいことが残っている。

 澪は問うた。今自分が2人に問いたい最大の疑問だった。

「でも、どうして狙われるの?」


 澪にとって、大町は一言で言えば、生理的に受け付けない。名字を口にするのも憚られる。しかし、だからと撃たれて喜んだりするほど性格は悪くない、と思いたい。

 ……しかし、澪の問いへの答えを誰も持ち合わせていないことぐらい、問うた彼女自身判っていた。

 少しして

「どうしてかは、判らないけど」

と結奈は答えた後、続けた。

「担任からボクに電話が掛かってきて。最初は家に掛かってきて、それで親がボクの番号を教えちゃったらしくて」

 立山家は学校のPTAにも絡んでいるため、元から担任とのパイプは有る。ただ、だからと直接連絡先を教えるのはどうかと思うが。

 「そして、大町は今日が退院の予定だったらしいんだ」

「それで、父親が迎えに行ってて、その帰りに寄ったビル前で襲撃されたらしい。大町は病院で治療中らしいけど、その父親は死亡したって」

「え……?」

結奈の淡々とした話の最後に、澪は言葉を失う。あのニュース速報で見た、3人の死亡者の1人が……?

 「……正直、大町は普段からよく思ってはないけど、それにしたって先週からの踏んだり蹴ったりは不憫過ぎる……」

彩花は言う。それは澪も思っていたし、結奈もそうだった。

 いくら疎ましく思っていても、本人や身内の不幸を望むような真似はしない。それは人としての問題だと思っている。それに結奈が淡々と話したのも、感情を殺さなければ正しく説明ができなかったからに過ぎない。

 そして、同時に新たな疑問が湧く。

「……でも、あのビルって確か……」

「難民支援のNPOが入ってるんだっけ?」

澪に彩花が続いた。澪は頷きながら

「……多分、何らかの事情で出入りしてたんだと思う。そこで狙われたのは単なる偶然で、それに居合わせただけでとばっちりを受けた……?」

と言った。

 ……その線は大いに有り得る。そして、間違っているとは言い切れない。

 「……とばっちりって……」

彩花の表情に陰が宿る。しかし、その単語が一番的確だった。

「とばっちりで親を殺されるって、そんなの……」

結奈は言う。

 澪はその言葉に、自分できっかけを生んでいながら、一瞬心臓が止まる気がした。

 流雫は、とばっちりで恋人を殺された。そう、美桜と云う少女は……とばっちりで殺された。何もしていないのに、ただその場に居合わせただけで、命を落とした。それ以上に理不尽なことは無い。

 もし、今目の前に

「こうなる運命だったんだよ」

と言う輩がいるなら、澪は間違いなく全力で平手打ちを放っている。たとえそれが、有り得ないことだが流雫だったとしても。

 自分の不幸を割り切るなら別として、それが誰かの慰めになることは無い。慰めている自分に酔い痴れるのに、最も好都合でしかないからだ。

「……今は、ただ解決を待つしかないわ……。あたしに言えるのはそれだけ、かな」

澪は言い、溜め息をついてフライドポテトに歯を立てる。濃いめの塩味に少しだけ気を紛らわせることはできたが、単なる一時凌ぎにしか過ぎないことは判っていた。

 

 澪が家に帰ると、21時を回っていた。

 父は帰ってこない、それが母から告げられた最初の一言だった。応援に向かった事件は未だ解決していないようで、今日は帰れないらしい。やはり、現場にいると云う読みは当たった。

 「澪、今日は大変だったわね」

と切り出した母に、澪は

「でもあたしは、ただソファに座って話を聞いてただけだから……」

と答える。それは半分間違っていない。

「自分から彼のために行くと言っただけでも、立派じゃない」

と母は言う。

 ただ、それも流雫に会うための好都合な理由でしかなかった。

「……流雫は、殺される恐怖も、人を撃つ苦しみも押し殺して、自分とあたしを守るために戦ってる……。もし流雫が泣くのなら、あたしが抱き留めなきゃ……。先週だって、流雫がいたから、あたしは助かったんだから……」

澪は言った。

 ……SNSでは、ゲームフェスの事件が週初めに話題になっていた。そこに投稿されていた中には、「るな」と呼ばれる少年のことが出ていた。

 どさくさに紛れて撮られていた写真には、幸い顔こそ写っていないが、間違いなく流雫だった。恐らく、澪が叫んだ名前はハンドルネームと思われていたのだろうか。

 「最初は気でも狂ったかと思ったが、しかし常軌を逸したような一撃で流れが変わった。あの言動も、犯人を油断させるための作戦だったとすると、彼は間違いなく策士だ」

と流雫を讃える主旨の投稿を、澪は一度だけ見た。

 ……流雫がその投稿を見たのかは知らない。澪に話していないから、見ていないのだろう。

 しかし、見ていようが見ていまいが、どちらにせよよくは思わないことは判っていた。

 「ヒーローになんて、ならなくていい」

流雫は日頃からそう言っている。しかし、最早正体不明のヒーローになってしまっていた。図らずも彼は、アトリウムにいた数百人の命を、犯人の自爆と云う結末を迎えたテロから救ったのだから。

 ……その流雫が屋外の階段を下りた後、澪たちに背を向けて、1人何を思っていたのか。それは澪だけが判っていた。

「流雫は、あたしが思ってるより強くて、でも思ってるより弱くて。それでも、あたしが生き延びるために、何時も命懸けで……」

「だから流雫くんの話題になると、必死になるのね」

澪の言葉に被せるように、母は言う。

 家族以外の誰かに必死になることは、澪は初めてだった。一人娘の成長を感じている、と同時にやがて巣立っていくことへの一抹の寂しさも覗かせていた。


 流雫の存在が澪の母、美雪に最初に知られたのは、アフロディーテキャッスルで流雫と逢った日の夜だった。その時は、流雫の説明はただ一緒にいた少年と云うだけだったが、父の常願から聞いたらしい。しかし、2人の関係を知られたのは大型連休の話だった。

 台場へ行く前の日、澪はリビングでスマートフォン片手に明日の列車の時間をチェックしていた。

「明日、何処か行くの?」

と母が問うた。澪は

「うん。ちょっと、台場にね」

答えたが、

「デートでもするの?」

と更に問われ、澪は思わず固まる。数秒の間を置いて

「……うん」

と頷いた。隠し通す気は無かったが、まさかこのタイミングで言われるとは思っていなかった。

 そこから、母の質問攻めが始まった。名前は何か、何処に住んでいるのか、どんな人なのか。澪は隠すことなく答えた。

 知り合うきっかけも複雑だったが、初対面は更に複雑だった。初対面でテロに遭遇するなど、不運の一言で済むものでもない。しかし、流雫との距離は寧ろ近付く一方だった。雨降って何とやら、か。

 年頃の娘が、県境を跨いだ遠距離恋愛をしている。美雪はそれに反対しなかった。夫の常願と同じで、性行為と犯罪さえしなければよいと思っていた。


 「あたしが、流雫の力にならなきゃ……」

澪は言った。母は娘の頭を撫でながら言う。

「そう思うのは立派だけど、逆に思い詰めて、彼を不安にさせてはダメよ?澪は、そう云うところヘタなんだから」

「判ってる……」

澪は頷く。

 ……判っていても、どうしても思い詰める。流雫が抱える悲しみや苦しみが、澪に突き刺さる。だから、流雫の力になりたい。それは、互いの顔も声も知らなかった頃から変わらない。

 そして、流雫のかつての彼女、欅平美桜への弔いだと澪は思い続けていた。


 「ルナ……起きてる?」

澪からのメッセージが届いたのは、もうすぐ日付が変わると云う頃だった。流雫はすぐに打ち返す。

「起きてる。何か、眠れなくて。……どうしたの?」

「今日は、ありがと。でも、折角の休みを潰しちゃって……」

「いいよ。これで少しでも、全てが進むのなら……」

流雫は打ち返す。そして続ける。

「ミオにも会えたし」

「……バカ」

澪はその返事を見ながら、口元を微笑ませて呟く。しかし、そこで本題を忘れかけていたことに気付き、慌てて打った。

 「……ところで、ジャンボメッセでルナに絡んできた男……、覚えてる?」

そのメッセージで、流雫は思い出す。

 大町誠児と云う名前は知らないが、自分をとことんディスってきた男だ。しかし、元々眼中になかったし、何よりもその直後から色々有り過ぎた。思い出すのに少し時間が掛かる。

 「そう云えば、いたね」

流雫が答えると、澪は打ち返す。

「……あたしが通ってる学校の同級生なんだけど、その父親が、OFA襲撃事件の犠牲者の1人だって……」

「……犠牲者って……」

流雫は思わず声に出す。

 完全に赤の他人だし、本来は全くの無関係だった。しかし、関連する事件が事件だけに、無意識に反応していた。

「え……?」

とだけ打った流雫は、不安で心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 「結奈から聞いた話だけど……」

そう前置きした澪は、帰りの特急の車内で結奈と通話して、池袋で降りて2人の同級生……立山結奈と黒部彩花に会い、何を話していたか、全て話した。

 「……そう云う話、してたんだ……」

流雫はそれだけ送ると、頭を抱える。

 ……何故こう云うことになるのか。しかし、居合わせただけで殺されたのが本当なら、本人も浮かばれない。そして、怪我をしたあの同級生とやらも。

 流雫は、一瞬美桜も同じだと思いながら、今は美桜の話ではないことを自分に言い聞かせ、打った。

「……それで、未だ解決していないんだっけ?ニュースの続報も未だだし」

その一文に、澪もあれから進展が何も見えないことに焦りを感じ始めた。

 「……今夜いっぱい続いたりして」

澪がその一言を送ると同時に、ディスプレイの上部にポップアップ通知が出る。

 「東京銃撃、犯人死亡」

その文字列を見た流雫は

「……終わったっぽい」

と打ち、ふと時計を見る。日付は数分前に変わっていた。8時間以上、この事件が続いていたことになるのか。

「よかった……」

澪は返す。澪も同じ速報を見ていて、安堵の溜め息をついた。あとは父の常願が無事なら。

 「でも犯人死亡って……これもジャンボメッセの時と同じなのかな……」

流雫は打つ。

 どうやって死んだのかは判らないが、それが特殊武装隊による射殺ではなく自殺の類なら、そうまでして貫きたい思想、或いは隠したい真実が有るのか。どっちにせよ、後味が悪い。得てして、犯罪とは後味が悪いものだが。

 「これもジャンボメッセの時と同じなのかな……」

流雫からのメッセージに、澪はスマートフォンをベッドに置いて、その隣に仰向けになると、少しだけ目を閉じる。

 ……多分、今自分が思っていることは流雫のそれと同じだろう。自分たちは警察でもなければ探偵でもない。単なる高校生でしかない。何も気にせず、ただ普通に日常を過ごしていれば、それでいい。

 しかし、やはり気になる。何がどうなっているのか。

「もしかすると、同じなのかも……」

澪は打つ。

 日本の治安のため、として難民排斥と外国人制限を唱える国会議員に影響されたようにも見える、ジャンボメッセでの犯人の演説。そして難民支援団体を狙った銃撃と立て篭もり。この2つが偶然だとは思いにくい、しかし明確な根拠が有るワケでもない。

 どっちにせよ、朝……遅くても昼ぐらいには、色々とニュースで明らかになるだろう。これ以上深追いする必要は無い。

 ……深追いしたがるのは、悪いクセだと思っている。ただ、本能がそうさせていた。

「……夜遅くに、こんな話に付き合わせちゃって……」

澪は打つ。流雫は決まって

「悪く思うことはないよ」

と返してくる。それは彼の本音だったが、澪は無意識に唇を噛んだ。


 半年近く前は、もっとどうでもよい話だけで過ごしていられた。今でも話しているが、こんな難しい話はしていなかった。

 2人で遭遇した、3月のアフロディーテキャッスルの事件の後から、急激にこのテの話は増えた。それは、澪も当事者になってしまったからだ。

 しかし、あの場所で流雫と逢わなければよかった、誘わなければよかった、とは思っていない。ましてや、流雫を疫病神だと思うことは有り得ない。彼を知る上で、テロは避けて通れなかったから。

 そして忘れてはならない、2人を引き寄せたのはトーキョーアタックだと云う事実を。流雫の元恋人、美桜と云う少女の死だと云う現実を。

 ……平和になるのは何時なのだろう?澪はディスプレイを見ながら、深く溜め息をついた。


 澪からのメッセージに

「悪く思うことはないよ」

と打ち返した流雫は、深い溜め息をつく。

 ……日付が変わって昨日は、色々と頭を使うことが多かった。それほどの慌ただしさでも、澪がいたからどうにかなったようなものだ。彼女には頭が上がらない。

「昨日もミオがいたから、僕は色々話せたんだし」

流雫は続ける。

 ……どれだけ、澪に依存しているのか。

「僕には澪がいなきゃ……」

流雫は呟く。

 ……絶望の湖底に沈む流雫の手を掴み、引き上げたのは澪の細い腕だった。そして、何故か聖女のように接してきた。

 ……どんな時でも、彼女に救われてきた。それじゃダメだとは思っている。それでも、テロの恐怖から逃げ切った後、澪に抱かれると泣いたのは、彼女がいなければダメだと云う証左だった。

 ……何度も読んだ戯曲のように、ファウストが魑魅魍魎の饗宴ヴァルプルギスの夜に見た、グレートヒェンの幻影のように、澪の首に赤い筋が入っているのならば、流雫は形振り構わず彼女を救おうとするだろう。彼女の首に、テロと云う名の斧が振り翳されようとするなら、銃と云う悪魔の力を借りてでも。

 流雫は、ディープレッドのショルダーバッグから、銃を取り出して見つめる。


 ……流雫は、美桜を失ったあの日、自分がファウスト博士のようにメフィストフェレスを召喚できるなら、そうしてでも美桜を生き返らせたいと思った。そもそも、悪魔の力を以てしても死者を蘇らせることはできないのだが。

 それから少しして、銃刀法が改正され、流雫は銃を持つことを選んだ。この6発のオートマチック銃そのものがメフィストフェレスであり、銃を持つことが悪魔との契約だったのか、と今なら思える。

 自分の身を護るために、犯人相手と云えど人を撃つ。それは、学校の特別教育で担任教師が語ったように、撃つことは可能だが倫理的には認められない。

 そして銃を使った者が受けることができる、心療内科のカウンセリングで医者が語ったように、対テロと云えど人の命を奪えば、罪の意識と云う名の十字架を一生背負って生きることになる。言い換えれば、生きている限りは永遠に、だ。

 しかし、命懸けでテロから逃げ切った流雫は、澪が生きていることに救われて、何度も澪の名を呼び続け、狂ったように泣き、彼女の腕に包まれる。それこそが、魂の救済なのか。


 流雫は銃を通学用の鞄に入れる。相変わらず本来は禁止されているが、持っていないと落ち着かない。何より、あの2月に持っていたから助かったと云う現実が有る。

 ……この悪魔と、あとどれだけ付き合えばいいのか。流雫はそう思いながら、ベッドに仰向けになる。意識を夢に向かって手放すまで、時間は掛からなかった。

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