2-8 Blot Pathetic

 6月最初の日曜日、高速道路を走るシルバーメタリックのセダンの後部座席に座る澪は、目を閉じていた。生憎の雨だが、流雫と会う日に降ったのは、6回目の今回が初めてだった。

 澪は河月まで列車で行ったことが有るが、その時は快速で2時間ぐらい掛かった。今日は渋滞が無ければ1時間半ぐらいで着く、と地図アプリは表示していた。しかし、暇だった。1週間前のゲームフェスで気になったパズルRPGゲームが今日配信開始だったが、初プレイは夜家に帰り着いた後にじっくりと……と思っていた。だから今は、ダウンロードだけすることにした。

 この覆面の警察車両を運転するのは、澪の父常願の後輩、弥陀ヶ原。父が助手席に座っている。

 いくら刑事の娘が同行しているとは云え、所詮澪は部外者。この2人での行動は仕方ないことだった。ただ、弥陀ヶ原との面識は一応有る。完全に知らない人ではないのは、少し安心する。

 流雫とは、ホールセールストアで待ち合わせることになっていた。2月、流雫が人質になった店だ。朝から混み合う駐車場の一角に車が止まると、澪は白い傘を差しながら車から降りて、入口に向かった。


 この日、流雫はホールセールストアでの買い出しに出る日だった。ペンションを営む親戚には事情を話してあった。すると、高速道路のインターチェンジからはペンションよりホールセールストアの方が近く、店の入口で合流すればいい、と言われ、その通りに指定していた。

 ワンボックスに調達した物を積み終えた頃、傘を差して澪がやってきた。

「流雫!」

「1週間ぶり、だね」

流雫は微笑む。澪はその隣の親戚に

「初めまして。室堂澪と言います」

と軽く挨拶をする。その後ろから黒い傘を差して来た常願と弥陀ヶ原は、同じく親戚に挨拶をすると改めて直接事情を話す。

 その遣り取りの後、

「こ、こんにちは……」

と2人の刑事に軽く頭を下げた流雫は、シルバーのやや高級そうなセダンに案内され、澪の隣に乗せられる。

 ……挨拶の言い方で、流雫は緊張しているのだと澪には判る。警察相手とは云え、特に緊張することでもないのだろうが、如何せん彼は人見知りが澪以外に対して酷い。

 親戚夫妻のワンボックスに続いて、2人を乗せた車が走り出す。

「……あの夫妻に事情を話した。君が住んでいるペンションを使っていいらしい」

 「それって、流雫の家に……?」

澪は、予想外のことに驚く。少しだけ嬉しそうな声を出すが、常願は

「あくまで俺の仕事で来てるからな」

と釘を刺す。それぐらい、澪だって判っていた。軽く不貞腐れた澪は

「……流雫?」

と雨粒が後ろへ流れていく窓の外を見つめる少年の名を呼ぶ。

「……あ、ちょっとね……」

と言って澪に顔を向ける流雫は、何処か浮かない表情をしていた。

 ……1週間前に臨海署で話した、あの国会議員の演説と自爆した犯人の犯行声明が似ていることが、どうも引っ掛かる。それはアトリウムで最初に聞いた時点で、流雫も澪も気付いていた。

 少なからず、あの演説の影響を受けているとは思っている。自爆に走るまで先鋭化されているとは、到底思えなかったが。そして、もしただ演説の影響を受けただけ、ではないとすれば……。

 それは単なる妄想であってほしい、流雫はそう願っていた。しかし、アトリウムで抱いた疑問がそう簡単に拭えるとは、彼自身思っていない。思えるハズもなかった。


 ユノディエールと看板が立てられたペンションに着くと、親戚の鐘釣夫妻は共用のゲストルームに4人を通す。そしてサイフォンで淹れたコーヒーを出した。刑事2人が並び、向かい側に流雫と澪が座る。

 鐘釣夫妻がゲストルームを後にする。

「……さて、早速だが」

そう言った常願は流雫に目を向け、早速本題に入った。

 「……今まで見てきたテロについて、教えてほしい」

「今まで……」

流雫は呟く。それは、つまり……。

「トーキョーアタックは、空港のことしか判らない……」

「それで十分だ。……河月でのテロに遭遇した時の調書も取り寄せて、一通り目を通した。しかし、もし話していないことが有るなら全て知りたい」

 「流雫から何を聞き出したいの?」

澪は問うた。その声に、少しの苛立ちを滲ませている。

「……先週、署の休憩室で話しただろう。ジャンボメッセの犯人の演説が誰かに似ている、と。それが引っ掛かっていてな」

「……厄介なことに、トーキョーアタックに関してもそうだが、犯行声明が何一つ出ていない。だから、何度もテロに遭っている中で、何か思うことが無いか知りたい。正直、少しでも手掛かりが欲しい」 と続けた父に

「でも……」

と澪は何か言い掛けたが、止めた。何を言いたかったのか、流雫だけが判る。

 「……澪」

流雫は彼女の名を呼ぶ。

「澪が、僕のためと思ってるのは嬉しいよ。でも、今は思い出さないといけないんだろう。……もし、それで銃を握らなくて済む、泣かなくて済む日々が早くやってくるのなら」

「流雫……」

澪は、そこに流雫の一種の覚悟を見た。だから、それ以上何も言わなかった。

「……泣きそうなら、慰めて」

流雫は悲壮感を湛えた微笑みを浮かべる。澪は呟くように言った。

「……バカ」


 流雫は、あの日空港で何を見たのか、もう一度思い出す。ただ、地階にいた集団のバックパックから、黒い何かが見えているのが遠目に判った。それが爆発物や機銃だとは思ってもいなかったが、それからのことは空港の警察署で話した。

 それ以外に気になるようなこと……1つだけ残されている。

「……無関係だとは思っているけど、飛行機が遅れたことぐらい……?」

流雫は言うと、澪は問うた。

「飛行機が遅れたから、テロに遭遇したの……?」

 「プライベートジェットが緊急着陸するからって、着陸をやり直したんだ。それで30分ぐらい遅れたかな?……それが無ければ、空港でテロに遭遇することは無かったんだ。……飛行機、元々1時間遅れてたけど」

と流雫は答える。そう、あの時定刻より90分遅れて着陸した。90分有れば……いや、今はそう思う時じゃない……。流雫は軽く溜め息をついた。

 「それ、何か判ることは?」

弥陀ヶ原は問うた。

「……僕が機内から見た時、駐機場の端に止まってただけで、誰もいなかったと思う。僕が見た時点で、着陸から30分ぐらい経ってたし……。それから1時間近く、イミグレーションだの何だので掛かったから、そのジェットが着陸して、爆発まで90分近く経ってたと思う」

 「……何か写真とかは?」

「まさか……」

弥陀ヶ原の問いに流雫は答え、続ける。

「ただ、あの飛行機さえ無ければもっと早く着いたのに、としか思ってなかったし……」

「疑うようだが……君が乗っていた飛行機はどれだい?」

常願が問う。

「シエルフランスの……確か半券を持ってる……」

そう言って、流雫は一度席を立つと自分に宛がわれている部屋に入る。机の棚の端に置かれた1冊のバインダーとパスポートケースを手にすると、ゲストルームに戻った。

 バインダーに綴じた紙には、航空券の半券がスクラップされている。最近は電子チケットだが、カウンターでわざわざ発券し、日本に戻ってきて糊付けして保管している。それは流雫にとって、日本とフランス、2つの故郷を往来している証だった。

「これ、かな……」

そう言って流雫は、バインダーを開く。

 東京からパリへ向かった7月と、パリからの8月の航空券。フランスのフラッグキャリア、シエルフランスのロゴと便名、区間と時刻が印字されている。そして念のために見せたパスポートで、フランスへの出国と日本への入国が証明された。

 「……あのプライベートジェットに乗っていた連中が、ターミナルでテロを起こす……なんてことは流石に無いか……。映画じゃないんだ……」

流雫は呟く。

 機内で観た映画のようなフィクションは、いくら何でも有り得ない。ただ、今の日本ではそう一蹴するのも難しい。現に、今まで有り得ないと思われていたことが起きている。

 「映画の観過ぎ……とは言えないのかもね」

恋人の呟きを拾った澪は言う。その遣り取りで気になることが有ったのか、常願は手帳にペンを走らせた。


 トーキョーアタック以後の事件は、流雫は単なる目撃者ではなく、或る意味当事者だった。そして、今更新たに思い出すようなことは何も無かった。

 しかし、今でも燻り続ける謎が有る。それは誰もが同じだったが、テロの動機だ。これだけ世間を震撼させているのだから、犯行声明を出さない方が寧ろ不思議に思える。

 もし犯行声明が出ていれば、大々的に報道され、流雫だってネットのニュースやSNSで目にするだろう。

 しかし、それが全く無い。それが逆に不気味過ぎる。


 トーキョーアタックは、日本で28年ぶりに起きた大規模無差別テロだったが、東京中央国際空港と渋谷が標的になったのは、単に人が多かっただけだ、と流雫には見える。それだけが理由では美桜があまりにも不憫過ぎるが、渋谷が他に狙われる理由が見当たらない。

 空港も似たような感じだが、なまじ多国籍の人々が入り交じる。グローバルゲートウェイを謳う東アジア有数のハブ空港だけに、特に海外に向けて戦慄させるには適していた。だから国際線ターミナルが狙われた。

 ただ、それだけが理由なのか。


 教会爆破テロは、狙われたのが教会だけに宗教絡みなのは想像に難くない。

 その時に起きた、流雫が初めて銃を撃った相手の男が学校へ侵入したのは、彼が爆破の一部始終を見ていたのがバレたから、その口封じの意味だったのだろうか。そうでなければ、あの教会と無関係な学校にわざわざ侵入する理由が無い。


 ホールセールストアの襲撃は、ハウリングが酷く聞くに堪えなかったが、断片的な発言を集めれば帰結する先は政治思想だった。難民政策……とか言っていた気がするが、流雫は膠着状態で精神の消耗戦に晒され、ただ今をどう乗り切るか、だけしか頭に無かった。

 ただ、何故ホールセールストアだったのか。確かに、銃弾を売っていたが、それが狙いだったのか……。他に何か理由が有るとしても、犯人集団は特殊部隊……と正気を失った男……に全員射殺されているため、今となっては判らない。

 ただ、それよりもその男に撃ち殺されそうになったことが、流雫の頭に残っている。一瞬でも動きが遅れていれば、今この場にいない。


 流雫と澪が「最悪の出逢い」を果たしたアフロディーテキャッスルの銃撃テロは、澪が犯人と対峙して言い放った通り、反ダイバーシティや人種、或いは国籍などに起因する動機の可能性が高い。

 犯人は何も答えなかったが、直前に施設の屋外広場で開かれていたイベントから、そう推測はできる。あくまで、推測の域だが。これも、犯人は全員射殺されていて、今となっては何が動機なのか判らない。

 流雫は澪の目の前で、エレベーター前で鉢合わせた犯人の1人を撃った。流雫は、澪に抱き寄せられて泣いていた。澪も、流雫を抱いたのは無意識だった。あの瞬間から、2人が急接近したことが記憶としては大きい。


 澪が遭遇した地下鉄爆弾テロは、澪は国会議事堂で起きた国会議員暗殺事件の予兆、警察の撹乱目的だったと思っている。

 もし目的が、多くの人を殺すためだけなら、もっと遅い時間帯……ラッシュアワーにする方が効率がよく、流雫が犯人ならそうしただろう。爆弾が仕組まれていたバッグをどう放置するかがネックにはなるが、それでも2時間近く遅い方が効果的だったように思える。あの時間帯であるべき理由は、撹乱しか見当たらない。

 流雫はフランスに着いた頃だったが、澪は思わず通話ボタンを押して、流雫の声に落ち着きを取り戻した。しかし、流雫は今澪の隣にいない、日本にいないことを嘆いた。

 その国会議事堂での事件も、結局犯行声明は出ていない、未だに犯人が逮捕されたと云うニュースは聞いていない。


 大型連休最終日、池袋。澪とその同級生が遭遇したが、同じ日に起きた2件の銃撃と発砲騒ぎは、何が何だか判らない。

 午前中に街宣車が銃撃されたが、何処から狙われたのか判らない。映画でなら有りがちだが、駅ビルの屋上あたりだったりするのだろうか。

 ただ、狙われたのは右翼の街宣車だった。それだけを見ると、左翼集団のスナイパーの仕業にも見える。しかし、牽制の意味が有るとしても、わざわざ狙撃する必要が有ったのか。

 それよりも不可解なのは、あの夕方の発砲騒ぎだった。あれは一体何だったのか。一つだけ言えるのは、この日は澪にとって呪われた1日だったことだ。


 先週のジャンボメッセ爆発テロは、暴走する愛国心と、常願……澪の父が言ったエスノセントリズムが動機だったと言える。

 それは、流雫と自爆した犯人の会話から読めた。第三次世界大戦を舞台としたゲームの世界であっても、日本が貶められることを認めない、と云う理念だった。これが唯一、犯人の動機が判りそうなものだった。ただ、犯行声明は相変わらず無い。

 犯人は流雫の寝返った演技に……数百人もの人質も一斉に……嵌まり、彼の起死回生の反撃で一気に劣勢に立たされ、最後は自爆と云う結末を迎えた。

 警備員に扮したグルたちは、脱出しようとした人質の下敷きになり、今も入院中らしい。人質は全員脱出して、怪我人こそ出したものの無事だったのは幸いだった。

 自爆してまで貫きたいほどの思想だったのか、それは所詮外部の人間には判らない。ただ、犯人からしてみれば、己の口を封じるためにも厭わなかったのだろうか。

 もし降霊術師としての力が有るなら、一度呼び寄せて問い詰めてみたいが、如何せん誰も持ち合わせていない。後味が悪いままだ。

 

 2人が今まで遭遇したテロの動機は、想像の域を超えないものばかりだ。しかし、全ては何処かで繋がる予感がした。予感と云うだけだが、間違っていない気もする。事実は小説より奇なり、と云う言事が日本には有る、ならば有り得ない話でもない。

 「ふぅ……」

流雫は大きな溜め息をつく。澪は氷が溶けたコーヒーを飲み、隣に座るシルバーヘアの彼を見つめた。その無に近い表情から、精神的に疲れているのが判る。

「流雫……疲れた?」

「脳がね……普段全然使わないから」

流雫はそう言って、微笑んでみせる。アンバーとライトブルーの瞳は、曇ったままだった。

「……少し、休憩したい」

澪は常願に言った。気付けば2時間が経っている。ランチタイムを完全に逃していた。

 ペンションの夫妻は4人のために、ホットサンドを焼いて賄う。普段デイユースの客にオプションメニューとして提供しているもので、ハムとチーズを挟んだだけだったが、逆に余計なものが入ってなくて美味い。

 「澪」

流雫は皿を空にした少女を呼び、ゲストルームを出た。 


 流雫は澪を自分の部屋に誘った。15分も無いが、2人きりでないと落ち着かない。

「……ここが流雫の……」

澪は見回す。ベッドに机、本棚とクローゼットだけ。部屋の隅に置かれたスーツケースは、日本とフランスの国旗が貼られていた。

「……あの2人がいると、落ち着かなくて。此処なら、2人きりでいられる」

流雫は言った。

「それはそうね」

澪は微笑み、しかしばつが悪そうに言う。

 「……折角の休日なのに、付き合わせて……」

「受け入れたのは僕だから。……先刻も少ししんどかったけど、少しでも……美桜が生きていた頃のような平和が、早く戻ってくるのなら。テロや銃のことなんて全て忘れて、ただ澪と笑っていられるなら」

流雫は言った。

 どうやっても取り除けない悲壮感を滲ませつつも、取り繕って微笑む流雫には、何処か寂しさが滲んでいる。……全方向から揺さぶられる感情と独り戦っていた。

 「流雫……」

澪は彼の名を呟くだけで、それに続く言葉を見つけられない。

「……そろそろ戻らないと」

流雫は言った。如何わしいことでもしているのでは、と思われるのも癪に障る。尤も、あの日東京の景色をバックにキスを交わしたが。


 雨は止む気配を見せるどころか、寧ろ激しくなる。それは音だけで判る。

「……君が聞いたと云う演説、覚えている範囲で話してほしい」

弥陀ヶ原は流雫に顔を向けて言う。流雫は数秒の沈黙の後に、口を開いた。

「……日本の治安悪化を招いたのは外国人、特に難民。難民の入国制限と強制送還、外国人の制限によって日本に治安を取り戻す。日本人が日本人としての誇りを持って、安心安全に暮らせる国を目指す。だったかな……」

流雫の言葉を聞いていた常願は

「澪、お前が聞いたのはどうなんだ?」

と自分の娘に問う。

 「インバウンドを強化して外国人マネーを頼った結果、外国人難民による不法入国が相次ぐようになった。難民による治安の悪化が無ければ、日本は世界一平和な国家だった。トーキョーアタックも、難民とその支援組織が引き起こした」

と答えた澪は

「だから、日本人の日本人による日本人のための日本、それが日本に明るい未来をもたらす唯一の方法……」

と続けた。

 今思い出しても悶々とする感情を抑えるには、報道キャスターのように淡々と語るしか無かった。その途中から、常願の目の色が変わり、気になる一言をリピートする。

「……トーキョーアタックは、難民と支援組織が引き起こした……?」

 流雫にとっても初耳だった。先刻は半ば上の空で聞き流していたが、流雫は澪に顔を向けた。


 父と流雫は澪を見つめる。弥陀ヶ原も、ボールペンを手帳に忙しなく走らせつつ、先輩刑事の一人娘に目を向ける。……今、全員の視線が澪に集中する。

 「……街頭演説って、陰謀論みたいなことを言ってる連中も多いじゃない?だから真剣に聞くまでもないと思ってたから……」

「伊万里の演説はテレビで見た事が有るが……、そこらの結社なんかが勝手にやっているならまだしも、国会議員の立場でよくやるもんだ」

娘の言葉に被せるように、父は言う。それに弥陀ヶ原が続いた。

「ただ、先の補欠選挙で当選したと云うことは、規模はどうであれそれなりの支持者がいると云うこと。……室堂さん、厄介なことになりそうですよ、事と次第によっては」

「判ってるさ」

と答える父。そして釘を刺すが、あくまでその相手は自分自身に対してか。

「……あくまで参考に、だ」

そう言って、父は向かい側の2人を見て告げる。

「……話はここまでにしよう」

 ……ようやく難しい話は終わった。澪は溜め息をついてソファに背中を預ける。流雫は背を伸ばして安堵の表情を浮かべた。

 約束通りなら、これから流雫と短時間ながらデートのハズだった。しかし、運悪く雨、しかも大雨。大型連休に行った河月湖までは近いが、この天気では……。

 「少し、2人きりになりたい」

澪は言った。先刻は流雫から誘ったが、今度は澪からだ。しかし他に行く場所は無い。

「また、僕の部屋にする?」

流雫は問う。それは必然だった。ただ、流雫と2人きりでいられるのだから、それでも好都合だった。

「俺たちは、ちょっと河月署に行ってくる」

そう云って、父と弥陀ヶ原はペンションの夫妻に礼を言い、澪を後で引き取ると言って出て行った。


 経緯や事情がどうであれ、澪は流雫との時間を手に入れた。何を話すワケでもないが、ただ2人でいられるだけでよかった。

「どうにか終わったわね」

薄い色のデニムジャケットを羽織った澪は、流雫から勧められるがままに椅子に座る。フランス国旗を遇った白いTシャツを揺らす流雫は、ベッドに座る。

 「脳が疲れた……。まさかこれ程に深入りする話だったとは……」

そう言って天井を仰ぎながら、流雫はシルバーヘアを掻き乱す。幾分殺風景な部屋に響くのは、2人の声と外の雨音だけだ。

 「……ただ」

「何?」

流雫の声に、澪は彼を見下ろして問う。

「生き死にのギリギリで、どうにか生き延びてきたんだな……」

流雫は澪を見上げながら答えた。今更過ぎるが、文字通り一瞬の迷いが命取りになる事態ばかりだった。

 ここまで生き延びることができた、それは、フランス人の血が混ざること以外、何処にでもいるただの高校生でしかない彼にとって、それこそ奇跡としか言いようが無かった。

「……運がよかっただけ、と思ってる」

流雫のそれは口癖だったが、謙遜ではなく現実だった。

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