2-6 Crossing Lips In Silenth

 流雫は空に向かって手を伸ばす、あの渋谷の夜のように。あの時、彼が何を掴みたかったのか、澪は今でも判らない。そして、今その先に見ているものが何なのかも。

 ただ、掴めない無力感にだけは、苛まれてほしくなかった。

 「……今日、楽しかった?何か、水を差すようなことばっかりで……」

澪は問うた。自然な形で、話題を変えたかった。

 結奈や彩花と一緒のダブルデートとは云え、あまり流雫と話していなかったこと、邪魔者の同級生に絡まれたこと、そしてあのテロ事件……。

 今までデートした1日で、最も色々なことが起き過ぎた。もし、この世界に神がいるのなら澪は問い質したい。

「あたしは、流雫は、何か呪われるようなことでもしたの?」

と。

 よりによって、流雫といる時に限って何故起きるのか。それで仮に、ファンタジーアニメや映画に有りそうな

「2人の愛を確かめるための試練なのだ」

などと答えられれば、澪は恐らく、神相手と云えど躊躇も容赦もせず平手打ちするだろう。それほどに現実が残酷だった。


 流雫は腕を下ろしながら、澪の顔に目を向ける。

「ツイてないことは多かった。それでも、澪が無事だったし、あの2人も無事だったし。朝楽しめたことまで台無しになるような、最悪の結末にはならなかったから、それだけで満足してる」

「……何度でも言いたい。澪が助かった、死ななくて済んだ。それだけで、僕はツイてると思ってる」

そう続けた少年の、アンバーとライトブルーのオッドアイは、何時もよりソフトな色を湛えていた。流雫は微笑みながら言った。

「だから、楽しかった。……サンキュ、澪」

 色々なことが有ったが、楽しかったことを断片的に切り出して集めれば、楽しい1日だったと思える。

 折角のデートを、あの男の揶揄いやテロで邪魔されたことは事実だ。しかし、そればかりで埋め尽くされては、何のために今この場所にいて、そして澪の前に立っているのか、その意味が無くなる。

 色々思うことは多いが、切り離したかった。


 「だから、楽しかった」

その一言に、澪は救われていた。それだけで、色々有り過ぎた1日が報われた。澪は流雫に微笑み返す。

 東京の空は、やがてブルーにオレンジが混ざり始め、鮮やかなグラデーションを生み出していく。澪はこの時間帯の空が好きで、何度見ても綺麗だと思っていた。そして、今は何より流雫が隣にいる。

「……流雫があたしといる、それだけで幸せだから……。だから、あんなことが起きても、いっしょにいられると思ってる」

澪は言った。

 ……流雫となら、美桜と渋谷で「逢った」あの日のような、冷たい雨に煙る灰色の空でさえも、綺麗だと思えるだろうか。……その答えなんて、判りきっていた。

 「流雫……」

澪は囁くように彼の名を呼ぶ。自分の名を呼び返す声が聞こえた。

「澪?」

……止められない想いに、背中をそっと突かれた澪は、目を閉じて流雫と唇を重ねた。


 アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳は、天使にも思える澪の顔を映す。そして、目を閉じると同時に2人の乾いた唇が重なる。触れ合う手の指を絡めた。

「……んっ……」

 全ての音が遮断され、世界が止まったような錯覚すら覚える。澪の唇が、微かに動く。

「……っ……ん……」

13秒のファーストキス。澪の小さな唇は思ったより柔らかくて、ほのかな熱を帯びていた。


 「ん……っ」

息が止まる。何も見えない、何も聞こえない。ただ彼が澪に見せる優しさを映し出すような、唇に伝わる淡い熱と切なさが、少女を支配する。

 ……流雫に捧げると決めていた、全ての悪夢すら霧散するほどの、13秒だけのファーストキス。

 流雫が生きていること。あたしが誰よりも、彼の近くにいること。それが、言葉にしなくても鮮明に感じられる。

 「はぁ……っ……」

と少しだけ息を切らした澪は目を開ける。切なく痺れるような感覚が残る唇を開き、吐息混じりの甘い声でもう一度

「流雫……」

と名前を囁いた。滲む瞳に宿る世界一好きな少年の名前を。


 台場の夜景と別れると、東京テレポート駅までは、臨海プロムナード公園を歩いた。それでも、早くなった心臓の鼓動が落ち着く事は無かった。

 長いエスカレーターを下りると、列車の接近チャイムが鳴った。地下トンネルに走行音と警笛を反響させて、列車がプラットホームに入ってくる。2人は最後尾の車両に乗った。

 流雫が乗換のために降りる新宿までは25分。澪はそのまま乗っていれば家の最寄り駅まで行けるから、2人はこの列車の中で別れることになる。

 ドア付近に立つ2人は、自然と指を絡めていた。長い地下トンネルの後に車窓に広がる都会の夜景を見ながら、何だかんだで楽しいと思えた1日が終わることに寂しさを覚えていた。

 やがて、列車は新宿に着く。別れの時間だ。

「……行かなきゃな……。またね、澪」

「うん……流雫、またね……!」

流雫と澪は、優しい声色を交わし、微笑んで別れる。ドアが閉まり、モーター音を唸らせたステンレスシルバーの列車は流雫をホームに残し、澪を連れ去る。

 ……微笑んでみたものの、やはり寂しくなる。澪は、逆効果になると判ってはいたが、流雫と絡めていた指で、一線を越えた唇を撫でた。

 ……やっぱり、寂しい。澪の瞳が滲んだ。

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