1-12 Smells Like Riot

 東京からパリまでのフライトは12時間半。何事も無ければ、フランスの首都に着くのは7時頃か。

 パリ郊外のロワシー・アン・フランスと云う小さな農村に建設され、今年で半世紀を迎えたフランスの玄関となる国際空港は、1944年8月にドイツ軍からパリを解放し、後の大統領となった将軍に因み、シャルル・ド・ゴール空港と名付けられた。

 流雫が目を覚ましたのは、離陸から7時間後のことだった。それから2時間、機内Wi-Fiでマルセイユを舞台とした映画を観ていた。

 アナログのスマートウォッチのデュアルタイム機能は、既にフランスをメインに、日本をデュアルタイムにセットしてある。そのフランス時間は4時前。あと3時間ほどで着く。

 シャルル・ド・ゴール空港からは、一旦ル・ビュス・ディレクト……文字通り直行バス……でパリ市街地のモンパルナス駅へ行き、フランス版新幹線と云うべき高速列車TGVでレンヌへ。途中、自動車の24時間耐久レースで知られるル・マンを通る。

 そしてレンヌの駅には、両親が赤いフランス車ステランタで迎えに来る手筈になっている。ただそれは夕方のこと。パリからレンヌまでは2時間も有れば着くから、逆算すれば昼過ぎぐらいまでパリで過ごす時間は有る。


 オリンピックの混雑を避ける目的で、この時期を選んだ……とは云え、少しだけ流雫の気は重かった。愛用のディープレッドのショルダーバッグには、日本国内とは異なり銃を入れていない。少し不安に思う時も有るが、去年の8月まではそれが普通だったのだ。

 ビデオ通話で両親に時々会話しているが、あの日から直接会うのはこれが初めてだ。今日本で、何が起きているのか、当然ながら改めて話すことになるだろう。それだけが憂鬱の種だった。

 あと1時間ほどで機内食が配られる。それまでもう少し寝ていよう、と思った流雫は、テーブルに置いたアイマスクを手にした。


 開花を控えていた桜の花片を散らしそうな雨は、止む気配は無い。

 時計の針は、正午を示した。流雫が東京を発って9時間半。フライトは12時間以上掛かると聞いている。つまり、未だ飛行機の中だ。

 それでも、今の時代はオンラインで何時でも、何処からでも、会いたい人に、ディスプレイ越しながら会うことはできる。実際にまた会えるのは2週間以上先の話だが、澪にとっては特別寂しくもない。

 澪は、持っていたハンカチで瞼の上を押さえ、小さな溜め息をつくと、軽く一礼して慰霊碑に背を向けた。この場に佇んでいたい、しかしそうすれば、何時までも動けなくなりそうだった。

 ……ランチタイムで周囲のカフェやファミレス、ファストフードの店が何処も埋まっていると判ると、このまま駅から地下鉄に乗ろうとした。行き先は、今決めたばかりだ。


 ICカードをパスケースごと自動改札機にかざした澪は、地下鉄のホームフロアに下りる。雑貨屋にも寄ってみたいとは思ったが、その前に1箇所だけ寄ろうと決めた場所が有る。

 渋谷から地下鉄で20分、百貨店に直結した駅で降りると地上に出た。

 日本橋室町。再開発で真新しいビルが建ち並ぶようになったが、その真ん中に福徳神社が有る。1200年以上の歴史を持ち、神社としてはこじんまりしているが、この界隈のシンボルだ。高層ビルに囲まれつつ、この界隈を見守るような独特の佇まいが澪は好きで、毎年元日に初詣で訪れている。

 雨が降り続ける中、澪は参拝を済ませようとする。頭に浮かんだのは、自身と家族、そして流雫が無事でいられることだった。

 立て札に書かれた通りの作法で参拝を済ませた澪は、普段は手にしない御守りを手にしようとした。

 流雫用には旅守。年に一度とは云え、日本とフランス……片道約1万キロ、12時間の旅をする。その安全祈願としてだ。そして澪の分は……恋守。恋愛成就を祈願するものだが、無意識に選んでいた。

 澪はふと、2日前の夜を思い出す。流雫に言った言葉に、一欠片のリグレットを抱えていたこと。別れた途端に、寂しさが押し寄せてきたこと。

 しかし、それと美桜がいないから自分が流雫の隣に立っていられる……と云う現実が真正面から衝突していた。……どう向き合うべきなのか、澪には答えを見つけられない。

 御守りが入った2つの紙袋を、小さなショルダーバッグの底に入れた澪は、まだ13時前だと知る。周囲のオフィスビルのランチタイムが終わろうとしていた。午後からの長い業務に備えて、客が挙って出て行った店、そのうち気になっていた1軒の小さなカフェに入った。

 昨年の秋にオープンした、フルーツサンドが人気の店で、澪はストロベリーとオレンジのサンドイッチにバナナジュースを選び、最も端の席に座る。……まだ肌寒く、ホットコーヒーにでもすればよかったと、セミロングヘアを撫でながら思ったが、今はとにかく甘いのを選びたかった。飲みたいなら、後でオーダーすればよいだけだ。

 しっとりした生地と濃厚な生クリーム、酸味が利いたフルーツの調和が絶妙だと、昨年見たSNSに書かれていた。まさにその通りで、それだけで十分満たされる。目の前でミキサーに掛けられ、直接グラスに注がれるバナナジュースも濃厚な味わい。安堵とは違う、満足を噛み締める溜め息が小さな口から自然に吐き出された。

 ……少し長居したが、それでも14時前だ。雨が止んでいれば、何処か行きたかった。しかし、天気予報のアプリを見るとこの雨は夜まで続くらしい。

 思ったより早いが、雑貨屋にも寄らずこのまま帰ろう。3日後、結奈や彩花と会う時に寄り道すればいいか。澪はそう思い、立ち上がった。


 降り立った駅に戻るには、一度百貨店に入って食品フロアの地階へ下り、その端に直結する改札を通った方が濡れにくくて済む。それから地下鉄で一度渋谷に戻り、埼玉方面へ向かうNR線に乗換だ。

 東京の地下鉄は編み目のように各地を結んでいて、何処にだって行きやすい。それ故か、地下鉄は平日の昼下がりだが窓に背を向けるロングシートの空席は少ない。ビジネスパーソンも多いが、それ以上外国人観光客が多く、インバウンド需要のバブルが崩壊する兆しは、今のところ見られない。

 待っていた地下鉄が1分だけ遅れて到着してドアが開いたが、それも例外でなかった。澪は最後尾に近い車両の端のドア前に立った。文字通り目の前でドアが閉まると、澪は時計を見る。流雫がフランスに着くまで、あと1時間ほど。


 今も、国会はテロ対策法案を巡って紛糾している。特に、改正銃刀法の是非を巡っては、銃規制の世界的な潮流に逆行する改悪だとして即刻撤回を求める反対派と、あくまでも武装勢力やテロ集団に対抗しうるだけの武力配備が完了するまでの臨時的な措置だと説明する賛成派が、相変わらず与野党の枠を超えた超党派となって二分している。

 その争いの舞台となる国会議事堂だけでなく、中央省庁が犇めく日本の中枢は、永田町に位置する。その界隈の地下に、渋谷まで伸びる地下トンネルが掘られている。東京の地下鉄は便利だが、街の特性上地下30メートルを走ることは珍しくなく、時々地上に出るまでが長く感じる。

 澪はドアの近くに立ったまま、コンクリートの壁に等間隔で設置された蛍光灯の明かりが流れるのを見つめていた。


 ……渋谷の慰霊碑で思っていたことが、未だ少女の頭から離れない。また同じ場所に戻ることになるが、乗り換えるだけであの場を直接目にすることは無い。

 しかし、あの時に覚えた複雑な感情を思い出させるには十分だった。そして、あれから2時間ほど経ったが、澪はそれに決着を付けられないままだった。

 ……美桜がいないことをいいことに、彼女から流雫を奪う。そう云う罪悪感は違うと判っていても、つい意識する。流雫から初めて聞いた美桜の存在が、彼女の死と云う現実が、澪を縛っていた。

 だから、あの夜も一線を越えるあと一歩が出なかった。流雫の力になりたい、その曖昧な言葉が精一杯だった。抱えたリグレットは一欠片ほどだとしても、その欠片があまりにも大き過ぎる。

 窓に反射する自分の顔は、あまりにも惨めに見えた。


 短い駅間でストップアンドゴーを繰り返す地下鉄は、ドアを閉めると次の駅……永田町へとモーター音を響かせる。コンクリートのトンネルは音の逃げ場が無く、走行音が反響して車内に鳴り響く。

 突然、車両が大きく前後に揺れる。非常ブレーキと呼ばれる急ブレーキが原因だった。

 澪の体も揺れ、思わず

「きゃっ!」

と声を上げた。手摺りを掴んでいた手に力が入る。出発したばかりで速度が低かったのもあってか、甲高いブレーキ音を立てながらも列車はすぐに停止した。

「何……?」

澪は呟いた。

 地下鉄が非常ブレーキで止まるのは、線路内に人がいたか、線路や車両に何か異常が見られた時ぐらいか。

 乗っていた列車が止まったことは、これまでも何度か有ったが、幸い人身事故などには遭遇していない。今回も、また数分も経たないうち動き出すだろう……、と思っていた。

 乗り合わせたビジネスパーソンの一部は、文字通り分単位で動いているだろう。彼等には気の毒だが、澪自身はこの後はただ家に帰るだけで、少し遅れたぐらい特に問題は無い。

 しかし、隣の車両から騒ぎ声が聞こえてくる。車両同士を隔てる連結部分の扉越しに、愚痴と罵声が聞こえた。乗客同士の喧嘩かと思い、その扉を引いて開けると、端の両開きのドアが1箇所開けられていたのが目に止まる。

 ドアの近くには、非常時に手でドアを開けられるようにできるコックが有る。普段は全体を覆っているカバーを開けて回すと、重いがドアが開けられるようになり、同時に非常ブレーキが掛かるようになっている。

 帽子を深く被った2人組が、そのドアを開けて車外に飛び降りたらしい。目撃者らしき人がヤジ馬となった人にそう話していたのが澪には聞こえた。そしてその車両では、そのことに対する愚痴と罵声が飛んでいた。

 すぐに車掌が持ち場から走ってくる。そしてドアに近寄らないよう周囲に注意しながら、携帯電話で関係各所に通報しながら重いドアを手で閉め、そのまま元の持ち場……最後尾車両の乗務員室へと戻る。

 やがて、ドアから離れるようにとの車内放送の後に一度全てのドアが開き、直後に閉められた。誰もが、これでまた動き出すと思い、何人かは犯人への罵声を呟きながら、発車を待っていた。

 しかし澪は、騒然となった車内で唯一、異変を感じていた。

 車両の端は車椅子用のスペースになっていて、扉の反対側から窓に背を向けるロングシートが並んでいる。その端に、フォルダブルボストンバッグが2つ、置き去りにされていた。旅行中に購入した土産物をまとめるのに最適、との謳い文句でよく雑貨屋のトラベルコーナーに並べられている、折り畳み式のバッグだ。その膨らみ具合から、中に入っているものは多くなさそうだった。

 不審物には触らず、駅員や乗務員に通報する。それは地下鉄サリン事件からの教訓で、どの駅でも頻繁にその旨の放送が流れている。それに従い、澪は非常通報ボタンを探そうと周囲を見回す。しかし、車両の反対にしか無い。

 それなら、元いた車両の方が近い……そう思った澪は隣の車両に戻り、車椅子スペースの上の壁に取り付けられたボタンを押す。

「どうしました?」

スピーカーから聞こえてくる車掌の声に、あの混乱で他の誰もが見落としていた不審物の件を報告しようとした。

「さっきの車りょ……!」

 その声は、隣の車両から聞こえた爆発音に掻き消された。揺れと同時に窓ガラスが割れる音、車内の床や壁に金属の何かが刺さる音が幾重にも重なり、それに断末魔の悲鳴に似た声が覆い被さる。車両同士を隔てる扉の窓ガラスも割れ、澪の隣に散らばった。

 「きゃあっ!!」

澪は咄嗟に目を閉じ、思わず声を上げる。

「何だ、今の音は!」

車掌もその音を聞いたらしく、マイクを切る。その直前から、別の乗客が非常用のコックを再び開け、車外へ降り始めた。運転士が

「車内にいて!前の車両へ移って下さい!」

と前の車両から大声で指示しながら走ってくる。しかし、澪は突然のことに動けない。その隣で運転士は、変形したのか開かなくなったドアの前で固まり、

「何だこれは!!」

と叫んだ。そしてすぐ携帯電話で、恐らく運行センター相手だろうか、駅を指定して警察と救急、そして消防の手配を要請した。同時に車掌は爆心地の周囲に向かって消火器を噴射しながら

「何なんだ今日は!!」

と叫ぶ。

 バッグの化学繊維を燃やしていた火は、すぐに消し止められた。車掌は周囲の負傷者に救急車を手配したこと、すぐに次の駅まで向かうことを伝え、運転士と同時に一度持ち場に戻る。そして車内放送で爆発が起きたこと、安全のため次の駅まで徐行で向かって運転を打ち切ることを放送で伝える。

 澪は恐る恐る、隣の車両を覗く。

「ひっ!!」

と引き攣った声を上げた彼女は、その場に膝から崩れて前屈みになり、悶えるような声を上げて激しく嘔吐した。折角のフルーツサンドやバナナジュースが台無しになったが、今はそれどころじゃない。

「はぁ……っ、はぁ……っ……」

と息を切らしながら、濡れる目蓋と汚れた唇を震わせる澪は、乳房の間に手をやり、もう片方の手は頭を掴んでいる。心臓の鼓動は、何時になく早く、大きい。

 ……見なければよかった。何故こんなことになったのか。その2つの感情が入り交じっていた。


 澪が見たフォルダブルボストンバッグには、爆薬と時限式の起爆装置が仕掛けられていた。そして、その周囲に無数の釘を敷き詰めていた。爆発の勢いが釘を四方八方に飛散させ、周囲の人を無差別に殺傷できる仕組みだった。

 そして、狙い通りだろうか十数人の乗客が倒れたり蹲ったりして、床や座席などに血が飛び散っていた。

 2日前の、アフロディーテキャッスルでも見なかった……見なくて済んだ……光景が、澪の目の前に広がっていた。

 あまりのことに、澪の手に汗が滲む。澪は力が入らない足でどうにか立ち上がり、窓伝いに歩くも、ドアの手摺りまでは掴めず、再び膝から崩れる。

 「流雫ぁ……怖いよぉ……」

澪は自分の二の腕を掴んで、その体を強く抱き締めながら、震える声で好きな少年に助けを求めた。此処にいないことは、今の自分を抱かないことは判っているのに。

 そして、彼がテロに遭遇した時、何を見たのかが判った気がした。……それでも、怖いのを無理矢理押し殺して、流雫は銃を手に生き延びようとしていた。

 そう思うと、彼は否定……もとい拒絶したがるが、ヒーローそのものだと思った。しかし同時に、今彼が此処にいないことが、どれほど心細いのか……と思い知らされる。

 発狂しそうに、泣き叫びそうになるほど、怖い。


 列車は、ゆっくりと動き始めた。先刻ドアを開けて線路に下りた犯人と乗り合わせた乗客と当たらないように、何度も警笛を鳴らしながら徐行する。

 ようやく永田町駅のプラットホームに着くと、既に警察官や救急隊員が多数駆けつけていた。

 爆発が起きた座席に最も近いドアは、その影響で開かなくなっていたが、他のドアから一斉に全て乗客が降りると、それと入れ替わるように警官と救急隊員が車内に入る。

 騒然とするホームにほぼ全ての駅員も集まる。何人かがスマートフォンを取り出し、カメラのシャッター音が聞こえる。警官と駅員がそれに大声で注意し、同時にブルーシートで目隠しされる。

 澪は他の乗客より遅れて、ゆっくり立ち上がりホームのタイルを踏むと、時刻表の看板にもたれ掛かる。その目はブルーシートを見つめていた。

 近くには、軽傷だった乗客が座り込んでいる。スーツを血で染めていた。

 やがて車内から

「心肺停止!」

と救急隊員が叫んだ。それは、殆どのケースでは事実上の死亡宣告だ。

 頭が無いなど、誰が見ても死亡していることが判る場合を除いて、医師以外死亡宣告を出すことができない決まりらしく、搬送先の病院で改めて宣告されるのだろうか。

 担架に乗せられた負傷者が運び出されていくが、中には全身を布で被されたのも有る。

 澪は唇を噛み、自分の二の腕を掴んで俯く。

「どうして……」

どうして、こんなことに。2日前も、同じだった。


 殆どの乗客は既に長いエスカレーターを上がっていた。乗客の一部は駅員に詰め寄り、別の警官に宥められる。地下鉄の側に落ち度は無いのは明白なのだが、まさか自分が乗っていた地下鉄で不審物の爆発事件に遭遇するとは思っておらず、悪態の一つでもつかないと、正気でいられないのだろう。

 宥められた男は立ち去りながらスーツのポケットからスマートフォンを取り出し、何処かに電話を掛ける。話し方からして相手は自分の後輩だろうか、今起きたことと帰社が遅れることを乱暴な口調で話しながら、エスカレーターを駆け上がっていった。

 「あの爆発の寸前、通報ボタンを押しましたね?」

この列車の車掌が、澪に近寄り問う。

「……開けられたドアの近くに、置き去りにされたようなバッグの不審物が有って……それで……。……まさか、爆発するなんて……」

澪は答える。

「その時、何か怪しそうな人とかは……」

「特には……」

と澪は答える。確かにあの時、バッグだけが置かれていて、その周囲にはごく普通の乗客しかいなかった。尤も、その「ごく普通」に見えるのが、何よりも危険なのだが。

 同時に、澪は頭に浮かんだことを言った。

「……もしかして、あのドアを開けて出て行ったのは……バッグの持ち主」

 ……あれだけの威力だ。比較的混み合う車内であんなものを爆発させるなら、そして自爆しないようにするなら、どうするべきか。澪は自分が犯人なら、人を押し退けて別の車両に避難するより、車外に出るだろうと思った。その方が爆発とその混乱から逃れるには好都合だ。

 しかも、犯人にとっては更に好都合なことに、単線ごとにトンネルが掘られていて対向列車の心配は無いし、列車が走るのに必要な電気は列車の屋根上に張られた架線から得る。一部の路線では、トンネルの側面に架線が張られていて接触すれば危険だが、この路線ではその心配が無い。後は、何処かのホーム端から上がれば、どうにかやり過ごせるだろう。

 「しかし何故だ……。何故地下鉄を狙った……」

車掌は澪から目を逸らし、怒りを露わにした。


 1995年、東京の地下鉄で起きた、世界初の化学兵器を使用した無差別テロ。月曜日の朝の惨劇は、日本転覆を企んだカルト教団の仕業だった。それから29年、今度は正体不明の仕業による爆発事件。

 2日前には、ここから数キロメートル離れた臨海副都心でも銃撃によるテロ事件が起きている。誰もがテロに怯え、見えない敵への怒りは頂点に達していた。そしてそれは、澪も同じだった。

 ……何故地下鉄を狙ったのか。地中深くの走る密室では逃げ場が無く、人に危害を与えるだけなら効果的ではあるが、そのためにわざわざ駅間で止めて脱出する必要も無い。そもそも時限式なら、乗換案内アプリでも使って駅の到着時刻を調べ、1つ前の駅で降りればよいハズだ。……止めるべき理由が有った、だとすると何が……。

 堂々巡りに陥りそうになった澪は、思い過ごしであってほしいと願いながらも、新たな騒乱の臭いを感じていた。


 澪はその場で、警察官に事情を問われ車掌への話したことと同じ話をすることになった。警視庁の人間にとって、室堂と云う名字は些か有名なようで、その娘だとして驚かれた。

 事情を問われた、と云ってもその中身は、爆発物となったバッグの特徴と、爆発の瞬間の様子だけだった。

 不穏な音色のアラートが、その話を遮るように澪のスマートフォンから鳴る。国民保護情報だ。画面には「東京、地下鉄で爆発」と表示されていた。

 遅い、と澪は一瞬思ったが、役に立たないワケではない。ただ自分が現場にいたから、誰よりも早く見ただけだ。

 ドアを開けて車外に出た連中と、爆発物の持ち主は間違いなく同じ。そしてどの駅から地上に出たかは、そもそも出たのかも判らないが、逃走している。つまり、未だ脅威が去ったワケではない。

 警察官との話も終わると、澪は漸く別の路線に乗り換えようと思うだけの落ち着きを取り戻した。少し面倒だが、それでも渋谷に行ける。

 スマートフォンが再び鳴った。しかし、先刻とは違う音色。流雫から、パリに着いたと云うメッセージだった。

 澪は躊躇うことなく、初めて通話マークをタップした。


 トリコロールカラーの飛行機がパリ、シャルル・ド・ゴール空港に着陸したのは、定刻より数分だけ早い6時55分。飛行機のセオリーとして、先に機内前方の乗客から降りるため、後ろの座席の流雫はほぼ最後になる。逆に言えば、それだけゆっくり準備できることになる。

 シートベルトを外し、腕と背筋を伸ばすと関節が鳴った。荷物棚に入れた、ディープレッドのショルダーバッグを手にすると、客室乗務員のフランス語での挨拶にフランス語で返し、ボーディングブリッジを踏む。後は、イミグレーションとその後に返却されるスーツケースを引き取るだけだ。

 その前に、澪に一報を入れようと思った流雫はスマートフォンを取り出した。今は離着陸中でもフライトモードにさえしていれば、電源を切らなくて済む。昔は電源を切るルールになっていたから、世の中は変わった。 

 フライトモードを解除して空港のWi-Fiに接続し、

「着いたよ」

とだけ打って、送信マークを押す。

 今彼女が何をしているかは知らないが、そのうち返事が返ってくるだろうと流雫は思っていた。とは云え、ただ無事着いたと云う報告だ。返事が欲しいワケではないが、彼女は遅くなっても返事を返してくる。

 スマートフォンをバッグの表のメッシュポケットに入れようとすると、メッセンジャーアプリから着信音が鳴った。画面には、サバトラの猫の写真のアイコンが表示される。

 澪から通話として掛かってくるのは初めてのことだった。何時もなら文字の遣り取りだけだから、いくらあの2日前のことが有ったとは云え、イレギュラーだった。

 そして、それは何かが東京で起きて、澪が遭遇したのか、と流雫に思わせる。外れてほしいと思ったが、悪い予感に限って当たるのは、もう抗えない運命なのか。

「……澪?」

通話ボタンを押した流雫は、相手の名を呼ぶ。……返事は無い。

「……澪……?」

もう一度、名を呼ぶ。その返事は、泣き声だった。

「……流雫……、……あたし、怖い……」


 澪が恐る恐る語ったのは、彼女が今し方見たことだった。東京の地下鉄で爆発事件、それは流雫も予想していなかった。何より、澪が遭遇しているなど、嘘だと思いたい。大幅にフライングしたエイプリルフールであってほしい。しかし、その声はその期待を微塵も抱かせることはない。

「地下鉄でバッグが爆発して、人が倒れて……。あたしは、ギリギリ無事だったけど……でも、数秒遅れていれば、多分今頃は……」

震える声で、自分が見たことを伝えようとする澪。もし非常ボタンを探すのに戸惑っていれば、爆発で飛び出した釘や割れた無数のガラス片に斬り付けられ、刺され、今頃はよくても救急車の中だった。

 「澪が無事で安心したけど、でも何故……」

そう言った流雫は、無事だったとは云え澪が危険な目に遭ったことを知って、正体不明の犯人への怒りを表情に出した。それは、イミグレーションの列に並ぼうとする人々から見て……日本語で何を話しているのかほぼ全員が判っていないが……近寄り難い雰囲気は有った。

「……怖かった、でも流雫はこんなに怖いこと、何度も遭遇してるのに、それでも……」

澪は言った。……流雫は、何故冷静を装えるのか。あのエレベーターの中でも、冷静だったからこそ、あの判断で生き延びることができた。

 「そうでもしないと、生き延びることができないから、かな……。でも、澪にはこんなの……」

流雫は呟くように答える。

 ……澪には、こう云うのは経験してほしくなかった。

 アフロディーテキャッスルの件は、既に2日前の出来事ながら先刻機内で見た映画や、モノレールや機内から見た東京の景色でも上書きできないほど、鮮明に記憶に残っている。

 自分があの商業施設で経験した限りのことを全て、事細かに話せと言われたとしても思い出すことに苦労しない。

 しかし、その流雫の願いは崩れた。2人は言葉を失った。

「……」

流雫は黙ったまま、自問自答を始めていた。

 彼にとって珍しい3月の帰郷は、7月のパリオリンピックの混雑を避けたかったからだ。しかし、自分が今このフランスにいることは、間違った選択だったのか、と。

 ただ、それでも今日澪と会う約束をしていなければ、同じことになっていただろうが、そう云う問題ではない。

 日本にいれば、列車で2時間掛かるが会うことはできる。多少無理しようと、会って慰めることだって恐らくできるだろう、澪がそれでよければの話だが。しかし、飛行機で12時間以上も離れた地にいては、どうしようもない。

 「……これで、よかったのか……」

流雫は自分が澪の隣にいないこと、彼女から遠く離れた地にいることを嘆いた。


 初めてこのメッセンジャーアプリの通話マークを押した。……声を聞くのは2回目だったが、通話では初めてのことだった。しかし、躊躇しなかった。

「……流雫……、……あたし、怖い……」

澪は、自分を呼ぶ声にそう返した。そしてあの2月、彼が独りで怖いのを押し殺して銃を握っていたのか、と思うと、それだけでどれだけ凄いのか、思い知らされた。

 ……2日前も流雫がいて、だから死ななくて済んだ、助かった……と澪は思っていた。ペデストリアンデッキを逆走してくる少年を、誰かは知らないが最初は

「命知らず」

とさえ思っていた。しかし、その少年……ルナが澪を探していたことが、あの結末に澪を導いた。澪1人だけではどうなっていたか、自分でも想像できない。

 自分も銃を手にしたものの、引き金を引かなくて済んだのは、彼が「汚れ役」を引き受けたからだった。……その末に、護身のためとは云え、そこで撃たなければ殺されるとは云え、銃で人を撃つことへの葛藤に苦しむのは、見るに堪えない。

 それでも、流雫は澪が銃を手にすることをよく思わない。それは、引き金を引いた後に抱えるだろう苦しみがどんなものか、痛いほどに判るからだった。

 そして同じ日、澪は臨海署の休憩室で父の常願に

「……もし、この引き金を引かないといけないのなら、あたしは迷わない」

と言った。覚悟はしていた……ハズだった。しかし、本当に必要な覚悟はその何倍にも及ぶのだと、思い知らされた瞬間だった。


 沈黙の時間が流れた後、

「流雫の声、安心する……」

と澪は言う。流雫は何か言い掛けたが、彼女は遮るように

「……フランス、気を付けてね?」

とだけ言い残して、終話マークを押した。

 ……流雫のことだから、何故自分が今日本にいないのか、と思うだろう。自分が日本にいれば、或いはこんなことになっていないのではないか、と。

 しかし、流雫には1年に一度の帰郷を楽しんでほしかった。それに、今日本にいなくても来月にはまた会えるし、そもそもメッセンジャーアプリではほぼ毎日遣り取りをしている。そう思うと、今流雫が抱えているだろう悩みは、彼の人柄と云うか性格を語る上で大きいことだが、彼には自分が日本にいないことで悩んでほしくなかった。

 そして澪は、流雫の声に助けられたいと思ったからとは云え、通話マークを押さなければよかったと思うようになっていた。彼の帰郷に水を差す形になった、と思って自己嫌悪に陥りそうで。


 乗っていた地下鉄は永田町駅で運転を取り止め、暫くは現場検証などで運休になることは駅の放送で何十回も聞いた。ただ、永田町と赤坂見附、この2駅は多少複雑な動線ではあるが、改札を出ることなく移動できて乗り換えることはできる。

 渋谷方面のホームで地下鉄を待っていると、スーツを着た3人とのすれ違いざまに、まだ雨が降っていると云う話を小耳に挟む。少し前は最寄り駅に着く頃には止んでいてほしい、と思っていた澪は、しかし今は寧ろ、このまま降り続いてほしい……、とさえ思うようになる。

 地下鉄に乗らず地上に出て、傘を投げ捨てて雨に打たれてもいい。そうすれば、狂ったように泣き叫んでも、雨が誤魔化すだろうから。

 ……今から地下鉄に乗って帰ると、どうにか帰宅ラッシュ前には帰れる。晴れない靄を抱えながらも、我に返った澪は雨に濡れることは選ばず、再び渋谷を目指した。

 地下鉄は怖いが、あんなことは超が付くほどレアケースだ。確かに怖かったが、だからと地下鉄に乗らないと云うのは暴論過ぎる。地下鉄に限らず、全ての移動手段が密室になる以上、怖れていては何処にも行けないのだ。

 10分後、当初の予定よりかなり遅れたものの、渋谷に着いた。今度は高架線を走る列車へに乗り換える。人々の往来で濡れたタイルの上を足早に進む澪のスマートフォンが鳴る。SNSのニュース速報だった。先刻の地下鉄の爆発事件の続報なのか?

 澪は人々の動線から避けて駅舎の柱にもたれ掛かり、スマートフォンを取り出した。

 思い過ごしであってほしかった、新たな騒乱の臭い。それは無情にも本物だった。


 ニュース速報、それは8文字だった。

「井上元幹事長暗殺」

澪と同じように、その場に立ち止まってニュースを確認する人もいた。

 井上武雄、享年58。九州は佐賀県の出身で、地元の県会議員を経て国会議員となった。東京オリンピック直後の総選挙で大敗した自由党の幹事長を務めていた。

 野党に回った後もインバウンドによる経済復興を推進し、結果それは叶ったが、その裏で公設秘書の収賄問題が発覚し、幹事長を引責辞任した。

 但し、議員としての職務は抗議の声も多い中、堂々と続投している。国民からの支持率は政党サポーター以外からは極めて低かったが、総理大臣への野心を隠さなかった。

 憎まれっ子世に憚る、と云う言事が有る。憎まれぶりと寿命が比例するのなら、日本最高齢も夢ではなかっただろう。しかし、その男の幕切れは、不適切を承知で云えば予想外で呆気ないものだった。そして、その直前に起きた地下鉄の爆弾事件は、既に忘れ去られようとしていた。


 澪はNR線の改札には向かわず、近くの家電量販店に駆け込んだ。暖房が効いた店内で、真っ先に向かったのはテレビ売り場だった。

 各メーカー自慢の大型テレビの展示品は、今始まったばかりの臨時ニュースを一斉に映し出している。澪の読みは当たった。

 他に数人がいて、澪は端の少し小さめの薄型テレビに目を留める。様々な証言や映像から、その時の様子が秒刻みで更新されていく。


 現場となったのは、国会議事堂だった。

 ナンバープレートを取り付けていない外国製のSUVが、T字路状の交差点から正門に乗り付けた。大きく頑丈な正門は施錠され、脇には警察官が立っている。

 そのうちの1人が車に近付こうとした時、窓から機銃を出して射殺し、詰め所から飛び出してきた警察官も同様に蜂の巣にした。それが合図となって2人が車から飛び降り、国会の建物を目指して走った。車はその場から急発進で立ち去る。慌てて別の警察官が止めに入ろうとするも、機銃掃射の前には近寄れるハズもなく、阻止に失敗した。

 今日の国会は、衆議院でのテロ対策の審議が何時にも増して大荒れだった。結局、今日の審議を打ち切って翌日に仕切り直すことに決まったばかりだった。

 各議員がそれぞれ退場する中で、井上議員は報道陣に囲まれながら出てきたばかりだった。これから、自由党本部へ向かうところだった。

 そこに、機銃を持った犯人が突然飛び込み、議員の右脇腹を銃ではなく隠し持っていた刃物で刺す。報道陣の目の前で起きた、文字通り一瞬の出来事だった。SPが2人を取り押さえたが、既に遅かった。議員はオートクチュールのスーツの右側を血塗れにし、前のめりに倒れる。その数秒後に失った意識を取り戻すことは無かった。

 そして2人は胸ポケットに隠していたカプセルを喉に押し込み、その場で服毒自殺した。

 その様子の一部始終が、夜のニュース用に記録されていた。本来は大荒れの国会でナーバスになった議員連中の表情目的だったのだろうが、語弊を招く言い方をすれば思わぬ収穫だった。

 あまりにも生々しい映像だけに、流石に一部はカットされているが、放送されていた分だけでも、誰もが混乱の渦に飲まれているのが判る。


 正体不明のグループによる計画的な犯行であることに、疑いの余地は無い。しかし、そのニュースを20分ほど見続けていた澪は、間違っていてほしいと願いながらも、戦慄する推理が浮かんだ。

「あの地下鉄は、撹乱のため……?」


 地下鉄の車内で爆発が起きた、とすれば人々の注意はそっちに集中する。それで国会議事堂の警備が手薄になることは有り得ないが、それも想定内だろう。

 地下鉄も、奇遇なことに次の停車駅が永田町だった。まさか、この刺殺事件の予兆だった……?

「……まさかね」

澪は呟く。

 いくら何でも、出来過ぎている。いくら事実は小説より奇なり、とは云うものの、流石にそれは無いだろう、と思った。……否、思いたかった。

 澪は、数台並んだテレビの臨時ニュースが何度も繰り返し同じ映像を流す中、それに背を向ける。雨が止まないのは、もう諦めた。

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