1-11 Mistic Prayer

 今日から春休みなのだが、澪は普段通りに目を覚ました。ベッドの上で、背筋を伸ばす。

 朝から曇り、昼過ぎには雨が降ると云う昨夜の天気予報に裏切られた。1時間前、寝ている時から雨が降り出していた。

 雨足は弱いが、1日の始まりには相応しくない。昨夜、流雫とメッセンジャーアプリで遣り取りしていた頃は晴れて、星空も見えていたのに。

 結奈と彩花、何時もの同級生から遊びに誘われたが断っていた澪は、この天気を見て、判断は或る意味正しかったと思った。しかし、昨夜都心に出ると急遽決めた。やはり、正しくなかったことを思い知らされる。

 ただ、それは正しくなくても予定通り行くことにした。どうしても行きたかったのは、渋谷だった。……行きたいと云うより、行かなければならない、と思っていた澪は、2日前と同じ服をクローゼットから取り出した。


 2021年7月、当初の予定より1年遅れて、東京オリンピックが開幕した。しかし、前年に発生したパンデミックが続く中での強行は、史上初の無観客となった。

 日本は巨額の税金を投じて会場や関連する建造物を次々と建設、整備したが、その支出をペイする唯一の手段だったチケット収入を失うことになった。その一方で放映権を牛耳る外国メディアが経済面で一人勝ちだった。

 その結果、当時の政権に対する批判が勃発して連日デモが相次ぎ、挙げ句開会式当日はセレモニーの最中に会場外で発生した大規模なオリンピック反対デモが暴動に発展した。東京オリンピックはその歴史上、最も自国民から歓迎されないイベントとなった。

 オリンピックとパラリンピックが終わるまでデモは毎日続いたが、外国メディアもオリンピックよりデモの報道に注力し、分裂する日本と云う見出しで連日報じた。

 困難に打ち克った象徴をアピールしたかった政府だが、それは3年後のパリに譲らざるを得ず、代わりにスポーツの感動で世界にエールを送り、宇宙船地球号のクルー同士として団結を呼び掛けるための舞台に方針転換した。

 そのために、アフリカの飢餓救済のためにアメリカでリリースされた、1985年のチャリティーソングをアレンジしたテーマソングを、急遽用意すると云う有様だった。

 しかし、最後まで国民の心を掴むことはできず、閉会式も会場の外で暴動が発生し、オリンピック史上最も後味が悪い大会として、記録されることとなる。

 そして、開会式と閉会式で暴動が起き、醜態を全世界に晒すことになった結果、閉幕翌日にこれに対する引責と云う形で、政府は内閣総辞職と衆議院の解散総選挙に追い込まれた。


 国の威信を賭けたオリンピックが無観客で、しかも反対の世論を置き去りに、威信と実績と政治アピールのために強行した、と世界から嘲笑の的にされると云う惨憺たる結果に終わった日本。

 しかしその1ヶ月後には、ワクチンの普及に目処が立ったことを理由に、全世界からの渡航制限を急遽解除した。伸び悩む内需に期待できず、インバウンド需要の復活を中核として据えたオリンピックで為し得なかった、経済のV字回復に躍起となった。

 それと同時に発生した、連日の解除撤回デモを理由に渡航の注意喚起情報が各国で発報されるものの、その年の冬には更なるワクチンの普及によって、それまでの2年近くの反動と云わんばかりに、訪日外国人が連日大量に押し寄せた。

 政府の目論見より数ヶ月遅れたが、インバウンド特需に再び沸き返った日本の経済は、徐々にかつての勢いを取り戻すようになった。その一方で新たな問題にも直面していた。


 日本は島国なのは、外国のことを海外と呼ぶことでも判る。陸伝いに入国することは不可能で、海か空からの入国に限られる。その海からの、密航による不法入国が相次ぐようになった。海上保安庁の摘発でも防げず、更には入国後の所在が不明になるケースも多発する。

 そして、それと時を同じくして、新たなデモが勃発するようになる。不法入国の難民、その保護を求める運動が起きると、それに絡んで右翼団体と左翼団体の衝突が大都市を中心に発生するようになる。互いのイデオロギーが、デモを監視する警察や機動隊の目の前で一触即発を繰り返し、常に緊張状態が続いた。


 2022年冬、完全に集団免疫がついたことで、日本は以前とほぼ変わらない状態に戻った。しかし、難民や密航者を巡る問題は何の解決も進展も見られなかった。

 2023年に入ると密航者の支援組織が関与しているとされる、特定の宗教を標的とした教会襲撃事件も連続で発生したことで、警察の厳戒態勢もピークに達していた。

 そして8月、事態は最悪の方向へ転び、新たな局面を迎えた。それが、東京同時多発テロ事件……通称トーキョーアタック、日本で2度目の大規模な無差別テロだった。


 東京中央国際空港と同時に、そのテロの舞台となったのが、スクランブル交差点で有名な繁華街、渋谷の駅前広場だった。甚大な被害を受けた渋谷は、急ピッチで復旧……最早復興の方が正しいか……工事に追われていた。

 トーキョーアタックで半ば壊滅的な被害を受けた渋谷。……何が犯行動機だったか、澪には判らない。

 ネットで見たニュースでは、一種の宗教問題が根底に有ったのではないか、と云われている。しかし不思議なことに、犯行声明はあれから7ヶ月が経った今日に至るまで、全く出されていない。


 日本は、システミックレイシズムが多過ぎる。澪の父、室堂常願は何度も娘に言った。レイシズムが、社会に組み込まれている。恰も、それが当然と云ったように。

 複数の宗教が混在する日本では、例えば中東でよく起きる宗教問題に起因するレイシズムは、端から見て起きていないように見える。しかし、裏では少なからず起きている。そして、国籍を起因とするそれも、悪意の有無を問わず存在する。

 国の経済力を起因とする、自称先進国としてのマウントは今に始まった話ではない。だが、インバウンド需要の劇的な回復の裏で深刻化する難民の不法入国問題が、特に東アジアに対してのレイシズムを助長している、とは何処かの専門家がネットの記事に寄稿していた。

 日本は日本人でないもの……混血や在日外国人など……に対する揶揄が強いが、澪は流雫からはその話を殆ど聞いたことが無い。それは、自分が日本人とフランス人との混血だから、と彼は語っていた。

 流雫の肌の色は色白な黄色だが、生まれつきシルバーヘアであること、そしてアンバーとヨーロッパ系に多く見られると云うライトブルーのオッドアイ……虹彩異色症と云う症状……の瞳をしていることで、血統的には日本人ではないことが判る。

 流雫と云う名前も、フランス語で月に絡めた単語からルナと名付けられた。流雫はその当て字だ。

しかし、いくら西欧の血が混じっていると云っても、何がきっかけで目の敵にされるか判らない、と云う不安定さも抱えていた。

 ……こう云う、社会の中でシステム化されたレイシズムは、保守思想側からすれば日本には存在しないことになっている。自国礼讃自体は悪いことではないが、レイシズムの秘匿や隠蔽は間違いだと、澪は思っている。現に、日本では多数発生しているのだから。

 しかし、その一方で澪自身、無意識にレイシズムの片棒を担ぐことはしていない、とは断言できない。だからシステム化されている、と云うのだ……。


 彼方此方で重機の音が鳴り響く渋谷。トーキョーアタックからの復興工事と、以前から続く再開発工事が重なる。その駅前広場の一角に、大きな慰霊碑が建っていた。大理石の直方体で、言い方は悪いが無骨だが、それが己の存在をアピールしている。まるで、復興工事があの日を忘れさせようとしていることに、抗うかのように。

 繁華街としての景観を損なう、として反対の陳情も有ったとニュースで報じられていたが、区の意向で事件から2ヶ月が経った10月末に設置されたそれには、2023年東京同時多発テロ事件の犠牲者を弔う旨を刻んだレリーフが埋められている。その前の献花台には、設置以来献花が絶えることは無かった。

 近くのフラワーショップでも、そのための花束が売られていた。ネイビーの傘を差した澪は一束だけ購入し、献花台に静かに置くと、目を閉じて手を合わせた。


 あの日、澪は朝から図書館にいた。結奈と彩花と3人で、夏休みの宿題のラストスパートを仕掛けようとしていた。近くのコンビニで買ったサンドイッチと野菜ジュースをランチタイムに挟みながら、ひたすらノートと宿題用に配布された問題集相手に睨めっこを続けた。

 持込の宿題が殆ど終わった時、館内のデジタル時計は15時を示していた。遠くで大きな音が響き、僅かに建物が揺れるのが判った。誰もが地震かと思ったが、しかしそれは一瞬で止む。音が地震のそれではないことが気になりつつも、誰もが安堵の表情を浮かべ、中断した作業を再開させる。

 その数分後、突然ミュートに設定してあるハズの澪のスマートフォンから、大音量のアラートが鳴り響いた。設定の時にしか聞いたことが無い、甲高いサイレンのようなアラート。

 ……国民保護情報。テロやミサイル落下が予想される際に発報される。緊急地震速報のそれとは、また違った音だ。

 それは澪だけでなく、その場に持ち込まれていたほぼ全てのスマートフォンも同じで、アラートの合奏が始まった。同時に、館内にJアラートが鳴る。低く吼えるような音は、更に不安と恐怖を駆り立てた。

 そして、それが合図となったかのように、緊急速報が立て続けに入る。

「渋谷で爆発……!?」

画面を見た澪が思わず声を上げると、突然の音で混乱し始めていた他の人々も、学習そっちのけで各々のスマートフォンを片手に最新情報を追い始めた。


 渋谷で爆発。トラック爆発、テロか。死傷者多数、渋谷駅前。駅周辺にも甚大な被害。渋谷パニック、何が。

 ……短文の速報が、文字通り洪水のように押し寄せてくる。SNSは、処理能力を超える大量のアクセスを受けたためか、アプリからは情報の更新ができず、ブラウザからはそれによる接続エラーを示す、所謂503エラーを起こしていた。

 誰もが、何が起きているのか知ろうとし、また伝えようとした結果、その2つを結ぶシステムがダウンしたのは、社会インフラの側面さえ担っている強力なオンラインコミュニケーションツールの脆弱さを露呈した形となった。それは、オンラインネイティブ世代の澪にとっては、最大級の皮肉に思えた。

 図書館中が、最早その情報で持ちきりになっていた。読書や学習など、誰もがそっちのけだった。

 それまで、国民保護情報やJアラートが訓練以外で発報されたことはあまり無かった……「北の国」からの洋上に向けたミサイルが発射された時ぐらいか……のに、まさか日本で28年ぶりにテロ事件が発生し、そのアラートだとは誰もが信じ難く、受け容れ難い現実だった。

 やがて、新木場のヘリポートから一斉に飛び立った報道ヘリのビデオカメラが、煙と炎に包まれる渋谷の爆心地を捉えた。それは、音声をミュートにしながら国営放送ニュースを流している、ロビー大形液晶テレビに映し出される。誰もが驚きと戸惑いの声を上げつつ、画面に釘付けになっていた。

 ミサイルでも直撃したかのような惨劇に、全身に鳥肌が立つのが判った。そして、思い知らされる。それが、職員が間違って流した映画の1シーンではなく、現実に起きているのだと。


 父、常願はその日から、数日間家に帰って来なかった。後にトーキョーアタックと呼ばれるようになる、東京同時多発テロ事件に絡み警視庁の職員が総動員となった。

 職場結婚の末に、澪を育てるために警視庁を退職した母の室堂美雪は、前職の血が騒ぐのか、一層地域の安全問題に傾倒するようになった。

 夕方、澪は家に帰り着く。しかし、少しだけ残った宿題の続きなど、手に着くハズもなかった。鬱陶しいほどに蒸し暑い、8月最後の日曜日のこと。


 そして、此処で命を落とした1人の少女の存在を、澪は意識していた。だから、雨が降っていても渋谷に行くと決めた。そして今、その場に立っている。

 逢ったことは無い、ただ流雫から名前を聞いただけの、美桜と云う名の少女。自分と同じ名前で、彼が自分に面影を重ねていたと言っていた。

 彼女がどんな人なのか、澪には判らない。しかし、トーキョーアタックさえ起きなければ、今頃も彼は彼女と仲よくやっていたのは想像に難くない。尤も、澪と知り合うことさえ無かっただろうが。

 なのに、この場所でほぼ即死だった。流雫からは、そう聞かされた。何かを思う瞬間も与えられなかったのだろう。好きな人に別れの言葉さえ言えない……そう云う非情なことが、あの日死者の数だけ起きた。

 人の命が脆く、運命とは残酷なものだと思い知らされた。否、残酷と云う言葉も、彼女にとって失礼なのではないか。そして、弔いの言葉でさえも。

 美桜に掛ける言葉を見つけられない澪は、無意識に自分が泣いているのが判った。美桜が全てを失った瞬間を思うと、その苦しみが突き刺さって、それが頬を濡らしているのか。

 ……美桜が生きていたかった今を、澪は生きている。そして、彼女が好きだった人に一番近い位置に、自分がいる。彼女の死まで、何の接点も無かったのに。

 ……あたしが流雫といられるのは、美桜と云う少女が死んだから。そのたった一つの現実を意識すると、その場から動けなかった。


 ……端から見て、傘を差したまま佇む澪は、少し異様に映っただろう。雨足が強まる中で、ローファーとサイハイソックスを濡らしながら、慰霊碑の前で十数分……いや、それよりも長く、微動だにせず、目を閉じたまま立ち尽くしていたのだから。

 傘は、今の顔を隠すには好都合だった。もし傘を閉じても、雨に濡れたからと言って、誤魔化せるだろう。こう云う時だけは、雨は好きだ。

 そして、雑踏を掻き消すように布地を打つ不規則な雨音を、一生忘れることは無いだろう……と、澪は思いながら目を開ける。滲む視界は、落とした視線の先で春の冷たい雨に打たれるグレーのレリーフだけを映していた。

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