母と父のこと


 高校を卒業した翌日に、琴は髪を染めて短く切った。もっと明るい色にしたかったがブリーチするのが面倒で、暗めのキャラメル色に留めた。

 卒業した後からほとんど切ってないため、髪色だけはキープさせて、三年で高く結んでも肩にかかるくらい伸ばした。

 写真に映る母は綺麗な長い黒髪だ。会う人会う人に母に似ていると言われたから、黒い髪を変えたくなったのだ。


 琴はこの数年、祖母との二人暮らしが続いていた。

「いつまで寝ているんだい、琴。いい加減起きな」

「まだ八時だよ。今日はバイトないからもう少し寝たい」

「いいからさっさと朝食食べな」

 十時過ぎに体を起こし、のそのそと身支度をした。

 祖母は琴の行動を予知レベルで熟知しており、琴が部屋から下りてきたタイミングで、土鍋から炊立ての白米を茶碗いっぱいに盛った。

 お茶漬けのトッピングにあられ、海苔、梅干し、高菜、鮭が小鉢に入り、二杯分の炊立ての白米が大き目の茶碗に盛られている。

 そして急須にはかつおだしが入っていて、蓋を取ればその匂いだけで胃が喜んでいるのが分かった。

ぺろりと二杯平らげ、琴はそのまま仰向けに寝転んだ。だしの効いたお茶漬けは二日酔いにはとてもいい。

 祖母のこういう細やかな気遣いには脱帽だ。

 家事が不得手だった母に代わり家事のほとんどをこなしていた。正確には母は柳家に嫁いできた身であったため、娘が一人増えたようなものなのかもしれない。しかし味噌汁すら作れなかった母に、オムライスを作れる程に教え込んだのも祖母の才能の一つだった。


 仏壇に手を合わせていた祖母に続き、琴も手を合わせた。


琴の母は七年前に亡くなっている。

祖父は父が子どもの頃に早世したため、祖母は息子を女手一つで育ててきた。祖母は勝手に息子が成長したと言い、父もまた祖母の言いつけなど守ったことがないと主張した。不思議な親子関係であるが、素直ではないところが彼ららしい。

そして、母のみならず父もこの家にはいなかった。

父は、母を失ってから様子がおかしかった。

掴みどころのない父は、母の死に悲しむ素振りを一切見せなかったのだ。寧ろいつもと変わらない態度に琴は困惑した。最愛の妻を亡くして、どうして変わらずにいられるのだろうと。

そして、母が亡くなってその一年後に姿を消した。

琴が分からないところで、母の死が父を苦しめていたのだ。

しかし久々の父からの手紙から、安否は確認できたが、母が死んでから父はこの釜業に帰って来ていない。

「あと二十日でお母さんの誕生日だね」

 朝食の後片付けをしながら、琴は祖母の様子を伺った。

「ああ、そうだね」

 今日は七月一日。二十日後の七月二十一日は母の誕生日であり、命日だ。

 祖母は母を実の娘のように可愛がっていた。母のことを話すのは琴は少しだけ勇気が必要だった。

「お父さん、また変なもの送って来なきゃいいけど」

 父は変人だった。それは釜業を離れた今も変わらない。

 釜業に戻れば、最愛の妻の死を思い出して悲嘆に暮れる、というような繊細な心の持ち主ではなかったと、琴は離れて久しい父の性格を思い出す。先日届いた手紙には二か月ぶりと書いてあったが、実際は半年ぶりで、父の中の時間の感覚がおかしくなっているのだろう。それでも母の誕生日だけは忘れずにいるのだから、意味が分からない。

 そして父から母へのプレゼントはアフリカや中国のよく分からない置物ばかり。祖母は律儀にそれを仏壇に並べているので、おかげで仏壇は異国情緒に溢れて気味が悪いことになっている。

――――まあ、お母さんも変だったし、いいか。

 まさにこの夫にしてこの妻ありといった変人夫婦だった。

「娘の高校の卒業式にも顔を出さないボンクラに構っている暇はないからね」

 厳格な祖母からどうして父のような放蕩な息子が育ったのか、思案するだけ無駄であるが、少なくとも人としての琴が育ったのは祖母の影響が大きい。

自分のことを心配し、叱り、育ててくれたこの恩義ある祖母に、琴は二つの秘密を抱えていた。

一つ目は、母が鬼であること。

二つ目は、その娘もまた鬼であったこと。

 この秘密は墓まで持っていく覚悟だ。

 鬼を辞めても救われたのは、祖母との生活の時間が増えたこと。私はこれをこれから守っていけばいい。

「おばあちゃんってさ。お父さんとお母さんの結婚に反対しなかったの?」

「何だい、今更」

 確かにその二人から生まれた自分が何を言っても確かに今更ではある。

「いや、だってお母さん、少し変だったじゃない。その、浮世離れしているというか」

 娘を生んでもなお、地に足が付かない母。鬼である以上、行方知れずになることだって多々あったはずだ。それを不審に思わない祖母ではないはずだ。

「私から見たら阿保な息子に嫁いでくれるなんて、有難いことはないさ。騙されているんじゃないかって思ったくらいなんだから。連れてきた時には、『勿体ない、他にいい男なんてごまんといる』って言ってやったのさ」

「そ、そうだったんだ」

――――父よ、随分な言われようだぞ。

 祖母の器が大きいのか、父の放蕩ぶりで慣れているのか。いや、その両方なのだろう。

「後はこの馬鹿な孫娘を貰ってくれる奇特な人がいればねえ」

「息子が阿保で孫娘は馬鹿ですか」

「おや、違うのかい?」

「うーん、否定はしないけど」

「ついでに嫁は間抜けだよ」

「………」

「阿保な夫と馬鹿娘を残して死ぬなんて、本当に間抜けだよ。あの子は」

 お茶を淹れながら祖母は力なく言葉を漏らした。

 祖母は母を時折「あの子」と呼んだ。その声はいつだって慈しみに満ちていて、寂しそうだった。祖母の中で母の死は未だに生々しい傷のまま残っている。

――――私もいつか、祖母をまた傷つけることがあるのだろうか。

 鬼と人間の両方の世界の狭間にいて、それを愉快に感じている時もあった。しかし今はもう違う。

 騙したままでも、この関係を崩すことだけはしたくない。

 だけど、人間のままでは果たせないこともあった。


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