建安七子って?
曹丕と親交のあった当代の文人のうち特に優れているとされる七人のこと。
彼ら七人を中心とした建安文学サロンは中国史上最も古い文学サロンであるという見方もあります。
曹操・曹丕・曹植というパトロンのもと花開いた建安文学は、当代主流の文学と異なる点があります。それは儀礼や慣例に囚われず、個人の感情に目を向けている点です。彼らの文学はその後の六朝詩、そして唐詩に影響を及ぼすこととなりましたが、しかし七子はみな長生せず、讒言や疫病によって後漢末の乱世に卒しました。
彼らの死から間もなく書かれた曹丕『典論』論文には、次のようにあります。
今之文人、魯國孔融文擧、廣陵陳琳孔璋、山陽王粲仲宣、北海徐幹偉長、陳留阮瑀元瑜、汝南應瑒德璉、東平劉楨公幹、斯七子者、於学無所遺、於辭無所假。
今の文人は、魯国の孔融文擧、広陵の陳琳孔璋、山陽の王粲仲宣、北海の徐幹偉長、陳留の阮瑀元瑜、汝南の応瑒德璉、東平の劉楨公幹、斯の七子は、学に於いて遺す所なく、辞に於いて仮る所なし。
当世の名だたる文人と言えば、魯国の孔融、字は文拳、広陵の陳琳、字は孔璋、山陽の王粲、字は仲宣、北海の徐幹、字は偉長、陳留の阮瑀、字は元瑜、汝南の応瑒、字は德璉、東平の劉楨、字は公幹、以上の7人は、学問を幅広く修め、その言葉にはそれぞれ独自の世界観がある。
(書き下し文、日本語訳は http://sikaban.web.fc2.com/shronbun.htmを参考にしました。)
七子と七人でまとめられていますが、七人全員が同時に文学サロンで活躍した時期は208年の数ヶ月のみで、ほとんどありません。また、幅広い世代の七人が揃っています。表のようにするとこのような感じです。(生年不明の人物については諸説の一例を持ってきています)
名前 生年 没年 208年時点の年齢
孔融コウユウ 153年 208年 56歳(享年)
陳琳チンリン 155年? 217年 54歳?
阮瑀ゲンウ 165年? 212年 44歳?
徐幹ジョカン171年 218年 38歳
劉楨リュウテイ175年?217年 34歳?
応瑒オウトウ 175年? 217年 34歳?
王粲オウサン 177年 217年 32歳
みな豪族か名家の生まれのようで、深い教養のある人物たちだったそうです。それぞれの簡単なプロフィールを紹介すると、
・孔融→孔子の子孫の屁理屈屋
・陳琳→あるじの鞍替えを繰り返す文章家
・阮瑀→学者蔡邕の弟子で琴の名手
・徐幹→引きこもりの政治・思想学者
・劉楨→前漢文帝の子孫、当代きっての詩人1
・応瑒→憧れた学者になりきれなかった詩文家
・王粲→当代きっての詩人2、ハングリー精神の男
七人とも個性も作風もバラバラですが、戦場や宴席で同じお題で詩を作るなど、サロンの一員を担っていました。
(七人の簡単じゃない紹介ページは後ほど)
七子は文学サロンで共に作品を作る以外にも、それぞれ関わり合っています。整理するとこんな感じです。
○孔融と
陳琳…何進の元で洛陽防衛にあたった同僚。七子の中で「漢王朝」に仕えた事のある二人。
応瑒…袁紹のもとにいた時期が被っているかも。
○陳琳と
孔融…先代?の軍謀祭酒(軍事書記官長)
阮瑀…軍謀祭酒と記室(書記長)の同僚、あらゆる文書の起草を二人で担う。他者の推敲を必要としない。
王粲…曹操の丞相昇格後の軍謀祭酒。
○阮瑀と
陳琳…二人して外交文書が残っている。
王粲…同じ蔡邕門下生。
○徐幹と
劉楨…曹丕、曹植に仕えた同僚。
応瑒…上に同じ。
○劉楨と
徐幹…徐幹に贈った詩が文選に入っている。
応瑒…役職が割と同じ。不敬事件(劉楨紹介ページ参照)で左遷された時の劉楨の後釜が応瑒だったかも。
○応瑒と
徐幹…曹植が臨淄に飛ばされるまでは同僚。応瑒は曹丕、徐幹と劉楨は曹植と袂を分かつ。
劉楨…分かつとは言っても存命中はまだ迫害が厳しくなかったので曹丕の宴で顔を合わせたりしていた。
○王粲と
陳琳…孔融亡き後は年長者の陳琳と共に文学サロンの筆頭であった。
阮瑀…阮瑀が亡くなった翌年に阮瑀の妻を書いた寡婦賦を書いた。
【資料編】
以下、七子の人生を概観した略年譜です。諸説あるものもあります。
153年(永興元年)孔融誕生
155年(永壽元年)陳琳誕生?
162年(延熹五年)孔融十歳、父に従い洛陽に移り住み、時の名士である李膺を欺いてみせる。
163年(延熹六年)孔融十一歳、父が急逝する。
165年(延熹八年)阮瑀誕生?
166年(延熹九年)第一次党錮の禁。李膺ら二百人余りが投獄される。
169年(建寧二年)第二次党錮の禁。
孔融十七歳、逃亡中の張儉を家に匿ったことにより、家長であった兄の孔褒が処刑される。
171年(建寧四年)徐幹誕生。
175年(熹平四年)陳琳約二一歳、張昭と王朗の論戦を評定する。劉楨・応瑒誕生?
176年(熹平五年)阮瑀約十二歳、この頃蔡邕に師事した?
177年(熹平六年)阮瑀約十三歳、讒言により蔡邕が揚州へ亡命。これに従ったか。王粲誕生。
180年(光和三年)孔融二八歳、時の司空である楊賜に召し出される。
183年(光和六年)劉楨約九歳、あらゆる書をそらんじ神童として名が知られるようになる。
184年(中平元年)黄巾の乱勃発。孔融三二歳、陳琳約三十歳、何進掾属となり洛陽防衛にあたる。
徐幹十四歳、学問を志す。
186年(中平三年)孔融三四歳、虎賁中郎将へ昇進する。
188年(中平五年)王粲十二歳、父の王謙が何進の怒りを買い免職、間もなく病没する。
189年(中平六年)孔融三七歳、董卓に逆らい左遷。陳琳約三五歳、何進暗殺により冀州へ亡命。
阮瑀約二五歳、蔡邕が董卓に招聘される。これに従ったか。
徐幹十九歳、五経を修め、更なる学問のために家から出てこなくなる。
190年(初平元年)孔融三八歳、北海郡に派遣されるも黄巾の残党に迎撃され敗走。
応瑒約十六歳、董卓の長安遷都により家財を失い放浪生活が始まる。
王粲十四歳、蔡邕に師事、蔵書を相続する。
191年(初平二年)孔融三九歳、太史慈を遣わして劉備に北海郡平定を要請する。
陳琳約三七歳、冀州を支配した袁紹に仕える。
192年(初平三年)阮瑀約二八歳、董卓を暗殺した王允により刑死した蔡邕の廟を作る。
王粲十六歳、王允に司徒等へ招聘されるも辞退する。
194年(興平元年)孔融四二歳、劉備に徐州牧を勧める。
196年(建安元年)孔融四四歳、親友の禰衡が司空となった曹操により処刑される。
陳琳約四二歳、同郷の臧洪へ降伏勧告を行うが失敗。
王粲二〇歳、この頃劉表に仕えたか。
197年(建安二年)孔融四五歳、この年に亡くなった張儉の墓碑銘を書く。
王粲二一歳、仙人の張仲景に短命を予言され仙薬を勧められるが断る。
200年(建安五年)陳琳約四六歳、官渡の戦いにおいて袁紹軍を鼓舞する檄文を書く。
204年(建安九年)陳琳約五〇歳、袁尚の使者として曹操に降伏を申し出るが拒絶される。
阮瑀約四〇歳、曹洪と曹操からの招聘を拒むと脅迫され、曹操へ出仕する。
劉楨約三〇歳、曹操の鄴攻略に従軍する。
205年(建安十年)陳琳約五一歳、曹操に降伏し記室となる。
応瑒約三一歳、曹操の北征に従軍する。
206年(建安十一年)徐幹三六歳、この頃曹操に仕えたか。
208年(建安十三年)曹操が丞相に就任。孔融五六歳、曹操に処刑される。
王粲三二歳、劉琮に曹操へ降伏させる。
七子は概ね荊州征伐と赤壁の戦いに従軍している。
211年(建安十六年)曹丕が五官中郎将に就任。
劉楨約三七歳、不敬事件を起こし投獄されるが曹丕による助命嘆願によって降格に留まった。
212年(建安十七年)阮瑀約四七歳、病により死去。
213年(建安十八年)王粲三七歳、荀攸と共に曹操へ魏公就任を進言する。曹操が魏公に就任する。
214年(建安十九年)曹植が臨淄侯に封ぜられる。
216年(建安二一年)曹操が魏王に進む。徐幹四六歳、政治思想書『中論』執筆を開始する。
217年(建安二二年)陳琳約六三歳、劉楨応瑒約四三歳、王粲四一歳、疫病により死去。
218年(建安二三年)徐幹四八歳、疫病により死去。
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