孔融文挙(こうゆうぶんきょ)
孔融文挙(こうゆうぶんきょ)
後漢書巻七〇 列伝第六〇、三国志巻一二 魏書一二など
一五三(永興元)~二〇八(建安一三)
青州魯国曲阜県(現在の山東省済寧市曲阜市)
・孔子二十世の子孫。直言居士の減らず口。
幼いころ人に「いま賢くても大成するとは限らん」と言われ、「じゃあおじさまは幼いころ大層賢くおいでだったんですね」と鋭いアッパークローを返す。皮肉の達人。
・「そんなに言うならやってみろ」と黄巾の乱真っ只中の北海国に放り込まれ、案の定国をめちゃくちゃにするだけして都に逃げ帰ってきた。政治の才能は無かったようだ。
・曹操の事が大嫌い。20歳ほど年下の禰衡(でいこう)とつるんで様々な論客と日々バトっていたが、禰衡が曹操に干されて死んでからは、露骨に曹操のやることなすことを皮肉りだす。
たとえば曹操が禁酒令を出すと、「景帝が酔って女を抱いたから後漢があるのでは?」(その時にできた子の子孫が光武帝)とか言い出す。屁理屈でしかないが、真っ赤な嘘かと言われると微妙な線なので絶妙に言い返しづらい。
・曹操も孔融は大嫌い。最後は禰衡と同じように、難癖をつけられて曹操に処刑された。
・「ああいえば孔融(こうゆう)」と名前をイジられがちな儒学者もとい過激皮肉家。その過去を見ると、エリートながら乱世に父と兄を失い揉まれてその鋭さを磨いたことが窺える。
153年(永興元年)孔融誕生
162年(延熹五年)孔融十歳、父に従い洛陽に移り住み、時の名士である李膺を欺いてみせる。
163年(延熹六年)孔融十一歳、父が急逝する。
166年(延熹九年)第一次党錮の禁。李膺ら二百人余りが投獄される。
169年(建寧二年)第二次党錮の禁。孔融十七歳、逃亡中の張儉を家に匿ったことにより、家長であった兄の孔褒が処刑される。
一般には、兄弟と母親が互いを庇い合おうとしたという美談とされている出来事。しかし孔融は自身の義侠心による行動のせいで、敬うべき兄を殺してしまう。
180年(光和三年)孔融二八歳、時の司空である楊賜に召し出される。
184年(中平元年)黄巾の乱勃発。孔融三二歳、何進掾属となり洛陽防衛にあたる。
186年(中平三年)孔融三四歳、虎賁中郎将へ昇進する。
189年(中平六年)何進暗殺と董卓の台頭。孔融三七歳、董卓に逆らい左遷。
196年(建安元年)孔融四四歳、親交のあった禰衡が司空となった曹操により許から追放される。
197年(建安二年)孔融四五歳、この年に亡くなった張儉の墓碑銘を書く。
198年(建安三年)禰衡が黄祖に殺される。
これ以後、孔融は遊説家のように色々な所で暗躍し、また曹操のやることなすこと全てに難癖をつけ皮肉ったりしていく。しかし名士である孔融を、曹操はなかなか殺すことができない。(禰衡も追放するだけして自分では手をかけなかった)
208年(建安十三年)曹操が丞相に就任。孔融五六歳、曹操に処刑される。
○作品紹介
「雜詩」
人生自有命、但恨生日希。
人生自ずから命有り、但だ恨む生日の希なるを。
人の生にはもともと限りある命があるものだ。しかし、私は恨む。その生きた日の短さを。
子を失った親の詩。「但恨生日希」は、志半ばで処刑された孔融自身の生涯ともオーバーラップする。
「臨終詩」
生存多所慮、長寝萬事畢。
生存慮る所多し、長寝せば萬事畢る。
生きていれば思いめぐらすことは多いが、長く寝ていれば全ての事は終わる。
「人生をひややかに、虚無的に見つめる」by鈴木修次『漢魏詩の研究』
皮肉の裏には儒家らしからぬ人生観がある。
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