陳琳孔璋(ちんりんこうしょう)

陳琳孔璋(ちんりんこうしょう) 

三国志巻二一 魏書二一など

一五五?~二一七(建安二二)

徐州広陵郡射陽県(現在の江蘇省塩城市射陽県)


・主君が死ぬ度に何進→袁紹→曹操と鞍替えしてきた乱世根性の詩人。特に袁紹は恩人の仇であり、その上で仕官した事に対する友・臧洪からの怒りの手紙が『後漢書』巻五七に残っている。

「行矣孔璋!足下徼利於境外,臧洪投命於君親。」

(行け孔璋!お前は利益を境外に求め、俺は主君や親のためにこの命を投げ打つのだ。)


・袁紹配下にいた時に書いた曹操を罵倒する檄は、曹操自身が読んで感心し、頭痛を忘れる程であった。しかし檄には曹操の父祖をこき下ろす文も。官渡の後袁紹が死に、陳琳が曹操の前に引き摺り出された時、曹操は何故父祖にまで言及したのかと非難する。

 陳琳は深く謝し、「引き絞った矢は射るほか無かったのです」と答えたという。(『文選』注より)


・曹操に帰順後は軍謀祭酒、記室(文書の管理・作成)門下督(都の警備)を務めた。


・地方豪族から名文家へ、乱世をまさに言葉によって渡った尻軽悪口野郎。後世で散々貶されているが、しかし激烈な文体には見るものがある。



155年(永壽元年)陳琳誕生?

175年(熹平四年)陳琳約二一歳、張昭と王朗の論戦を評定する。

184年(中平元年)黄巾の乱勃発。陳琳約三十歳、何進掾属となり洛陽防衛にあたる。

189年(中平六年)陳琳約三五歳、何進暗殺により冀州へ亡命。

191年(初平二年)陳琳約三七歳、冀州を支配した袁紹に仕える。

196年(建安元年)陳琳約四二歳、同郷の臧洪へ降伏勧告を行うが失敗。

200年(建安五年)陳琳約四六歳、官渡の戦いにおいて袁紹軍を鼓舞する檄文を書く。

204年(建安九年)陳琳約五〇歳、袁尚の使者として曹操に降伏を申し出るが拒絶される。

205年(建安十年)陳琳約五一歳、曹操に降伏し阮瑀と共に司空軍謀祭酒となる。

208年(建安十三年)曹操が丞相に就任。記室となる。

211年(建安十六年)曹丕が五官中郎将に就任。この頃門下督に異動。

212年(建安十七年)阮瑀が病により死去。

217年(建安二二年)陳琳約六三歳、疫病により死去。


○作品紹介

「飲馬長城窟行」  

男児寧当格闘死、何能怫鬱築長城。

男児寧ろ当に格闘して死すべし、何ぞ能わん怫鬱として長城を築くを。

男は武器をとり戦って死ぬべき、だのに俺は何故ぐずぐずとくすぶって長城なんか作らねばならないのか。


七音から成る民間歌曲「楽府」の流行は、陳琳たち建安詩人たちに端を発する。


「遊覧」

建功不及時、鐘鼎何所銘。

功を建つるに時に及ばざれば、鐘鼎何の銘する所あらん。

功績を打ち建てるのに機を逃していては、鐘鼎に一体何を刻み込むことがあるだろうか。


「”現実主義”のきびしさ」by鈴木修次『漢魏詩の研究』

華美にも退廃にも走らず、まっすぐ強く現実を見つめている。

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