劉楨公幹(りゅうていこうかん)

劉楨公幹(りゅうていこうかん)

三国志巻二一 魏書二一など

一七五?~二一七

兗州東平国寧陽県(現在の山東省泰安市寧陽県)


・宗室の末裔だが父(一説には祖父)の劉梁は野王県の県令(今でいう市長)で貧乏暮らし。その貧乏生活さえも騒乱で奪われ、各地をさまよっている所を曹操に召し出される。官渡前後から従軍し、その後司空軍謀祭酒、丞相掾属(曹操直属の部下)、五官将文学(曹丕のもとで文学研究をする職か?)、平原侯庶子(曹植の部下)を務めた。

 

・幼いころからその名声は響いていた。八歳の頃には論語や詩賦数万をそらんじ、弁舌は当意即妙で容赦がなかったらしい。どこで見たのか忘れたけど孔融にその才能を認められていたみたいな記述があった気がする。

 

・甄氏に対して頭を下げなかったとして死罪になりかけるが曹丕が助命嘆願をしたことで左遷(石工)に留まっている。その後、平原侯庶子へ異動している。

 

・天才肌の自由人で、上司であり良き友である曹植と曹劉と並び称されることもある。


・漢王室の末裔でありながら乱世に翻弄され続け、それでも意地を通そうとした。天才肌であり、曹操と共に曹劉と並び称されることもある。


175年(熹平四年)劉楨誕生?

183年(光和六年)劉楨約九歳、あらゆる書をそらんじ神童として名が知られるようになる。

204年(建安九年)劉楨約三〇歳、曹操の鄴攻略に従軍する。

208年(建安十三年)曹操が丞相に就任。

211年(建安十六年)曹丕が五官中郎将に就任。劉楨約三七歳、不敬事件を起こし投獄されるが曹丕による助命嘆願によって降格に留まった。

214年(建安十九年)曹植が臨淄侯に封ぜられる。この頃曹植に仕えていたか。

216年(建安二一年)曹操が魏王に進む。

217年(建安二二年)劉楨約四三歳、疫病により死去。


○作品紹介

「雑詩」

安得肅肅羽、従爾浮波瀾。

安にか得ん肅肅の羽、爾に従いて波瀾に浮かばん。

どうにか、あのばさばさと羽ばたける羽を手にいれて、君と一緒に波間へ浮かびに行きたいなあ。


仕事に追われている時の詩。机の前でも彼の魂は自由。


「贈従弟詩」〈其二〉

豈不罹凝寒、松柏有本性。

豈に凝寒に罹らざらんや、松柏に本性あり。

どうして厳しい寒さに患うだろうか、松柏の中に本性はあるのだ。


「感情の潔癖さと、本質にせまろうとするはげしさ」by鈴木修次『漢魏詩の研究』

乱世の荒波の中に何か確かなものを見つけようとした。

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