徐幹偉長(じょかんいちょう)

徐幹偉長(じょかんいちょう)

三国志巻二一 魏書二一など

一七一~二一八

青州北海郡劇県(現在の山東省濰坊市寿光市)


・ 旧家ながらも貧しい家に生まれ、幼少から学問に没頭した。

 仕官を良しとせず、隠棲し読書にふける日々を送っていた。

 裴松之は、曹操に召し出された際も徐幹は病を理由に辞したとするが、『中論』序によれば、徐幹は病をおして曹操の元に参じたとしている。最終的に曹操に仕えていることを考えれば、最初の招集では辞し、二度目以降の招集に応じたのではないか。


・言葉の華美さを追求する時流のなかで一貫して大義や道教、儒教のあり方を追求し、ついには詩文の制作を一切やめて『中論』という哲学書を著した。


・司空軍謀祭酒ののち、五官将(曹丕)文学を務めた。文学指南役のような職だと考えられる。


・旧家に生まれひたすらに学問をし続けた。そして曹操をあるじと見定め、思想家として登りつめた。乱世にあって無欲な学徒であり、詩には教養人の柔らかさがある。


171年(建寧四年)徐幹誕生。

184年(中平元年)黄巾の乱勃発。徐幹十四歳、学問を志す。

189年(中平六年)徐幹十九歳、五経を修め、更なる学問のために家から出てこなくなる。

206年(建安十一年)徐幹三六歳、この頃曹操の招聘に応じ、仕えたか。

211年(建安十六年)曹丕が五官中郎将に就任。この頃五官将文学に就任か。

216年(建安二一年)曹操が魏王に進む。徐幹四六歳、政治思想書『中論』執筆を開始する。

217年(建安二二年)陳琳約六三歳、劉楨応トウ約四三歳、王粲四一歳、疫病により死去。

218年(建安二三年)徐幹四八歳、疫病により死去。



○作品紹介

『中論』「治學第一」

昔之君子、成徳立行、身没而名不朽。其故何哉。學也。

昔の君子、徳を成し行を立て、身没すれども名は朽ちず。其の故は何なるか。學なり。

かつての君子たちは、徳をそなえて振る舞いを立派にし、身が没しようともその名は朽ちなかった。それは何故か。学である。


中論の最初の文。徐幹は、死後曹丕に「不朽の人」と称された。


「情詩」

憂思連相属、中心如宿酲。

憂思連(しきり)に相い属(つ)ぐ、中心宿酲の如し。

憂いの思いは絶えず続いて、体の真ん中がふつかよいのようだ。


「低徊的感傷の中に、哀愁のムードを楽しむ」by鈴木修次『漢魏詩の研究』

厳格な学者でありながら、彼は世を俯瞰して見ていた。

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